佐渡の金銀
家康公が、東京に赴任することを承諾したころ、関東は、大宮あたりは良いが、東京湾までは湿地帯で
潮の満ち引きと重なるととても過ごしやすいとはいかない状況であった、
関東ローム層は、火山灰であるから潮水が浸かるととてもぬかるんで難儀したことであろう。
そこにきて、関東を仕切ってきた、豪族の 衆が、
とても勇まく、坂東武者の抵抗は凄まじかった。
湿地帯で坂東武者の鎮圧を行うことが、
家康公が成さなければならないプロジェクトの第一の課題であった。
関東平野に流れる川を利用して各地域の抵抗勢力を鎮圧することには、拠点となる城を大宮でなく現在の皇居である場所に江戸城を築城する必要があった、そこから各河川をのぼり鎮圧すれば効率的な軍展開ができると考えた。
河口から海に出て再度ほかの河川をのぼって奇襲するには、海が、荒れている時は不可能となる、
そこで河川と他の河川を運河で繋いで海に出ないで
攻撃ができる様に工事をした。
その要である江戸城は、大造成工事となり、
その敷地形状は、現在の皇居のお堀を大きく囲んだ戦艦型であったその奥に五層の天守閣をようした、城を築いてさらにその周りを江戸の町とした都市計画を施行した。
三河から駿府そして織田家の家臣となり、太閤殿下の老中となる、地位にあった家康公とて、
このインフラ整備の資金は、とても賄えるものではない。
そのからくりは、佐渡を上杉から奪い秘密裏に金銀を採掘した。埋蔵量は、その当時の日本に流通していた金の量と、同等のであつた。
この金銀が、大阪に流れた場合、その価値は下がり
金融危機となる。
秀吉の時代、一極集中政治で日の本の物は全て大阪に集められそこで経済がなされ豊臣に財をもたらすシステムとなっていたため、
家康公の関東を納め都市計画をする資金は、大阪へ納めなければならなかった、
家康公の家臣は、とてもその様なシステムでは、
なりゆかないことを家康公に強く進言した。
これが、関ヶ原の決戦の原因となる
家康公は、今川家の人質としての、少年期の幽閉から織田家の家臣としてのキャリアそして、楽市楽座を大阪で実行した豊臣から、真の戦のない世の中を創るため最終決戦に向かった。
将軍となりたかったためと、言われているが、
家康公は、二年で隠居駿府に、入ってしまわれた
それから平和な江戸時代となり、
ペリーが、来航して免疫がなかった日本人には、
パンデミックとなるコレラが、渡来して武士の時代は、終わり大政奉還、天皇家に国は戻され、世界大戦をへて現在にいたる。令和にあったパンデミックは、人類変貌に何が起こったのか。