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キリスト教で読む西洋史ー聖女・悪女・聖人・皇帝・市民

近代アジアの動乱47-変法自強運動の失敗

2023.06.24 12:10

日清戦争敗北は清国民にとって大ショックだった。下関条約を破棄して再戦すべきという上訴が相次いだ。官僚内でも康有為らを中心に、日本のように近代化維新を行うべきという意見を持つ者達が出た。光緒帝は同意して、彼らを中心に「変法自強」運動が始まる。

1898年6月11日、光緒帝は「明定国是詔」を発布し、改革に乗りだす。憲法の制定や国会の開設、北京大師堂という近代的大学をつくり、科挙を改革するなどであった。ただあまりに急激で強引な改革は保守派の反発を呼び、改革はサボタージュに会い、彼らは孤立してしまう。

そこで変法派は思い切ってクーデターをして、西太后や保守派貴族を追放する計画をする。その計画を8月3日、軍の大物である袁世凱に話した。袁は同意したかに見えたが、8月5日この計画を西太后にバラし、翌日から変法派の大粛清が行われた。康有為は日本に逃げたが中心人物は処刑された。

西太后はまた政治の中心に復帰し、光緒帝は幽閉された。彼女は帝を廃位して、自分の大甥である溥儁を新帝にしようとする。しかし列強も宮廷内も反対が出て、溥儁を皇太子にして光緒帝を政治の中心からはずしてしまう、清国はさらに末期の様相を呈してゆく。