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懸魚

【GWT】【K暁】濡れる器

2023.06.25 13:10


 冷えたグラスを体としよう。

 そこに落とした氷を、魂としよう。

 それでは、グラスに注ぐ酒は何とするか。

「エーテルかな」

 少し考え暁人は言った。

「酒で補給ができるんなら最高だな」

 KKは笑った。ふたつのグラスにとくとくと酒を注ぐ。

 小さな灯りの下には、酒精と肴の良い匂いが満ちている。アパートを囲むホテル街の喧噪も今は遠い。快い雨音だけが、一日の業務を終えたアジトを包んでいる。

 暁人は香ばしく焼いたソーセージを頬張る。

 KKは塩辛をほんの少しだけ摘まんだ。

 二人が握ったグラスが、カラリと音を立てた。暁人とKKはなにげなく目線を合わせ、小さく笑んだ。良い夜だった。汗をかき始めたグラスがテーブルを濡らす。

 今日は父の日だった。



 晩酌をしようと決まったのは、午後四時過ぎのことだった。

 軽い調査やら資料整理やら、はたまた暇潰しやらで集まっていたメンバーが、各々一段落して腰を上げ始めた頃合いだ。調べものを終えた暁人は、キッチンで冷蔵庫の中身を検めていた。常備品の管理と、使っていい物の確認。これも大事な作業だ。

 元が科学者の集まりである『ゴーストワイヤー』は、良くも悪くも学者気質の人間が幅を利かせている。そのため細々した職場環境はどうしても後回しにされがちだ。積み重なるガジェットに資料の山。曲がりなりにもひとつの研究拠点であるからには、多少の散らかりは仕方ない。そこで光るのが家事に長けた若者たちだ。

 今をときめく女子高生である麻里と絵梨佳は、主に清掃。あれこれとお掃除グッズを持ち込んでは、のさばるKKを追い立てるように日々アジトの美化に努めている。

 そして暁人は、備品や食料品の管理、ついでにおさんどん。日常的な自炊の習慣は、このアジトでは大変に貴重なスキルだった。冷蔵庫の中身については今や暁人にほぼ全権が委ねられている。

 そしておさんどん係の特権として、暁人はほぼ自由にこのアジトのキッチンを使える。研究や調査にかまけて食生活も乏しいアジトの大人たちは、食の場では暁人に逆らえない。凛子もエドも、厨に関する暁人の要求はまずイエスだ。おかげで暁人は自分の好きなものを好きなだけ作れるし、アジトの面々は温かくバランスの取れた食事ができる。

 さて、ひとしきり冷蔵庫を整理して小腹を空かせた暁人は、夕飯前に一品作ろうかと思案した。今日は日曜で、メンバーたちは各々で夕飯を取るとのことだった。今こそ何を作っても自由。使える食材もそこそこある。

 うーんと悩んでいるところに、のそっとやってきたのは相棒のKKだ。

「なに悩んでんだ」

「ちょっとお腹空いて。何か作ろうかなって」

 KKはいつものようにキッチンの入り口にもたれる。こうして台所に立っている暁人を眺めるのが彼の習慣だ。習性といってもいい。

 なかなか決められないでいると、KKはおもむろにこう言った。

「良い酒をもらったんだが」

「誰に?」

「昨日の依頼人だ」

 酒ってそんなに気軽にもらうものなのかな、と思いつつ、野菜室を探る。中途半端な量の葉物と根菜。微妙だ。

「へぇ、よかったじゃん。でも飲み過ぎないでよ。エドの血液検査が怖くなっても知らないからね」

「あいつの血液検査は人間ドックか」

「似たようなものでしょ」

「オマエ、くそ、若いからって…。オマエだってそのうち怖くなるんだぜ?余裕こいてられんのも今のうちだ」

「怖くなるような生活してるのが悪いんだよ」

 KKは不機嫌なパグのような顔をして唸った。中年を黙らせて、暁人はなおも冷蔵庫を睨む。決まらない。決め手がない。炒め物くらいしか浮かばない。炒め物でもいいけどなんか味気ない。

