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Kazu Bike Journey

小豆島八十八ヶ所遍路 16 (08/05/23) 小豆島町 旧内海町 草加部郷 西村 (2) 原・日方、草壁本村 木場・中村

2023.05.09 09:17

小豆島町 旧内海町 草加部郷

西村

(原)

(日方村 西条)

(日方村 東条)


草壁本村 

(下村 木場)

(下村 中村)

ウォーキング距離: 20.5km



明日、沖縄に帰るので、今回の小豆島滞在は最終日になる。昨日は少し疲れていたので、久しぶりに外出を控えて休養日とした。



今日訪れた小豆島八十八ケ所霊場

第25番霊場 誓願寺庵

第24番霊場 安養寺

第23番霊場 本堂

第22番霊場 峯之山庵

第21番霊場 清見寺


訪問ログ



5月2日には水木村と日方村の一部を訪れている。この日は海岸沿いの国道沿いを巡ったので、今日は山側の遍路道沿いの史跡を水木村の北にある原村から始める。



(西村 原村)

オリーブバスで水木で降車し、流条の中の遍路道を通り、途中から遍路道を外れて登り坂の道を進み原村に向かう。原村には西条と東条の二つの部落があり、江戸時代末期には合わせて26世帯が住んでいた。現在の原村人口は不明だが、小さな集落だ。原地区には、北方山中に日方屋敷、清水屋敷など、清水、日方の住民の先祖が住んでいたといわれる。日方の先祖にあたる鎌田家は鎌倉時代に後鳥羽院が承久の乱 (1221年) で執権・北条義時追討に失敗し隠岐に流され没落した後に当時八条院領が高倉院領となった際に、北条氏が関東から小豆島の高倉院領を治めるために派遣された家臣団の一部になる。遅くとも13世紀前半には部落が形成されていたと思われる。


原村の史跡

  • 寺院/庵等: なし
  • 神社: 庚申神社、荒魂神社 (合祀: 金比羅、火の神、境内末社: 山の神、城崩れ神、五神名地神塔)
  • 大手醤油会社: なし


道を進んで行くと原村の公民館がある。集落はここの北側にある。おそらくこの地域は西条にあたるのだろう。


庚申神社

原村 (西条) 集落を北に抜けた山の麓には、荒神社がある。原村の氏神になる。西村には五つの村があり、それぞれに荒神社が置かれていた。(内海町史では原、水木、日方の三つの荒神社とある) 原村の荒神社は江戸中期以前の創建といわれている。荒神社への階段の登り口横には、高松家の先祖が山越しに背負って来て祀ったと言う庚申さん (庚申神社) が北東の地から移設されて祀られている。


原の荒神社、山の神、城崩れ神

階段を登ると、荒神社の拝殿とその奥に本殿が建てられている。この建物は、原村からハワイに移住した人が1974年 (昭和49年) に寄進し建てられたもので、荒神、金比羅、火の神の三神を祀っている。

境内には北方山中から移した山の神も祀られている。山王神社と書かれた祠の中には自然石が置かれている。山の神の神体になるのだろう。

小豆島の神社ではよく見かける五神を祀る安山岩の五神名地神塔の五角柱も置かれている。定番の五神名地神塔は天照大神、大巳貴命、大巳貴命、植安媛命、倉稲魂命を祀っているのだが、天照大神はわかるのだが、それ以外は判読不明で想像もつかない神名が刻まれている。かなり古くからある様だ。

拝殿横には幾つもの石を積み上げ、そこに五輪塔がある。城崩れの墓と言われている。原には的場、岡のしろ等、城崩れにまつわる伝 説が残る地名もある。


原の荒神社から山道を通り、遍路道に合流して次の札所に向かう。今日は晴天でここから瀬戸内海が綺麗に臨める。



(日方村 西条)

遍路道の山道は竹林の中を通っており、道端には墓地があった。この辺りは日方地域になる。かつての日方村には三つの条 (西条、中条、東条) がある。現在の行政区では西条と東条に区分されている。西条の史跡から見て行く。


