伽耶韓国
後漢書東の夷伝師升の時代からおよそ100年後、時代は後漢から三国時代に移ります。
その頃編纂された中国の歴史書『三国志』中の「魏書」第30巻烏丸鮮卑東夷伝倭人条の中に「東夷伝」倭人条倭及び倭人の記述がある。
まず「魏志韓伝」のあとに「魏志倭人伝」へとつづきます。
「魏志倭人伝」の倭国の記載には 「倭人は帯方東南、大海の中に在り。山島に依り国邑を為す。旧百余国。漢の時、朝見する者有り。今、使訳通ずる所は三十国。」 「郡より倭に至るには、海岸に循いて水行し、韓国を歴て、乍南乍東し、その北岸、狗邪韓国に到る。七千余里。」 韓国を通り過ぎ、その(=倭の)北岸の狗邪韓国(伽耶)に到着する。
つまり倭は現在の日本とは国境が異なる朝鮮半島の南部からが倭であったとあります。
日本の教科書と韓国の教科書では国名・範囲共に異なりますが、倭国特有の前方後円墳の分布図から見てみましょう。
この分布図から見るとどうも日本の教科書の任那こそが狗邪韓国であったことが想像されます。
韓国政府は否定していますが、一部の韓国の歴史学者等はここは古代 倭の居住地であったと推測しています。
後世新羅に組み込まれたことにより朝鮮であったかのようにドラマ等は制作されていますが、古代伽耶(金海港付近)は倭であったようです。
その民族は現在の朝鮮人とは別の大陸から来た民族です。
御紹介するとまず初代金官伽耶の王となった 金首露
彼の妻はインドのアユタ国=アーンドラ王国の王族でここでも血の交配がありました。
子孫は金越智で現在の日本でいう越智氏の祖先に当たり、彼らの祖先神は大山積神、大山津見神、大山祇神と呼ばれ越智氏が宮司を務める大三島に鎮座します。
また半島に残った一族は「善徳女王」「金春秋」時代の忠臣 金康信へと続きます。
続いて金首露の妻と許皇后の船で一緒について来た兄のアユタ国王子「宝玉仙人」は首露王につかえるのではなく、洛東江を遡った伽耶山に修行の場所を見つけました。
首露王には十男二女の子供がいたが、宝玉仙人はその中の七人の王子を呼んで伽耶山中にて修験者の生活を一緒に送った。
その七人はこの地で成仏し、それを知った首露王がここに「七仏寺」を建立したという。
また娘の妙見王女もこの地で修行に励んで「妙見信仰」の祖になったと伝えられている。
伽耶山に海印寺ができたのはずっと後の時代であるが、この辺一帯には多くの寺院が建てられていたことが「三国遺事」の「駕洛国記」に載っている。「長遊和尚」と呼ばれ卑弥呼などもこの人物の影響を受けたようです。
俗に高木の神と呼ばれるのはこの人物のことを指すようです。
次回は「記紀」に記載される最初の英雄を御紹介します。