Ameba Ownd

アプリで簡単、無料ホームページ作成

Kazu Bike Journey

小豆島八十八ヶ所遍路 13 (04/05/23) 小豆島町 旧池田町 蒲生村 (2)、平木村

2023.05.05 12:31

小豆島町 旧池田町 蒲生村

小豆島町 旧池田町 池田本村 平木村

ウォーキング距離: 14.2km


小豆島町 旧池田町 蒲生村、平木村


今日訪れた小豆島八十八ケ所霊場

第41番霊場 佛谷山

第42番霊場 西の滝 龍水寺


訪問ログ



小豆島町 旧池田町 蒲生村

蒲生村は5月3日に訪れているが、その時は国道沿い中心に史跡を見ている。今日は山側にある史跡を訪問する。小豆島中央高校前までオリーブバスで行き、先日訪れた保安寺まで向かう。道の途中から今日登る大麻山 (おおあさやま、たいまさん) が見える。この大麻山は応神天皇が麻布を振ったとの伝承があるそうだ。(応神天皇がこの山に登ったとは思えないのだが)


クローズアップすると山の中にお堂が見える。北地の第42番札所の西の滝 龍水寺だ。


地蔵尊

保安寺の裏手に遍路道があり、その道が保安寺の奥の院になる第41番霊場の佛谷山に通じている。遍路道は中蒲生と東蒲生を通っており、道沿いには幾つもの供養塔が建てられている。

道を登ると自動車道路に出る。そこに地蔵尊が置かれていた。

ここからは蒲生村が一望出来る。左に小豆島中央高校のグラウンド、右には入部のあさぎ岬、海の向こうには屋島、五剣山。

更に入部のあさぎ岬の西側には土庄の街が広がるの西島、そこからエンジェルロードで繋がっている大余島、中余島が見える。

反対の東側には池田湾、その向こうには三都半島が臨める。

ここで遍路道が寸断されているので、どこかにこの上に向かう遍路道がある筈と思い、自動車道路を上に進みながら探すも見つからない。そうこうする内に、道が分岐し佛谷山への表示が見えた。これが遍路道だったのだろうか? (後で、佛谷山の住職から地蔵尊から少し下にかつての遍路道への入口があると教えられた。次回はその遍路道を通って見よう)


第41番霊場 佛谷山薬師堂

参道を登って行くと道沿いには、幾つもの教えが書かれている。保安寺の住職 (小豆島など西日本ではおじゅっさんと読んでいる) が立てているのだろう。四国遍路をした際に多くのお遍路さんと話をした。お遍路をする人は様々な目的があり、その中には人生に悩みを持ち、お遍路で何かが変わるのではとやってる人もいる。この様な言葉は人により受け取り方は様々だが、この言葉で何かを考えるきっかけになる事がある。特に歩き遍路では、次の言葉までの間に色々と考えるのだろう。この後、本堂で住職夫婦と会い話をさせてもらった。素晴らしい人達で、住職の思いがこの言葉の立札に込められている様に思える。ここで自動車道が終わり、守護神の阿吽の仁王がお遍路さんを迎える。

参道を進むと、鐘が吊るされ、その横には地蔵尊、奥には大師像が置かれている。この参道にの幾つかの言葉の立て札がある。

うしろを振り返えると海が参道の向こうに広がっていう風景が見える。

参道を進み大願門と書かれた山門をくぐると境内に入る。

境内には他の寺院で見られる様な、地蔵尊や仏像がひしめき合っている感じでは無く、比較的すっきりとしている。人々に知恵を授けるともいわれる虚空菩薩像、智慧を司る文殊菩薩の仏像が置かれている。境内にある仏像はこの二体のみ。その他には寄り添った鬼の像が寄進されている。この鬼神には言い伝えがあり、解説板が置かれている。鬼になったいきさつなどは書かれていないので、少し脚色してみた。

その昔、家の格式の違いから結婚を許されず家をとびだした二人が当山へとたどりつく。佛谷山は昔は難所で、歩きつかれた二人は洞の中で一夜を過し、そこで結ばれる。その後、この二人は人を襲って食べる恐ろしい鬼となり、再び里に帰ることはなかった。そのうち、二人の鬼は薬師如来の弟子となり、いつしか、山の守護神となった。ここにお参りすれば縁が結ばれると云われている。