西村 日方村の史跡

  • 寺院/庵等: 阿弥陀寺奥の院 (26)、誓願寺庵 (25)、安養寺 (24)
  • 神社: 高木明神社 (合祀: 荒神社、境内末社: 稲荷神社、天満宮、金比羅宮、歯神、五神名地神塔)
  • 大手醤油会社: なし
  • その他: マリア観音水神、日方札場の地蔵、鎌田家供養塔

第26番霊場 阿弥陀寺奥の院、大師御水

この遍路道を進み、5月2日に訪れた水木村の流条にある第26番霊場 阿弥陀寺の奥の院に向かう。奥の院というので、修験場の庵の様なものを想像していたのだが、そこには三つの小さな祠が建てられていた。向かって右の祠が奥の院で中には「大師御水」と書かれた石柱があり、その上部には小さく弘法大師像が浮き彫りされている。大師御水の由来が書かれていた。

原村の伝次郎の母が夢告げを受け、伝次郎達が自然石に大師像を刻み、この地に祀ったところ、傍に清水が湧き、どんな日照りにも涸れなかった。 人々は霊水としてあが め、遠く島外からも汲みに来ている。

この奥の院については情報がないのだが、この弘法大師を本尊としているのだろう。他の奥の院とは異なっているので、かつての姿やどの様な性格の奥の院なのかが気になる。

奥の院の祠の隣が大師の御水になり、井戸がある。この水は大雨でも濁ったことがなく、地上近くまで湧きあがるほど水量が豊かで、どのような干魃にも涸れたことがないと言われ、さぬきの名水にもなっている。

脇には小さな二つの地蔵と上部が欠けてしまった石柱が祀られている。

西村公民館村誌を読む会が設置している案内板によると、大師像の側に古い墓が残っており、南北朝時代貞和の頃に佐々木信胤との戦いで、この地で捕えられ斬られた細川方の間者の供養塔で問者磧 (かんじゃがわら) と呼ばれる城崩れの一つとされている。真ん中の上部が欠けた石柱がこれだろう。又、一説には流水灌頂が行われた場所ともいう。

更にその隣には延命地蔵が祠の中に祀られている。


第25番霊場 誓願寺庵

阿弥陀寺奥の院から遍路道を東に進む。遍路道の傍には地蔵尊や五輪塔が置かれている。暫くすると遍路道しるべがあり、その向こうに墓がある。ここが誓願寺庵の裏の入り口 (出口) になる。

誓願寺庵は山の中に于堂が一つあるだけの小さな札所だ。昔は誓願寺という寺であったといい、ご本尊は安阿弥作と伝える薬師如来が安置されている。また、境内入り口には足掛地蔵が立っている。足病気に御利益があると伝わっているのだろう。


第24番霊場 安養寺

誓願寺庵から遍路道の山道を下って行くと集落が見えてきた。集落に入ると遍路道しるべの指す方向に林がある。そこに安養寺がある。寺を囲っている石垣沿いを進んで山門まで行く。

山門の鐘楼門をくぐり境内にはいる。境内の庭には樹齢二百年を超える椿が数本あり、天然記念木に指定されており、椿の寺とも言う。

第24番札所の摩尼山普門院安養寺の開山は行基菩薩と言われ、1666年 (寛文6年) に再興されている。正面左に本堂があり、如意輪観音を本尊として祀っている。現在の建物は平成元年に建て直されたもの。

境内奥には平成2年に建てられた大師堂がある。中には弘法大師像が安置されて、その前は護摩壇になっている。

境内の白壁塀沿いには平成2年に造られた地蔵堂も置かれている。



(日方村 東条)

