くつろぐ
https://minamiyoko3734.amebaownd.com/posts/15971358/ 【「閑かさや」の句に秘められた真実】
https://minamiyoko3734.amebaownd.com/posts/45055144 【自我の統制を弱める】
FacebookTaiki Shimizuさん投稿記事
なぜ今まで気づかなかったのだろう。
なぜ すべては移り変わっていくものだと気づかなかったのだらう。
年を重ねていくということが、輝きを失っていくということだとは思わない。
だけど、過ぎゆく時間に人が 淋しさを抱くように、目の前の人々も いずれいなくなるのだ
と思うと 少し切ない。
人生が終わる直前にいつかこの瞬間を思い出すときがくるのだと思うと、無性にすべてが愛おしく思えてくるのだ。
「また次がある」と思っているうちは、目の前のものから、大事なことは学べない
この人と会えるのも今日で最後かもしれないといつも思っていたい。
今日という日も、この時間も、「次があるとは限らない」という思いで向き合い、味わい尽くせば、昨日は気づけなかった 大事なものが見えてくる
Facebookごとう 孝二さん投稿記事· 「欠乏マインドと豊かさマインド」
私たちは、私たちの今のこの肉体は、永遠ではありません。
誰しも、いつかは旅立つ時が来ます。
この「楽しい人生(体験)」は日々、終わりに近づいているのです。
一瞬一瞬、目の前の出来事は過ぎ去り、「思い出」の中だけに存在するようになります。
先ばかり見ていると、その「いま」を見失います。
いま、味わうべきことを、今味あわないまま、時が過ぎるのです。
「いま」は将来のための過程ではありません。
そのすべてが、すべて、あなたの「人生そのもの」なんです。
◎「ゲームのボス」だけを倒しますか?
あなたは、「ゲーム」をする時に、いきなり最後の「ラスボス」だけを倒そうとしますか?
その「ラスボス」を倒したら、満足して、その後幸せになりますか?
一瞬の達成感はあるかもしれないですが、すぐに「終わった寂しさ」を感じませんか?
「ゲーム」を楽しむのは、その「ラスボス」を倒すために試行錯誤して、キャラクターを強くしていって、仲間を作って、色々な敵を倒して、中ボスもいたりして・・・
その道のりがあって、最後に到達し、倒すから、面白いですよね?
つまり、「過程」を楽しむためであり、ゲームが終わった後に寂しいのは、その「過程」が終わるからですよね?
人生も同じです。この生きている「日々」が楽しいのです。
「苦」も「楽」も「笑い」も「涙」も「くやしさ」も「喜び」も・・・すべてがあるから楽しいんです。
◎比べるから「苦」は生まれる
そして、ほとんどの場合、自分で勝手に想定した「理想」「思い通り」と「今目の前の状況」を比較するから「不満」や「苦しみ」が生まれます。
しかし、そもそもその「想定」自体が、勝手に思い描いたものですよね?
それに、その「理想」「思い通り」が実現したからと言って、自分が思ったような「幸せ」や「満足」な気持ちになるとは限りません。
いや、おそらく、一瞬満足しても、どこかから「不満」「不安」を見つけ出して、また新たな「理想」を描いて、「素晴らしい何者か」になることばかりを追いかけていくでしょう。
「過程」も「失敗」も「回り道」も、何もかもが生きているからこそできる「体験」「経験」なのです。
多くの「覚者」が口をそろえて「いまここ」「いまをくつろぎなさい」というのはそういうことです。
「ダメな自分」から抜け出すために、努力をして、「凄い自分」になれたら、苦悩も無くなり、苦労もなくなり、不満や不安も無くなるんじゃないかと思ってしまいがちですが、
先ほどからも言っているように、何かを達成したから「満足」して「幸せ」な気持ちになれて、「不安」や「不満」を感じなくなるということではありません。
「大金持ち」でも「チャンピオン」でも「スーパースター」でもみんな何かに「不満」を感じたり、「不安」になったり、結局は、そもそものその人の心持ちが「不満」から始まって
その「不満」を埋めるために努力しているからです。それを欠乏マインドと言います。
そんなものは次から次へ新しい「理想」を探して、それと比べて、また「こんなんじゃダメだ」と頑張るので、「キリ」が無くて疲れてしまうのです。
その「ダメな自分」「変えないといけない自分」というのが本当の自分の望みでしょうか?一般的な「理想」とされている人物像と自分を比べて、「ダメだ」と思っただけじゃないですか?
