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優しさという医術

2024.09.10 12:28

https://fragie.exblog.jp/30662343/ 【優しさという医術】より

鬼灯の花。

葉っぱに対して花が小さくて愛らしい。

さて、昨日の京都のウェスティン都ホテル京都で行われた「晨」35周年のお祝いの会について、すこし紹介したい。

外部のお客さまは、おもにメディア関係の方のみで、晨同人、晨詩友の方が中心となったお祝いの会であった。

第1部では、元毎日新聞社専門編集委員で文芸ジャーナリストの酒井佐忠氏による講演があった。タイトルは「花月のコスモロジ-と現代俳句」と題して、大峯あきら著『花月のコスモロジー』を読み解きながら、大峯あきらの俳句を考察したもの。大変興味ふかく拝聴した。

酒井佐忠氏。

「大峯あきらは、宗教家、哲学者、詩人としてあったが、とりわけ詩人としての姿をおのれに求めた」と講演。

(いずれ「晨」でこの講演は収録されると思うので一読をおすすめしたい)

第2部の開会の挨拶は、中村雅樹代表。

山本洋子代表は、ご体調がおもわしくなく出席がかなわなかった。お目にかかれなかったのは大変残念だった。

中村雅樹代表は、昭和58年10月号に書かれた大峯あきらの「良い俳句をつくる」という俳句への思いに触れながら、今後の「晨」のあり方について語られたのだった。

中村雅樹代表

「中村雅樹でございます。二時間前に代表となりました。(笑)ほやほやでございます。本来ならば山本洋子名誉代表の方からお言葉があるはずだんですけれども、ご体調がままならずご出席はかないませんでした。3月の終わり頃だったでしょうか、この大会に出席することをずいぶんと意欲を以て楽しみにしておられたのですが、その具合が悪くなってしまいました。」というご挨拶ではじまり。

「大峯先生は、20代のときから俳句の根源をさぐっていく、根源を求めていく、そういった思索を重ねられてきました。日本の文芸である俳句の根源を探っていくと普遍的な詩という大きな水脈にぶつかるわけです。この水脈からエネルギーが出てくるわけです。こうしたことを当時の大峯先生はかかれているのですが、ここに晨の思いがあるのです、わたしはこうした「晨」の思いそのまま受け継いでいきたいと思っております。」

とご挨拶をされたのだった。

乾杯の音頭は、茨木和生氏。

俳誌「晨」には存じ上げている方も多く、なつかしい方にもお会いできて、心和やかなお祝いの会となった。

お名前をおひとりおひとり挙げませんけれど、お目にかかれて本当に嬉しく思っております。

お声をかけてくださった方々、あらためて嬉しかったです。

会場の「晨」の皆さまの様子を写真にとれば良かったと後悔している。

おいしいお料理にすっかり心を奪われたしまったyamaokaだった。

山本洋子代表、中村雅樹代表、そして「晨」の皆さま、35周年おめでとうございます。

同人誌としての良さを大切にさらに充実したものになられますように。

新刊句集を紹介したい。

御子柴明子句集『子らのゐて』46判ふらんす装透明カバー掛け。 208頁

著者の御子柴明子(みこしば・あきこ)さんは、1945年甲府(疎開先)生まれ、現在は東京・三鷹市在住。小児科医のお医者さまでご家族そろって医師である。本句集を読んでいくと、三人の男の子を産んで育てられたが、ご長男を30歳のときに突然の病で亡くされている。本句集は、その息子さんへのレクイエムが中心となって編み出されたものである。

御子柴さんは、1993年に慶應義塾中等部の校医をされたいた時に、そこの教職員だった行方克己氏に出会い、俳句をはじめる。1998年、「知音」入会、行方克己、西村和子に師事。現在は三鷹市に「みこしばクリニック」(精神科、小児科)を開院されている。