日方村西条から東条に入る。東条には5月2日に南の海岸線の国道沿いの史跡を巡った際に、今日小豆島マリア観音塔と水神を訪れている。


高木明神社、荒神社、稲荷神社、天満宮、金比羅宮

安養寺の東側に流れる明神川を下流に進んだ所の鈴ヶ森に高木神と呼ばれる高御産巣日神 (たかみむすび) を祀る高木明神社がある。日方の氏神の荒神も合祀しているので荒神社とも呼ばれている。この神社についての紹介は鈴ヶ森と呼ばれる社叢についてがメインで神社自体についてはほとんど見つからなかった。小規模ながら豪壮な巨樹をよく残した社叢でムクノキ、島内最大級のウバメガシ、カゴノキ、ヤブニッケイ、クスドイケなど豪壮な巨樹が社殿を取り囲み、荘厳な鎮守の森を形作っている。かつて山に生息していた木々が古い時代に山くずれでこの地に運ばれ定着した群落と考えられている。この森の中にある古霊木を祭神として祀ったとも推測される。

この神社は中世・室町時代、1497年 (明応6年) 赤松文書に「日方明神」と記されているので、かなり古くから存在していたと思われる。境内への入り口には注連柱が置かれ、それを入ったところには金と刻まれた2基の燈籠もある。金比羅も祀られているのだろう。拝殿と本殿はそれぞれが独立した造りになっている。笠井家文書の「日方高木明神棟札写」によれば、 1533年 (天文2年) に修造が行われたとあり、大願主は後年の年寄家鎌田氏の祖「守末藤原安満」とある。本来は鎌田氏の氏神であったとされ、地元では「もり末さん」と呼ばれていた。

境内に入ると左側には稲荷神社、右側には日方村の公民館が置かれている。この神社が昔から村民が集まる場所だった事がわかる。

拝殿、本殿を取り囲む境内には幾つもの祠が置かれている。多分、日方村内にお置かれていた拝所をこの神社に移し境内末社として祀っているのだろう。拝殿の左側には2基の祠が置かれている。写真左の祠には「菅原」という文字が祠内部に刻まれているので、菅原道真を祀った天満宮だろう。もう一つの祭祀は不明。資料によれば、日方村には歯神を祀った拝所があると記されている。今回はこの歯神は見つからなかったので、この境内にある祠の一つが歯神かも知れない。また、この高木明神社には西宮の本社から勧請され「もとえびす」と呼ばれ、内海湾沿岸の恵美須神の大本であるといわれる西村久徳の恵美須神が移されているそうだ。

反対側、本殿の左から奥にかけても2基の祠が置かれている。この内の一つには石造と近年に置かれたのだろう大黒天の像がある。これが金比羅宮に当たるのだろう。また奥には香川県に多く見られる地主神の五神を祀る五神名地神塔の五角柱が置かれ、天照大神、大黒として知られる国造りの神の大巳貴命 (おおあなむちのみこと)、大巳貴命を助けた国造りの協力神の少彦名命 (すくなびこなのみこと)、農業の神の植安媛命 (はにやすひめのみこと)、穀物の神の倉稲魂命 (うかのみたまのみこと) を祀っている。

先程訪れた安養寺の北側の遍路道を明神川を渡り東に進む。


日方札場の地蔵、鎌田家供養塔

明神川を渡り更に道を進むと日方村にあった二つの条の一つの東条の地域になる。道端に祠が置かれて地蔵尊が安置されている。先程訪れた高木明神社を1533年 (天文2年) に修造した鎌田氏と関係がある。

古い昔、原部落西の谷に居住していたといわれる鎌田久平が、霊夢で坊主が洞の地蔵さんがに現われ、「日方へ行きたい」と告げたので、その地蔵を背負って、この場所に移したと伝わっている。それ以来、日方村の東条 (部落) の住民に信仰されていた。江戸時代初期にここに切支丹禁教の高札が建てられた事で「札場の地蔵さん」と呼ばれる様になった。

日方村の年寄を務めた鎌田の先祖は代々源氏の郎党で、平将門の乱を鎮めた藤原秀郷の五世であった相模守藤原公光の次男の通家が長元年間 (1028年~1036年) に分家して首藤姓を名乗り、源氏の家人となって鎌倉の山内に住んでいた。首藤家から分家した通清は駿河国鎌田の地を与えられ、初代権守を名乗り、後に北条時政の鳥帽子親をつとめたという。

