秦さん、さびしいです。。。。
https://fragie.exblog.jp/32940366/ 【秦さん、さびしいです。。。。】より
椿。
これは神代植物園に咲いていた椿だったと思う。
ここには椿園があってそれはもうたくさんの椿が植えられている。しかもそれぞれの椿にたいそうな名前がつけられている。
先日歩いたときにはまだおおかた咲いていなかった。
ある家で咲かせている椿や雑木林になかでみつける藪椿はすきだけれど、神代植物園の椿園の椿は椿の標本が並んでいるみたいで好きではない。暗いし。。。
新刊紹介をしたい。
秦夕美句集『雲』
俳人・秦夕美さんの第19句集となるが、秦夕美さんはすでにこの世におられない。
去る1月22日に亡くなられたのだ。この句集の出来上がりを楽しみにされながら。
昨年の暮に倒れ入院をされ、そのまま回復をすることなく亡くなった。
この本を手にとっていただくことは叶わなかったが、本の校正刷りを手にしていただけのがせめてものこととなった。
ご子息にご逝去をうかがい、ホームページでお知らせをしようと思ったが、秦氏よりまだ公にしないで欲しいというご要望があった。
出来上がった句集にご挨拶状をいれることで、寄贈者の方にお知らせをすることになったのだった。
すでにご葬儀はご家族ですませたということである。
お香典やお悔やみはいっさい不要、句集の礼状もいらないという生前の秦夕美さんのお気持ちがあり、最後となる句集を残してさっさっとあの世に逝ってしまわれた。
この句集をすすめているときも何度か倒れたりされ、心配はしていたのであるがよもや句集の刊行を待たずに逝ってしまわれることは予想外だった。
しかし、ご本人には死が身近であるということも含めての覚悟がおありだったのかもしれないと、今から思うといただく電話のはしばしにその予兆のようなものがあったようにも。「何かあったときに」とはじめてご子息の連絡先もいただいた。
ただ、わたしが呑気だったのかもしれない。
心配をさせまいとお電話の声はとびきり明るかった。
句稿はとうにもらっており校了もすんでいたが、本の刊行は2023年になってからというのが秦さんとの約束だった。
そして、こうして出来上がったときはすでに。。。
無念な気持もあるが、こういうことにはついて極めて優しく鷹揚で、なるがままというある意味腹がすわったところのある方だったので、きっと許してださると思っている。
秦夕美(1938年3月25日~2023年1月22日)さんの最後の句集を紹介したい。
雲はいつ、どこで、その最初の姿を見せたのだろう。「雲」と名付けたのは誰だろう。そんなことを考えながら、今日も雲を見ている。ヘルマン・ヘッセのエッセイや山村暮鳥の詩など、いつ読んでも『雲』はいい。第十九句集『雲』の構想は前句集の校正中に生まれた。題名が漢字一字の句集は持っていない。メインディッシュのあとはデザートが欲しい。今回はトリコロールといこう。蒼(青)、白、赫(赤)、の章立てにしてみた。
「あとがき」より。
われに若い日のある不思議雪卍 かたはらにすゞなすゞしろ雲のいろ
身にしむや雲の影おく男下駄 死はいつも千鳥足にて小正月
斑雪野へとびたきト音記号かな 水雲召す兜子は何処師は居ずや
贅沢は素敵戦後の秋は好き 「おうい雲よ」とびたつきはの菱喰よ
老いて買ふ夢と台湾バナナかな 雷鳴を飲み込む雲のふたつみつ
本文からいくつか紹介をした。意図的かどうかはわからないが「雲」を呼んだ句も散見する。もっとも日々雲をみているのであれば、雲の句も必然的に多くなるのかもしれない。秦夕美さんの句は、この句集にかぎらず死の陰影が濃くある。老をみつめる日々であればいっそうなのかもしれない。誤解をおそれずにいえば、秦夕美さんにとって、死もまたひとつの観念であり、言葉遊びの領域にあるものとしてある。秦夕美という人の実存をおびやかすものではない、そういう意味では生も死もどこか腹をくくって眺めている、もとよりボキャブラリーの豊富な方であるので、その生や死を言葉によっていろんな角度から詠み、一句にしてみせる。そこにはヒリヒリするような感受はなくて、やや高踏的な位相をわたしは感じるのだ。精神の気高さを思うし、カッコイイとも思うが、魂のうめきや枯渇、あるいはゾクッとするようなニヒリズムは詠まれていない。いや、そういうことを詠む事をおのれに許さなかったのかもしれない。こんなことを書くと叱られてしまうかもしれないけれど。
今回の句集でとくにおもったことは、戦争のへの回想の句が多いことである。秦さんは戦争体験者である。そのことを十分に意識されていた。
のらくろもゐたか月下のレイテ島 死線てふ言の葉ありぬ草紅葉
竹の春ほんとに遠くない戦火 銃声はとぎれとぎれや茸飯
焦土には少女と夕日にほふ秋 夏の日や脱脂粉乳コッペパン
零戦の破片とおもふ月日貝
戦争を詠んだ句をいくつか紹介した。秦夕美さんが電話でこんなことをおっしゃった。「戦争というのはね、そのすさまじい匂いを経験することなのよ。爆撃をされたときの匂い、わたしはあの匂いを忘れることはできない。でも、この匂いは戦争を体験したものでなければわからない。写真でもつたわらない」と。言われてみて、確かにと思った。私たちは映像で戦争の状況をある程度知ることはできるが、その匂いは決してわからない。
戦争体験を回顧することによって、最後の句集にその俳句を残して逝かれたのだ。
昔から、なりゆきまかせで生きてきた。何か決断しなければならない時には、動物的なカンに従った。それが自分にとって一番いいように思えたから。
「あとがき」の言葉である。
生き死にはあなたまかせや窓の月
「生き死に」も「あなたまかせ」とはまことに秦夕美さんらしい。
最後は苦しむことなく、安らかに逝かれたとご子息よりうかがって、わたしはホッとしたのだった。
「色校正の刷りとりを、柩のなかに入れました」とも。
本句集の装釘は和兎さん。
秦夕美さんのご希望は、表紙に穴をあけたも造本だった。
わたしは送ったある方の詩集をみてとても気に入られたのだった。
わたしもこういう造本のものを作りたかったのである。
丸窓から見返しが覗いている。
角背である。
秦さんと親しかった池田澄子さんが電話をくださった。
「よくお電話をいただいてね、おしゃべりをしたのよ。」と池田さん。
「この句集をいただいて、亡くなったということを知り、ふたたびこの句集を手にとってね、そしてふっと思ったのね。この丸い窓からまるで彼岸がみえてくるみたいって」。
製本屋さんには苦労をしてもらった製本である。
扉。
赤の花布と栞紐
詠まれた方は、この一冊から秦夕美さんの肉声を聞いてほしい。
しかし、悲痛な声をはっすることなどは秦夕美さんは潔しとされなかった方だ。
そういう方なのだ。
死後のことも周囲への気遣いにみちて、静かにそして毅然とこの世をあとにされたのだった。
美しいものがお好きだった。
葬列のどこかはなやか枇杷の花
ご冥福をこころよりお祈り申しあげたい。