 はあとため息して暁人は妥協した。傷みそうな食材を消費できればそれでいいか。

 とりあえず卵に手を伸ばしたところで、KKが口を開いた。

「飲むぞ」

「…僕も?」

「たまには付き合えよ」

「ええ?」

 さてはおやじの飲みニケーションか。胡乱げにKKを見た暁人は、一瞬たじろいだ。彼の目が、思いのほかまっすぐに暁人を見ていたものだから。胸の奥がことりと動く。

 続いていた会話の波が、少しだけ様相を変える。最近、こういう瞬間がある。

「……別にいいけど。程々にね。酔っ払っても介抱しないよ」

「冷てえ相棒だぜ」

 なんとか波を乗りこなし、平常に戻る。それでも僅かな余韻が胸に残る。

「摘まめそうなもん買ってくるから、頼んでもいいか」

「いいよ。適当に作っとく」

 決まるや否や、KKはパッと身を起こして踵を返し、十秒も経たないうちにバタンとアジトを出て行った。行動が早い。そういうところを見ると、刑事やってたんだな、と再認識する。

 暁人の方も、料理の決め手ができた。自分のために一品だけのつもりだったが、今夜は酒盛りと相成ったのだ。二人分の酒のあてを作らなくては。

「…あ、何のお酒が先に聞いとけばよかった」

 帰宅する凛子と絵梨佳に会釈をしつつ、暁人はもう一度冷蔵庫を睨んだ。



 ちょっとだけ良いお酒。それだけで晩酌の雰囲気が変わる。

 KKが取り出したのはウイスキーだった。酒は控えめの暁人と、ビール派のKKの食卓では珍しい顔と言える。アジトの古びた電灯の下、鈍く光る琥珀色の瓶は、いつもは無い色を添えてくれる。

 アジトにあった安物のグラスに市販の氷を落とし、雑にオンザロックで。

「乾杯」

「かーんぱい」

 ちん、とグラスを合わせると、心がふわりと昂揚するのがわかった。

 改まって二人酒をするのは、そういえば初めてかもしれない。KKは年季の入った酒飲みだろうが、暁人は飲酒が許されてまだ二年ぽっちだ。家庭環境が理由で飲み会の経験も少ない。酒の味を知っている程度のひよっこだ。

「どうだ?」

 一口二口とウイスキーを含む暁人に、KKが尋ねる。機嫌が良さそうだ。

「おいしい」

「そりゃあよかった」

 カラリとグラスを回し、KKも酒を呷る。その仕草が様になるな、と暁人は思った。

 師匠であり相棒であるこの、KKという男が気になりだしてから、まるでカメラのアングルが変わったかのようだ。相手も相手との関係も何も変わらないのに、ことあるごとに違う印象を受ける。そして今までにない感情を覚える。

 まさかKKをそういう目で見るなんて、思ってもなかったなぁ。

 のんびり考えつつ、グリルした野菜を口に運ぶ。だって相手は、軽く十、いや二十くらいは年が離れているのだ。気兼ねない付き合いができているとはいえ、親子だってありえる年齢差。

 これは憧れの延長か?確かに憧れてはいる。どれだけだらしなくてもズボラでも生活習慣病予備軍でも、家庭を崩してしまったのだとしても、暁人はKKを尊敬している。一人の人間として、男として。だがそれだけなら今までと変わらない。

 アングルを変えたのは、違う視点を与えたのは、紛れもなく恋愛感情だ。その恋愛感情を与えたのは、憧れに色を混ぜたのは。

(アンタだよ)

 もとはといえば。はぁとため息を吐く。

「どうした?もう酔ったか」

「そんなに弱くないよ」

「明日は大学か?」

「行くけど、午後に一コマだけ」

「そんなら心置きなく飲めるな」

「いや、少しだけにしとくよ。麻里に酒臭いって怒られるし」

「麻里か。妹に言われるんじゃ仕方ないな」

 なんとなくテレビもつけず、二人はゆったりと晩酌を楽しむ。会話の合間に、しとしとと雨音がする。

「あれ、雨降ってるの」

「ああ。買い物帰りに降り出したな」

「やだなー」

 午前、父母の墓参りをした時は、まだ青空が見えていたのだが。

 今日は父の日だった。孝行すべき暁人と麻里の父はもういない。父は、家族ではじめにこの世を去った。

 大きな、大きな喪失だった。当たり前のように盤石だと思っていた「家族」の、そして人の命というものの儚さを知った。シャボン玉のように、消える時はパッと消える。消えてしまう。予兆も覚悟も無いままに。