二代次郎衛政家は源義朝の従者をつとめ、保元の乱の功により従五位兵衛尉に任じられるが、元治の乱にて源義朝とともに討死。その後三代新藤次俊長、 四代次郎衛門尉行長 (鎌倉幕府京都大番に所属) と続き、五代貞右衛門俊之が1220年 (承久2年) の頃、鎌倉幕府の移討命により、一族郎党十八家が千石船三艘に乗り、小豆島干潟村に移住し、鎌田姓を名乗り武士のかたわら廻船業を始めている。五代貞右衛門は鈴が森に守護神高木神社を建立している。以降代々貞右衛門を踏襲し干潟村の地頭をつとめた。1576年 (天正4年) には、14代寧忠は小豆島から船50余艘、加子650人と共に織田信長の石山本願寺攻めに参戦して討死している。江戸時代には鎌田一族の各家は独立し、4家は廻船業、2家は醤油業を始めたが明治時代には転廃したそうだ。 現在、鎌田墓地にかかわる同族は9家あるそうで、昭和49年に古い墓石を整理し築かれた供養塔が日方札場の地蔵の隣に造られている。供養塔の頂上いは鎌田家始祖の鎌田貞右衛門の墓標が置かれている。



草壁本村 

西村の東側が草壁本村になる。本村は三つの村で構成されていた。下村、上村、方城になり、江戸時代のそれぞれの戸数は 91 (1744から1748年の延享年間) ~ 94 (1838年 天保9年)、171~204、43~37となっている。戸数は上村が最も多いのだが、これは面積が多い事によると思われる。海沿いの面積の狭い下村が草壁本村の中心で、民家が密集していたと考えられる。



(下村)

下村には五つの村があった。木場、川東、三軒屋、中村、五軒屋で下村では条をつけて呼ばず、単に村の名称で呼んでいた。下村で現在の行政区も変わらず残っており、木場が西木場と東木場に区分されて六区構成となっている。江戸時代、下村には、1744から1748年の延享年間には 91戸、約100年後の1838年 (天保9年) には94戸しかなく、下村には5つの条 (部落) があり、平均すると一部落18~19戸となり、それぞれの条は小さな集落だっただろう。


(木場)

草壁本村 下村 木場の史跡

  • 寺院/庵等: 本堂 (23)
  • 神社: 厳島神社
  • 大手醤油会社: なし
  • その他: 大師像、地蔵尊、桜沢如一記念館、旧天川家住宅土蔵、旧福井家住宅土蔵

下村には6つの荒神社、各条 (部落) には山の神があるそうだが、その所在地は資料には書かれておらず、木場にあるのかは不明。


大師像

日方から遍路道は国道合流する。国道を西村の清水地区を通って下村の木場に入ると直ぐのところ林の前に大師像が置かれている。今は国道が走り遍路道は消滅しているのだが、ここは遍路道だったのだろう。お遍路道には同行二人といい、弘法大師と二人での巡礼を意味する言葉がある。遍路道にはしばしば弘法大師を祀った像が置かれて、お遍路さんを励ましている。


草壁港

小豆島には高松市、岡山市、神戸市などを結ぶ航路の6港 (土庄、池田、草壁、坂手、大部、福田) があった。木場にはその一つの草壁港がある。この航路は2021年3月末で運休になっている。2023年12月には大部から岡山の日生町へ向かう航路も休止となる。