本句集には、西村和子代表が帯文、行方克己代表が序文を寄せている。

西村代表の帯文を紹介したい。

30歳で途切れてしまった 長男のアルバム その思い出と それからの母の思いを

残したいと思い立って 編まれた句集。

小児精神科医として 俳句作者として 喪失感と虚無感から立ち直る力を与えられたのは

新たなる幼い命だった。

この帯文に書かれているように本句集は子どもが登場する。ご自身の子どもたち、その子どもの子どもたち、つまりお孫さんたち、まさに「子らのゐて」編まれた句集である。

序文を書かれた行方克己氏は、御子柴さんの子どもたちを詠んだ俳句を懇切にたどる。そして、とりわけご長男を30歳で失ったときにことに立ち止まる。

 主なき目覚ましの鳴る夏の果        生れし日の寝顔で眠る月白し

 秋晴も秋風もガラスの向かう        吾子は亡し湯豆腐の味ほど確か

 あかんべえも無くて人生卒業す

この句集は、必然的に伸彦さんへのレクイエムという性格を帯びてくる。

どの句にも、若く前途ある子を死なせてしまった母親の、深い悲しみが沈潜する。

 エイプリルフール彼の世のメール来て   きしきしと雪踏む思ひ出を踏む

 雪片のとどまらず時とどまらず

本句集には亡き息子を詠んだ句が、癒やされぬ悲しみとして収録されている。

悲しみは消えることはないが、その死者もやがて大切な家族の一人として追憶の中に生きるようになる。

 瞼の子笑うてをりぬ朧月          月朧ろ天上の子と酌み交はす

 五月闇彼の世の息子訪ふごとし

孫たちの誕生もあって、新しい命にだんだんと癒やされていくのだ。

 柏餅一つたひらげ泣き虫は    水遊び何でも出来る子に変身

 児のことば急に増えたり水遊び

三人の子供の育児に励んでいたときと変わりのない日常がここにはある。また、そのまなざしには小児科医としての視線も感じ取れるのは興味深いことだ。

序文を抜粋して紹介した。

本句集の担当は、Pさん

 さざめけりさざめけり犬ふぐり群れ       主なき目覚ましの鳴る夏の果

 秋晴も秋風もガラスの向かう          優しさてふ医術ほしけれ秋の水

 きしきしと雪踏む思ひ出を踏む      小さき手の囲ひては撫づ蟇

 さざめけりさざめけり犬ふぐり群れ

犬ふぐりを見たその時に感慨を詠んだ句だ。「犬ふぐり」って小さなブルーの花である。おおかた密集して畑の淵とか道ばたに咲いている。その青が美しいので自然と目にとまる。そう、密集して咲いているさまは、まさに「さざめく」という言葉がふさわしい。それも繰り返すことによって、小さな犬ふぐりの群れが日の光の下でさざめいているそんな感じがよく出ていると思う。調子もよく、犬ふぐりを見たら、口ずさんでしまいそうである。

 きしきしと雪踏む思ひ出を踏む

雪がすこし堅くなってきた道だろうか、「きしきし踏む」というのが、雪を踏んだらそんな音がしてきそうでわかる。「きしきしと」という音の響きが細く鋭くそしてちょっと切なく思える、だから蘇った思い出もきっと切なく哀しいものかもしれないと思わせる一句だ。

  秋晴も秋風もガラスの向かう

この句も印象的な一句である。この句については、「あとがき」に紹介された西村和子代表の言葉があるのでそれをそのまま、紹介したい。

「あとがき」にはこんな風に書かれている。

長男、伸彦の「蜘蛛膜下出血」による突然の死は、悲しいというより苦しい、想像を越えた喪失感をもたらした。彼は大学病院での研修を終えて、都立大久保病院の眼科勤務医であった。亡くなった日は初めて一人で白内障手術を執刀した日であった。

半年以上経ってこの頃の句を投句したところ、西村和子先生が次のように評をくださった。

 秋晴も秋風もガラスの向かう

秋晴も秋風も、全く自分とは無縁のものとして、ガラスの向こうを通り過ぎるにすぎない。それは作者が大きな悲しみを体験し、何事にも心が動かない虚ろな状態にあるゆえだ。外が秋晴であろうと、出て行く気にもならない。酷暑が去って、町に秋風が吹き始めたと知っても、その中を歩きたいとは思わない。「ガラスの向かう」は、作者が家の中に籠もって居ることを表しているだけではない。季節の移りゆきも、世の中の事どもももはや自分とは関係のないこととしか思えない。そんな思いを表したものだろう。