 もし父さんが生きていたら。そう考えることもまだ痛い。

「暁人」

 じんと目の奥が熱く潤んだのを、ごまかすように酒を呷る。多分ごまかしきれていない。KKは穏やかな顔で暁人を見ていた。

「親父さんのことでも思い出したか」

 もう、ズボラなくせに察しは良いのが元刑事の厄介なところだ。ぐす、と鼻まで熱くなってきて、気恥ずかしくなる。酒のせいか日付のせいか、心の琴線が緩んでいるようだ。

 KKは殊更に慰めることはなく、向かいで静かに酒を飲み、つまみを食べる。緩んだ涙腺を引き締めようと努めながら、暁人もただ酒を呷った。一杯目が空になる。

「ほら、水」

「…ありがと」

 差し出された水を飲み下すと、少し落ち着いた気がした。

 二人はかつて誰よりも近かった。人の生命そのものである魂を、ひとつの体にふたつ抱えて、時に重なり合うことさえした。人と人とが近づける最も近い距離だった。

 今二人は、ひとつの体にひとつの魂の、正しい形に戻っている。けれどふたりでひとつだった名残か、KKは暁人のことをなんでもわかっているように振舞うことがある。気のせいかもしれないし、KKから見た暁人もたまにそうなのかもしれない。

 師弟、相棒、親しい叔父と甥のような。表現はいくつかあるが、暁人とKKの関係はそのまま二人の形をしているから、最適なものはない。

 そこに恋情が加わったって、なにもやましくなんかない。どう変わるかは暁人の行動次第だ。

「ねえKK」

「ん?」

「僕らって、こうだったんだよね」

 KKが見ている前で、酒のグラスに氷をひとつ落とす。初めに落とした氷と合わせ、ひとつのグラスに氷がふたつ。カラリと揺らして見せると、KKは愉快そうに口角を上げた。



 少し距離を縮めてみたくて、ずっと前の貰い物を引っ張り出してきた。口実は適当だったが、特に突っ込まれなかったのでよかった。

 恋のし方ってこれで合ってるか?久しぶりだから自信に欠ける。

 こういう相手を口説くならこう。デートに誘うならここ。プレゼントはこれがおすすめ。こう言われたらこう返す。恋愛指南なんか世の中に溢れて腐れるほどある。だがこの恋の指南など誰がしてくれよう。出会いは?――亡霊になって相手に取り憑いたこと。

 暁人の手にあるグラスを眺める。

 グラスは体。氷は魂。酒はたぶんエーテル。

 喩えるならこうだったのだろう。琥珀色の酒に浸る氷を見ていると、あの夜が懐かしくなる。

 他人の体に収まるのはひどく窮屈で、やりづらいったらなかった。とにかく早急に主導権がほしくて、しぶとく体に留まった魂を追い出そうとした。思い返すと肝が冷える。あの時、暁人の魂が消えていたら。想像だけで足元が崩れるような感覚がする。

 それから段々と、互いにその状態が馴染んで、窮屈さがなくなっていった。やがては暁人の体の中に安心さえ覚えていた。ろくに主導権も無いのに。

 ふたつの氷にとくとくと酒を注いでやる。暁人は早速その酒を含み、嬉しそうに笑った。この青年の体に宿っていた時の感覚は、もう遠い。KKには自分の体がある。自分のグラスを取ると、表面の水滴で手が濡れた。

「……」

 恋や愛の形は様々だ。どのような感情を持って、どのように接するか。

 KKの恋情は愛欲だ。肉欲を伴う恋だ。

 甥のような歳の若者をただかわいいと思うだけならこうも悩まない。頼もしい相棒として、自慢の弟子として好ましく思うだけなら、さらに近付きたいとは望まない。

 あの般若面の男がただの器と切り捨てた肉体を含めて、暁人を希求している。

 ありえない程近くにあった魂を、もう一度近くに。あの時はできなかった、体での触れ合いをもっと。やがては、そう、互いを繋ぐ舫い綱のようなものができればどんなに嬉しいか。