コロナ禍と燃料費高騰が直撃し、旅客が前年度からほぼ半減し、運輸収入が約45%減る大打撃を受けた事が直接の原因だ。これに対しては、離島住民の運賃割引費用に加え、赤字見込み額の2分の1、公設民営化方式導入による船の建造費用の一部などが支援されるのだが、国の予算は全国で70億円しか無く、その条件は「唯一の航路であり、なおかつ赤字」というもので、それをクリアするにはハードルが高い。経済的には赤字の一部補填で、短期支援策で、根本的な解決にはなっていない。これに対しては自治体は不満をもっている。ただ、池田港、草壁港、坂手港はそれぞれが近距離にあり、三社が小豆島の航路利用客の25%の争奪戦の激化で経営に厳しさが増していた。この状況を小豆島の行政が放置していた事もも大きな原因だろう。いずれ池田港と坂手港も一つにする事と思える。更に、国の示す補助の条件に従えば、土庄港への一本化が不可欠な様に思えるが、小豆島町と土庄町の確執で小豆島市とならなかった事で更に一本化は難しいだろう。これでは共倒れになってしまう。また一本化には村民の同意が必要で避けて通れない。確かに住民にとっては選択肢があった方が良いのだが、少しの不便を我慢すべきだろう。その中で、草壁港航路の再開運動 (上の写真中) も行われている。航路の実質上廃止で、その港で生計を立てていた住民には大きな痛手だが、行政は住民の理解を得るためにもその地域の経済リカバリープランを考えるべきと思える。


石の島の石 (sd21 中山英之建築設計事務所) 

草壁港には瀬戸内国際芸術祭の作品も展示されている。石の島の石 (sd21 中山英之建築設計事務所) でトイレになっている。中も綺麗に維持されている。これはいい。気持ちよく用が足せるだろう。近くには石の作品もあった。


桜沢如一記念館

草壁港の海岸線近くに純正食品マルシマの創業者の杢谷清が建てた桜沢如一記念館がある。杢谷清が体調不良となり、桜沢如一の食養に出会い、体調を回復する。これがきっかけとなり、桜沢を小豆島に招き、その指導の元、昔ながらの純正醤油を完成させた。それにより、できる限り農薬や添加物を排除した製品づくりで現在の純正食品マルシマに成長させている。平成1年に桜沢の業績を讃えるために建てたのがこの桜沢如一記念館になる。


厳島神社

草壁港には朱塗が鮮やかな厳島神社が建っている。厳島神 (市杵島姫命) を祀っている。この厳島神社が昔からこの地にあったのか、移設されたのかは分からないが、下村の海岸一帯は江戸時代には塩田が広がっていた地域になる。


宝食品天川亭 (旧天川家住宅土蔵)、宝食品福井亭(旧福井家住宅土蔵)

草壁港の外側に天川亭、福井亭と書かれた古い建物が二つ並んで建っている。天川亭は昭和10年頃に苗羽芦の浦にあった土蔵で豊島石による基礎に本瓦葺、切妻造、平入で造られた旧天川家住宅の土蔵、福井亭は苗羽馬木にあった旧福井家住宅の土蔵で造りは天川亭とほぼ同じになっている。1993年(平成5年) にここに移設されている。ニ棟一体となり地区の集会施設として活用されている。2016年の第三回瀬戸内国際芸術祭では福井亭には現代インド、天川亭には日本社会をテーマの絵画の展示会場にも使われた。


内海港廃棄物埋立護岸

日方の山から草壁港を見たときに埋立地が目に留まった。これは香川県内から出た廃棄物の最終処分場で、総事業費約34億円で埋め立てられた。面積は10万平米で都市開発用地として分譲売却される様だ。


地蔵尊

草壁港から次の札所の本堂に向かう。星城小学校の東の川沿いの道端に地蔵尊が置かれている。


第23番霊場 本堂

道の突き当たりの尺越地区に第23番札所の宝海山本堂が置かれている。石段を登った小山の上に境内が広がり、鐘楼、六地蔵の横に地蔵堂が置かれていた。

山を背にして清見寺塔中の本堂が置かれ、中には護摩壇があり、その奥に恵心僧都御作と伝えられる本尊の釈迦如来が福田八幡宮別当東光寺 (神宮寺) から遷座されて安置されたと伝わっている。ある資料に江戸時代の島遍路八十八ヶ所霊場のリストが掲載されていた、それによるとこの第23番霊場は東光寺となっている。東光寺は葺田八幡神社の別当寺ではあるが、1681年 (延宝9年) に神宮寺と名称を変更したとあるので、東光寺は福田村にあったことになる。この地は亀山八幡神社の管轄地だったので、福田八幡神社の別当寺がここにあったとは考えにくい。東光寺の名だけを借りてそうしていたのかも知れない。ただ、福田村史にはこの東光寺に触れている記述は見当たらなかったので、何が正しいのかははっきりしない。