面白いのは三匹のパグの置物も置かれていた。この三匹は麓の保安寺で飼われて寺の看板犬になっている。

境内には鐘楼、十三重石塔、休憩所がある。

佛谷山薬師堂は大麻山の南面の標高283mのところにある。ここが行政区では中蒲生に位置する。正式には佛谷山三学院という名称で麓の保安寺の奥之院になる。佛谷山は深山幽谷の谷間にあり、弘法大師の修行道場としての山岳霊場だった。天然の岩窟内に本堂 (写真 右中、右下) と大師堂がある。本堂の薬師堂では本尊の薬師如来とその両側に脇侍として日光菩薩と月光菩薩を祀っており、この寺は「島薬師」とも呼ばれている。洞窟は弘法大師が御修行中、洞窟で柴を焚き、その上へ海の藻を敷き、病者をそこへ坐臥させて汗だくになるまで温め、病の治癒に努めたとされる。この様に岩窟は典型的な石風呂になっており、江戸時代まで病者が養生をしたという。かつては庵室も洞中にあり、堂主が住んでいた。洞窟の石は白い柔らかい石で、薬師石して病気平癒、身体堅固等の御利益があるという。また洞窟内の岩よりしみ出ずる清浄水は薬師水 (写真中中) と呼ばれ、病の薬と言い伝えられている。

この寺には麓の保安寺の住職の宮下さん夫婦がおり、一緒に納経をしていただいた。麓から水をタンクにいれて自動車で通っているそうだ。小さな娘さんも一緒に来ていてうさぎと遊んでいた。パグ犬は保安寺で留守番だそうで、娘さんがうさぎを抱いて見せてくれた。幸せそうな家族だった。ご夫婦との話ははずみ、再会を約束して、佛谷山から次の史跡に向かう。

佛谷山からの景色。先程撮った写真よりも上に登ったので、ここでの写真では入部村が見える。

佛谷山山門の大願門の脇から次の札所の西の滝 龍水寺への遍路道が続いている。

道の途中に石造りの祠があり、その中に仏像が祀られている。これはミニ西国三十三所観音霊場の一つになる。この祠がどの寺を表しているのかは不明。この後にも幾つもの見かける事になる。


目洗いの池 (未訪問)

保安寺住職の宮下さんから、遍路道の途中から山を登ると目洗いの池があると教えていただいたので、途中寄り道をする事にした。目洗いの池から山道があり西の滝 龍水寺に行けるそうだ。遍路道を進んでいくと、教えられた岩に目印の赤丸があった。ここから山を登っていった。道はないと言っていたのでとにかく登っていったのだが、道が無いのであっているのかどうか分からない。どんどん急斜面になって行く。不安になり、今回は諦めて次回再挑戦する事にした。後で調べると、池は標高427mの大麻山の頂上付近にあるそうで、まだまだ登らなければいけなかった様だ。

ただ、ここからは絶景が見られたのは大収穫だった。

この後に訪れた西の滝 龍水寺からの道だと迷わない様だ。昔、弘法大師巡錫のとき、真言密教の秘法によってこの池を発見し、この水を使って村人の眼病を癒したと伝えられている。それ以来「目洗いの池」又は「目洗い観音」と呼ばれる様になった。この池の水位と瀬戸内海の満潮と干潮とが同時刻に起こるそうで「池田の七不思議」の一つに数えられている。


旧池田町 池田本村 平木地区


目洗い池を諦めて遍路道に戻るのだが、道がないので、道に迷い強引に木々をかき分けてなんとか遍路道に戻り、先に進み平木地区に入る。遍路道沿いにはミニ西国三十三所観音霊場が置かれている。


第42番霊場 西の滝 龍水寺

遍路道は自動車道に合流した所が西の滝 龍水寺の駐車場になっている。何台ものマイクロバスが停まり、多くのお遍路さん団体が訪れている。先程の佛谷山ではお遍路さんとは会わなかった。佛谷山の駐車場から本堂までは長い参道坂道で、お年寄りには少し大変なのだろう。山寺では自動車で境内まで行けるかどうかで参拝者数が大きく違うのだろう。個人的には歩く方が好きなのと観光地ぽく無い佛谷山がお薦めだ。

駐車場から境内に入る。ただ、このルートは西の滝 龍水寺の裏参道になる。番号順だとこのルートなのだが、小豆島八十八ケ所は必ずしも番号順に遍路道がある訳では無い。ここから表参道に向かって見ていく。境内には遍路道で遭遇したミニ西国三十三所観音霊場の一部が置かれていた。33基あるのだろうが、散らばっている場所とそれぞれの霊場名は分からない。