 ……オレは本当に、距離を縮めようとしていいのか?自信がなくなってきた。

 父親を偲んでべそをかいた暁人を前にして、自分の思考が不純でいたたまれない。

 父の日。耳に痛い言葉だ。

 家族はもういない。家族であった二人は遠くにいる。元妻も息子も、唯一無二には違いない。自分はあの子の父親だ。だが、父親としてできることはもう僅かも無くなってしまった。気付かぬうちに、自分で潰してしまっていた。

 はあと知らずため息が出る。不甲斐無い父親だ。何も誇れやしない。

「…息子さんのこと考えてた?」

 今度は自分が慮られる番か。こういう時、暁人は妙に敏い。魂が同居していた名残なのか、KKのことをなんでも理解しているように見える時がある。苦笑して、気にするなと会話を流した。

 もし――家族と、今も上手くいっていたなら。

 KKは妻を愛し、息子を愛し、…暁人に出会って惚れることはなかっただろう。父の日に変わらずプレゼントをもらうことができて、いつかはこうやって息子と酒を飲むこともあり得たかもしれない。

 だが、現実は違う。そんな未来はなかった。

 だからいまのKKは、暁人に惚れているただのしがない男だ。

「暑くなってきたね」

「ん、…そうだな」

 暁人の顔に、やや赤みが差している。酒精が回ってきたらしい。気付けばKKの方も、いい感じに酔いがきている。ああ、いい夜だ。楽しい。なにはともあれ惚れた相手とのサシ飲みは楽しい。

「KK」

 暁人が酒を注いでくれる。KKは機嫌良くそれを受け、そして戯れのようにグラスを合わせる。

 チン、と澄んだ音。

 濡れたグラスがぶつかり合う音。

 二人きりのアジトで、今この時間は、仄かに幸福の香りがする。

 スモークサーモンをつまみ、KKはじっくりと酒を味わった。今夜はこのまま、暁人が帰らなければいいなと思った。

 暁人は暑そうに、エアコンを見やったりぱたぱたと顔を扇いだりしている。その体を見つめてしまう。腹の底でさざめく肉欲と、喉の渇き。よくない兆候だ。

 肉体とは魂の器。般若面の男はそう解釈した。それは捉え方のひとつに過ぎない。だが仮に器だとして、これほど惹かれてしまうものを切り捨てて、人間いったい何になる。

 酔いで緩み、熱を持ち、汗ばんでいるであろう彼の体が。

「KK」

 呼びかけられてハッと我に帰る。

「エアコンの温度下げていい?暑くてさ」

「…後で凛子に睨まれない程度にな」

「はは、そうだね。あ、野菜もう無い。もう一品作るよ」

「面倒だろ」

「いいよ、ちょうど使い切りたいところだったんだ。ちょっと回ってきたし、KKはゆっくりしてて」

 赤らんではいるものの、言動に影響が出るほどではないらしい。暁人はてきぱきと空いた皿を片して、台所に入った。注意してやるまでもなく、節度ある飲み方だ。

 テーブルにひとり残るKKは、深々とため息して脱力した。こう悶々とするのも、久しい感覚だ。ああやるせない。この歳になってする恋ではない。

 テーブルの上に、小さな水たまりができている。冷えたグラスが汗をかいたのだ。飲みかけの暁人のグラスには氷がふたつ。

「………」

 グラスは体。

 KKは手を伸ばして、暁人のグラスを指で弾いた。チン、と小さく音が鳴る。

 そして立ち上がり、台所の暁人のところに寄っていく。

「おい、作るなら塩気のあるもんくれ」

「リクエストが遅いよ。それに、KKの食事は塩分控えめにするって麻里と絵梨佳ちゃんと決めてるから、もうダメ」

「おいおいおいおい」

 しとしとと穏やかな雨は、今夜いっぱいは降り続くらしい。

 時間はまだある。酒も氷もまだ減らない。二人はまだ満腹ではない。


 とある恋する一夜の話だ。