江戸時代には、この庵は草加部村七ヶ寺の管理下で、結衆寺院の会座堂となっていた。涅槃会の当日には門前に人形市が立ち人で賑わったという。

本堂の裏には江戸時代に建てられた五輪供養塔、念仏供養塔、諸国を遍歴する六十六部行者行者法華経書写をして全国の六十六の霊場に納経して満願結縁する巡礼の六十六部廻国供養塔、数珠念仏を百万遍唱え疫病退散を祈る百万遍供養塔が置かれている。

また、本堂横には台座が残っている。台座の上には何も置かれておらず、台座の銘文を見ると「長西英三郎翁為人温厚……以為長者創設島醤油製造株式会社翁選為社長在宅●十有七年務々●勉以至●●●隆盛翁是我郡之思人也●現任社長中田延次興●●●銅像以表追慕之情」と読めない箇所が幾つかあるのだが、小豆島で醤油組合を創立し醤油王と呼ばれた長西英三郎の銅像が大正時代に建てられていた事が分かる。銅像は先の太平洋戦争中の金属類回収令で軍に供出されたのだろう。


(中村)

次の札所の第22番霊場 峯之山庵は星城小学校の向こうに見える小高い山にある。この山が木場と中村の境界線になり、中村は山の向こう側に広がっている。村の規模についてはわからないが、江戸時代、下村には90~95世帯しかなく、下村には5つの条 (部落) があり、平均すると一部落18~19戸となり、中村は平均以下の戸数と思われるので、小さな条だっただろう。


草壁本村 下村 中村の史跡

  • 寺院/庵等: 峯之山庵 (22)、清見寺 (21)
  • 神社: 島戎神社 (合祀: 祇園社)、八坂神社 (境内末社: 荒魂神社、天満宮)
  • 大手醤油会社: 丸島醤油
  • その他: 戦没者慰霊碑 (峯之山庵内)

島戎神社、祇園社

八坂神社に向かう道を進み、八坂神社への階段前に広場があり、そこには島戎神社が置かれている。島戎神社では江戸時代にあった玉蔵院の鎮守の祇園社も合祀している。下村の清見寺の近くには玉泉院と玉蔵院という山伏寺があって、草加部村内の有力者として、村同志の漁場争いなどの調停役もになっていた。山岳山伏験者が近世に村内に定住して檀徒の援助を得て寺院をもつことになったと思われる。玉泉院、玉蔵院ともに京都聖護院流本山派の山伏頭 (天台宗系山伏) として、下村に寺院を備え、玉泉院はその鎮守として若王寺権現 (清見寺西方にあり) をまつり、玉蔵院は鎮守として祇園社を奉祀していた。両寺院は本尊として不動明王を祀り、「当島山伏頭」と呼ばれ、全島の山伏の中心的存在だったで あった。江戸時代以前には廃絶したと思われる。祭神は本来は牛頭天王で疫病を防ぐ神だが、その後、素盞鳴尊が祀られる様になった。3月14日に例祭が行われている。

広場には玉蔵院の鎮守の祇園社の名をつけた祇園会館があり、地域の集会所となっている。


八坂神社、荒魂宮

広場から鳥居をくぐり階段を登り八坂神社へ。登りきった正面には八坂神社の拝殿が置かれている。他の八坂神社と同じく、元々は疫病を防ぐ神の牛頭天王 (ごずてんのう) を祀っていたが、いつの頃か、素戔嗚尊 (すさのをのみこと) になり同一視される様になっている。