この寺は正式には太麻山慈眼院滝水寺 (瀧水寺) という。弘法大師の開創と伝えられ、八百年余の歴史があり島内最古刹とされている。この寺は古来「西の滝」と通称されて、東の坂手にある第1番霊場の洞雲山「東の滝」に相対する。西の滝は「虹の滝」、東の滝は「日向の滝」ともいわれる。両滝 (岳) 共に相当古い時代から山岳崇拝の霊地であって山伏修験が足繁く来て修行をし、彼らによって開かれた寺院であったと考えられている。本堂を入った正面には十一面観世音菩薩を本尊として祀っている。ここに住職が座っていて話をさせてもらった。この人は厳密にいうと住職では無く、この西の滝を管轄している池田の長勝寺から派遣されて西の滝を管理しているおじゅっさんになる。昔は瀧水寺として独立した寺で住僧もいたのだが、幕末期にこの僧は勤王僧として津山藩からにらまれ、のち木村玄蕃と改名して京都小野御殿に勤仕したため無住となり、明治初年には一時廃寺とされた。境内地は官有となり、寺領田畑は競売に付し池田の信徒に配分し、本尊、什器等は長勝寺に引き取られた。度々、寺の取り除きの命令が出たのだが、由緒深い霊域であるため、取り壊しには手を付けることなくそのままに放置されていた。明治37年、官有地となっていた寺は長勝寺に払下げられ、腐朽した旧堂宇を取り払って大正12年に着工し、昭和2年に千鳥破風、向拝に唐破風の銅板葺き入母屋造りの本堂が竣工している。昭和45年の山火事で大師堂、庫裏等全焼したが、この本堂と鐘撞堂は焼失を免れ残っている。昭和52年に諸堂を再建復興されている。

本堂の奥は洞窟になって奥の院がある。奥の院にはこの西の滝の由緒に関わる大師作と伝える観音菩薩の石像、「開けずの瓶 (写真中中、左下)」と「龍水 (右下)」がある。滝水寺という寺号もこの霊水から名付けられたと言われる。その伝承が残っている。

弘仁の昔、弘法大師が小豆島へ立ち寄り太麻山の麓を歩いていた。この地は一面の荒れ地だった。大師が、その訳を聞くと「ここはいくら作物をつくっても、大麻山頂上にいる龍が降りて来て荒らしてしまうのです。その上、子どもはさらわれる、家畜は殺される。」と村人達は訴えた。大師はさっそく大麻山に登り、岩窟の中で仏道修行を続け、同時に大石で観世音菩薩の姿を刻み、かたわら甕を作り始めた。のみの音に誘われたのか巨岩の間に竜が姿を現した。大師は驚くこともなく、岩窟内に誘い入れ、真言密教の呪文を唱えると竜の眼には涙が浮びその体は次第に小さく縮まって行った。大師は甕の蓋を取り竜を抱き上げてその中へ納めた。大師の唱呪は続く。甕の中の龍は、今までの悪事を悔いて、その償いとして、これからはどんな干ばつがおこっても絶対に水は絶やさないと誓った。甕がことことと動いてその下から清水がこんこんと湧き出し岩間を伝って洞窟の外へ流れ出た。この湧き水で荒れ野はよみがえり作物に恵まれるようになった。それ以来、西の滝から湧き出る水は、一度も枯れることなくこんこんと湧き出している。  

奥の院の洞穴の中には1338年 (建武5年) に建立され宝篋印塔があり、南北朝の様式の特徴を残している。また、1275年 (建治元年) に作られた梵鐘も現存している。二つとも国の重要文化財に指定され、長勝寺で保存されている。

本堂の横から大麻山への道があり、かつての行場へ通じていた。行場跡が残っている。島の中央を走る嶮岨山系を跋渉修行した験者山伏の中心道場がこの西の滝・東の滝であったと考えられる。 この山道を20分程進んで行くと今日見れなかった目洗いの池に通じ、更に10分程で大麻山頂上に着く様だ。おじゅっさんと話した際には大麻山は地元では「魔の山」と呼ばれている。大麻山で登山遭難者が何人か出ており、亡くなった人もいるそうだ。山に登るなら午前中が良いとの事で、大麻山頂上へは次回とする。

本堂からは細長い境内になりそこには大師堂が建っている。昭和45年の山火事で焼失し、昭和52年に再建されたもの。堂内には蝋人形館にいる様な大師像が祀られている。

境内を更に進むと、突き当たりに護摩堂が置かれている。堂内には護摩壇 (右上) がある。登り階段の下には身代わり不動明王像 (左中)、階段を登った左側には柳谷観音堂 (下) があり、千手観世音菩薩 (右中) を祀っている。

護摩堂は崖上にあり、瀬戸内海が広く見渡せる。これは池田湾から三都半島方面を見た所。

反対側の土庄の西島方面の絶景。

護摩堂から下に降りていく階段がある。この道が本来の表参道になる。お遍路さんは裏参道の駐車場からお参りをしているのだが、観光客は長い表参道の階段を登ってくる。護摩堂から階段を降りると踊り場があり梵鐘が吊るされている。