◎「今にくつろぐ」ということ
まずは、いま現在の自分が「何も足りないことはなくて」「このままでいいんだ」と
「いまにくつろぎ」、「さて、いま私は何がしたいだろう?どんな自分で居たいだろう?」
と問いかけてみるのです。
そのためには、「私はいま、何ができるだろう?何をやってみたいだろう?」と探していくのです。
意識を向けるべきは、「いま、何がしたくて、何ができるか?」ということだと思います。
もちろん、計画を立てて、それを実行して、結果を求めるということにワクワクして、その過程から楽しめるならそれが良いと思います。
常に、「今この瞬間を楽しむ」ということを忘れない。ということです。
それを豊かさマインドと言います。
「何かを達成すること」があなたの人生ではなくて、その「達成」や「過程」や「失敗」や「一喜一憂」・・・も含めて、「この日々を生き味わうこと」「この日々そのもの」があなたの人生だということを思い出してもらえたらと思います。
今日の体験、出会い、気持ち、すばらしさ、美しさ・・・はもう二度とやって来ません。
常にすべての瞬間が「オリジナル」なのです。
欠乏マインドから豊かさマインドへマインドチェンジが必要なのです!
あなたの大切な人と、やっておきたいことは、今すぐやっておきましょう!
◎最後に想像してみてください
あなたは、いまベッドの上でもう、死を待つばかりの状態です。
あと何時間後には肉体から旅立つでしょう。
その瞬間に、「ああ!あれをしておきたかった!!」と後悔することは何ですか?
それを今からすぐ始めてください。
最強引き寄せNLAメソッドより。
https://note.com/wantan0125/n/ne46aee6d2798 【俳句を詠む意味】より
今年の夏から、俳句を始めた。
きっかけは、久しぶりに会った大学時代の同級生に誘われたから。
彼女はその道では名の知れた人物だった。もともと年を取ったら余生の楽しみに俳句を趣味にすることを考えていたので、この誘いはまんざらでもなかった。
当初の計画より、少し早いかなと思ったけど。
とんでもない。
彼女に言われるまま歳時記を買い、句集を読みあさる。句会に出るようになる。今まで使っていなかった脳の部分を突然に苛め始めるのは案外快感である。もっと早く始めるべきだった。遅くても20代には。世に出回る俳句に触れるたび、頭を軽く殴られる感じがした。こういう存在に出会えた嬉しさ。生きてる気がして、句もスラスラあふれ出るような気がして…そんな錯覚に酔っていたころ。
最愛の犬が死んだ。死ぬとは思っていなかった日に。
現実に散々なほど打ちのめされた。一歩歩くごとに涙が出る。何を見ても何を考えてもつらい。この日が来たら絶対なるだろうと思っていた、これがそのペットロスだろう。ならないわけがない。すべてだったんだから。
その一方で、すがるように俳句を続けた。一日十句作るようにと、私の読んだ俳句指南書には書いてあったから。それに、詠むことで冷静な自分が一片残るかなとの期待もあった。
朝は生き夕は躯の小春かな
茶の花や存外白し亡き仔の耳
喪ひし者の肩にも冬日向
詠んでみて思ったことがあった。自分の感情に俳句がまったく追いつかないということ。ぎゃあああと号泣する音だけで17音を埋めてもまだ足りないくらいの実際の悲しみに比べたら、俳句はその悲しみに30枚くらいの布団をかけたほどに心と距離がある。
自分の感情もまともに表せない手段に、没頭し時間をつぎ込むことに何の意味があるのだろうか。
毎週の句会に合わせて句を作ることで精いっぱいの状態になっていたとき、ひとつの句が急に浮かんだ。
いつの日か毛布広げて虹の橋
犬が死んでから、初めて自分の気持ちに沿った句が出来た。詠んだ瞬間に涙が出た。
ところが、句仲間にはこの句は不評だった。「意味が分からないよ。虹の橋というファンタジーなものと毛布との関係性が不明。それにね、虹は夏の季語だし。」
そうなのだ。調べて分かった。毛布を冬の季語として使ったが、虹は夏であり、この句は季重なりのイケない句である。
ちなみにこの句でいう「虹の橋」は、ペットたちが亡くなったあと、元気に幸せに走り回るという、ペットを飼っている人たちの間で言い伝えられている場所である。自分も死んだら、この虹の橋で先に待っていたペットたちと会えるそうだ。
その虹のたもとで、大好きだった毛布を広げて犬を待つのだ。毛布の上でくつろぐのが好きだった犬。季重なり。それでも自分のお気に入りの句となった。
俳句を詠む意味とは何か。意味を求めてはいけないものなのか。とりあえず、震える声で詠まれた句であることを想像できるような、感情と隣り合わせの句と出会うことを当面の目標としたい