拝殿、本殿奥には幾つもの境内末社が置かれている。その中で手前の一番大きな祠には荒魂宮と書かれている。中村の氏神の荒神を合祀している様だ。

その奥には神輿倉、と古い祠を納めた殿がある。祭神は不明。

拝殿、本殿の反対側にも境内末社がある。大きい祠の祭神は書かれていなかったが、小さな方は天満宮と書かれて、中には菅原道真の絵を祀っていた。

この広場では5月10日に春祭りが開催され、神輿の御旅、太鼓台、獅子舞奉納が行われている。


第22番霊場 峯之山庵

先に訪れた第21番札所の本堂から見えた山の上にある第22番札所の峯之山庵へは、八坂神社から山道を通って行く。道が分岐し、上に登ると墓地に出る。峯之山庵の墓地だろう。

ここからは星城小学校の向こうの山に先程訪れた第21番札所の本堂が臨める。

墓地の中の道を下った所に峯之山庵がある。縁起は不詳だが。小豆島の五社八幡宮祭礼に関係する村の寄合席を明治の神仏分離令の際に札所に改めたものと推測されている。

庵の左手に鐘楼、右手には昭和53年に建てられた約70柱を刻んだ戦没者慰霊碑、墓石群、 日を限ってお参りすれば願いが叶うと言われる日切地蔵尊の小堂がある。

ここからは今日歩いてきた木場、中村の町が広がっている。


中村にはもう一つ札所がある。清見寺で、部落の境になっている別当川の西岸にある。そこに向けて北に向かう。


丸島醤油

清見寺にもう少しという所、道沿い大きな醤油樽が置かれている。ここにある丸島醤油のモニュメントになる。草壁港に桜沢如一記念館を建てた純正食品丸島は戦後の会社で、1950年 (昭和25年) 醤油製造販売業として設立。1960年 (昭和35年) には無添加醤油の製造に成功し、醤油製造に加え、だしの素と漬物部門を新設している。昭和52年には佃煮工場を新設し、「醤油部門」「だしの素部門」「佃煮部門」「漬物部門」4本の柱で事業展開をしている。


第21番霊場 清見寺 (せいけんじ)

1664年 (寛文4年) 建造の鐘楼門を入ると境内になる。現在の鐘楼門は平成6年に建て直されたもの。

宝界山遍照院清見寺は本尊に不動明王を祀る寺院で21番札所になっている。1605年 (慶長10年) の八幡神社建築時の本願は遍照院住持権大僧都隆遍と棟札に書かれており、地元では遍照院と呼ばれていたと思われる。境内には不動明王を祀る本堂、歓喜天を祀る聖天堂 (写真下)、地蔵堂等がある。鐘楼と同時期に建立され、本堂の大屋根は1987年 (昭和62年) に完成落慶され、聖天堂は1995年 (平成7年) に建て直されたもの。

寺伝によれば、平安末期の後白河天皇 (1127 ~ 1192年) の勅願寺であったとされている。当時、草加部郷等は後白河天皇の父帝の鳥羽天皇の皇女の八条院領であった事から勅願寺となっていたとも考えられる。この事から、清見寺は12世紀以前から存在していたことになる。当時は、清見寺本寺を中心 にして玉蔵院、玉泉院、福寿院、端雲院を擁して広大な寺域であったとも伝えられている。このうち玉蔵院、玉泉院は山伏寺で、清見寺も修験山伏が尊崇した不動明王を本尊とするところから、平安末期から中世にかけては修験者の中心となっていたとも推量されれいる。江戸時代末期には海援隊が小豆島の拠点となっていたという。

境内に置かれた地蔵尊、仏像、燈籠、板碑

このお寺が少し変わっているのが、山門近く外塀、寺の隣の付属幼稚園庭に石彫作品が置かれている。住職の知り合いの芸術家の作品だそうだ。空充秋氏作の庵治石の黒石を33個と白石108個組み合わせた6本のアーチ、の「六大の架け橋」と田中充樹作の「うさぎの耳はよくまわる」


以上は今日の前半に訪れた史跡だが、この後も札所、史跡巡りを続く。訪問記が長くなるので、後半の訪問記は別途とする。




参考文献

  • 内海町史 (香川県小豆郡内海町)
  • 小豆島お遍路道案内図
  • 小豆島町文化財保存活用地域計画 (2022 小豆島町)