更に階段を降りた所が山門になる。

山門から瀬戸内海が見渡せるここが撮影スポットで、観光客に人気の所。海の向こうには高松の屋島とその左に五剣山がくっきりと見える。

参道階段を降りると寄進された燈籠が立ち並んでいる。


水神大神、地荒神

ここから下の参道は自動車も通れる下り坂になっている。道端には地蔵尊、仏像が二体、水神大神、地荒神が祀られている。自動車道路に出る。


西の滝参道入り口

道を下ると参道入り口の表示があり、そこにも講中から寄進された新しい地蔵尊と摩滅した古い地蔵尊が置かれていた。

ここからは林庵への遍路道が残っており、そちらの道を進む。


平木集落

遍路道を下り抜けると平木集落に入る。

平木は元々は浜村の領域だったが、土地を新たに開拓してできた部落になる。いつごろ、平木部落が始まったのかは不明だが、の開発かは不明であるが、延宝年間 (1673 ~ 1681年) 以降と考えられている。

平木は池田本村の中では一番新しい村だが、1983年の人口データでは本村の中では最も人口の多い地域になっている。


振り返ると今日登った歩いた大麻山。

平木集落中心部の道端には地蔵尊が置かれている。


平木神社

地蔵尊にすぐ西には平木集落の氏神を祀った平木神社がある。

平木神社は大正6年に、地域内にあった荒神、塩釜、龍神、山神、恵比須神社を合祀して建てられていた。どの様な経緯で合祀されたのかは気になる。境内には幾つもの祠がある。これらが合祀された神々も含んでいるのだろうか?

平木神社の前は水路が流れており綺麗に整備されている。水路沿いには桜並木が植えられて、春先には綺麗に桜の花が咲き見ごたえがあるそうだ。


地蔵尊

この水路は池田大川に流れている様で、その途中の川沿いに地蔵尊が置かれていた。


平井兵左衛門氏政終焉地

かつての池田本村の中心は池田湾に流れ込む池田大川を渡ったところにあり、この川までが平木になる。池田大川を渡れる手前には平井兵左衛門氏政終焉地があり、五輪の供養塔、頌徳碑、歌碑が置かれていた。平井兵左衛門氏政は池田に住んでいる人なら誰でも知っている人物。

小豆島は、1677年 (延宝5年) から二年間にわたり、備前足守藩により徹底した検地 (延宝検地) が行われ、それまで3,695の石高だったのが、7,758石となった。つまり、島の年貢が倍増した事になる。また1689年 (元禄2年) にはそれまで有事の際に幕府の求めに応じ船と水主を出す代わりに年貢が減ぜられていた幕府の加子浦指定が解除された。これらによって島の農民は困窮に陥った。翌年の1690年 (元禄3年) を始め、再三、その窮状を訴えたが効果は無く、1710年 (永宝7年) には当時、天領の預地を担っていた高松藩に池田村と坂手村が申し合わせて、訴状を提出している。一時的に租税率は下がったが、翌年には元に戻っている。1711年 (正徳元年) に、当時池田村庄屋の平井兵左衛門氏政は血気盛んな35才の人物で、高松藩は頼りにならないとして、村民及び島を代表して、池田村年寄の彦兵衛と江戸に出向き、勘定奉行の平岩若狭守に訴状を提出した。兵左衛門は、高松藩を超えて幕府へ直訴した。当時、この行為は極刑に値したため、投獄され、1712年 (正徳2年) に江戸から高松へ送られ、池田村に連行され斬首獄門を申し渡され、村内を引き回された後に衆人環視の中、こに江尻浜で斬首。首は七日間晒された。この件に協力したとされる福田村庄屋の湊九左衛門は投獄され獄死 (毒殺?) している。湊九左衛門はキリシタンとされ欠所 (家は取り潰し財産の没収) となっている。その他島内の幾つかの年寄が追放になる等の仕置が行われた。この平井兵左衛門氏政の直訴によって、1711年 (正徳元年) の税率はかなり低くなったが、翌年からは元に戻り、その後上昇している。

この終焉の地には、向かって左に兵左衛門死後、数年後に建てられた立派な無縫塔 (卵塔) と、その傍らには 1811年 (文化8年) の百年祭ごろに建てられたと思われる五輪の供養塔があり、塔身には「吽如一覚居士」と刻されている。昭和15年に当時の首相平沼騏一郎揮毫の「義人頌徳之碑」が建てられている。昭和17年には島出身戸沢民十郎代議士の義人を讃える詩を刻した碑が建てられている。五輪の供養塔の傍らに小さな墓碑があり 「旡観常貞信女」と謚号された兵左衛門妻女が祀られて祭られいる。 1710年 (宝永7年) 10月24日の命日とある。平井兵左衛門氏政の直訴の前年にあたる。島民は今でも兵左衛門の遺徳を偲び、掃除、祭祀を怠ることなく敬慕の念を捧げているそうだ。


この後、池田大川を渡り、池田本村の中にあった北条の史跡を巡る。その訪問記は別建てにする。



参考文献

  • 池田町史 (1984 香川県小豆郡池田町)
  • 小豆島お遍路道案内図
  • 小豆島町文化財保存活用地域計画 (2022 小豆島町)