私は俳句を通して和むことができた。

「知音」のお二人の先生の句評は心強い励ましであり、大きな力となった。深く感謝申し上げる。そしてこれを機にまた日々感ずることを言葉に託していきたいと思う。

序文によれば、いまは投句を休んでおられるということであるが、きっと本句集の上梓をきっかけに投句を再開されることと思う。

ほかに、

 靴の泥落さんと雪踏みにけり       濁る河にも春光の弾け散り

 楊柳の己れの影と触れ合へる       外套を助手席に乗せ出勤す

 吾子の指スエターの模様抓まんと     雪礫やうやく父に当たりたる

 バスの蠅ひとつ追ひ出しひとつ入れ    冬の朝遺品の時計遅れ気味

 雪片のとどまらず時とどまらず      子らのゐし葡萄の粒のやうな日々

 亡き子にも志あり天の川         幼な目の二重くつきり春の星

本句集の装丁は和兎さん

白い本なので、汚れをふせぐために透明のカバーをかける。

表紙にもちいた装画は、次男さんの御子柴徹朗さんによるもの。

見返し。

扉。

花布はグリーンに。

緑色が差し色となった明るさに満ちた本であることが嬉しい。

透明感のある光をまとった一冊となった。

この句集の上梓を切っかけに、作句を再開したらどうだろうか。明子さんの句稿に、しばらくぶりで目を通しながらそう思った。是非そうして欲しいと思う。

序文で行方克己代表は、強く希望をしておられる。

 優しさてふ医術ほしけれ秋の水

21世紀になってからの医学の進歩はめざましいものがある。ぜったい無理って思っていたものが救いの道があるっていう情報などに驚き喜んでいる昨今である。医学の向上発達はすばらしいのだけれど、患者に接するのは医師でありその優れた技術を用いるのも医師である。わたしたちの病の治療はその担当医師如何にかかわっている。病人はどうしたって心細く気持ちも萎えている。やっぱり優しいお医者さんがいい。この句、医師である御子柴さんの句である。ご自身のなかに「優しさ不足」を感じたのか、あるいは患者となってまたはその家族となって医師の冷たさをおもったのか、お医者さんの句であることが興味深いし、嬉しい気持ちもする。「医術」という言葉は、医療の技術であるわけだが、「優しさてふ技術」はあくまで人間にかかわるものだ。人間から発信するものだ。(将来的には優しさたっぷりのAI医師が登場したら大歓迎だけど)「ほしけれ」という措辞が、現実的にはない、という状況を示している。この句、「秋の水」がだんぜん良い。「ほしけれ」という気持ちをきっぱりと清潔に強く押し出している。


Facebook東郷 清児さん投稿記事

初めての看取り 〜後編〜

ボスミンの注射も、結局全く効果はなかった。

心臓マッサージとアンビューバッグ(マスクを当てて酸素を送り込む道具)による人工呼吸を懸命に続けたが、回復は叶わなかった。

やがて呼吸が止まり、心臓はモニター上での波形を失った。

蘇生開始から1時間以上が経ち、その身体は血の気を無くし全くの無反応となった。この時点で誰の目にも死亡は明らかであった。

手を止めてぼんやりと見ていたら、「家族が着くまでマッサージは続けてください!」と看護師に怒られ、戸惑いながら再び両腕に力を込めた。

しばらくして娘さん夫婦が到着した。涙ながらに駆け寄った娘さんに、

「処置中ですから廊下でお待ちください」と看護師は遮った。

形だけの心臓マッサージをしばらく行ってから、「どうぞ中へ」と家族を処置室に招き入れた。心電図モニターの平坦になった波形を示しながら治療の内容と経過を説明した。聴診器で心臓と肺の停止を、ペンライトで瞳孔が開いて動かないことを確認し、そして、「ご臨終です。」と家族へ死亡を告げた。

父親の亡骸にすがりついて泣く娘さんの背中に向かって、

「できる限りの手は尽くしたのですが残念ながら力が及びませんでした。本当に申し訳ありません。」看護師に教わった文句を口にして頭を下げた。

「ここまでしていただいて本当にありがとうございました。父も喜んでいると思います。」

返ってきた言葉に(俺も医者として一人前の仕事を成し遂げた!)と、その時の自分はそう感じた。

月日が経ち、在宅での看取りを仕事とするようになった今、そのときの風景がなんとも言えないやり切れなさと共に蘇る。

「死」はひとりの人間に一度しか訪れない荘厳な瞬間である。どのような形で、どのような場所で、その場面が訪れたとしても、そこに存在するのは、人生という厳しい闘いを終えようとしている戦士であり、自らの死に様をもって、残された者へ「生きる」ことを考えてくれる師でもある。

ヘマをせずその場を無難に乗り切ることしか頭になかった自分。

その老翁が長きに渡って背負ってきたであろう重荷から解放され、安息の世界へ滑り込もうとしていることに想いを馳せることができなかった未熟な自分が、そのとき彼が最も望んでいたものを奪ってしまった気がしてならない。

ただ、私の手の中で最期を迎えることになったそのいのちが、30年近く経った今になっても、「死にゆく人にどう向き合うべきか」、「死に臨む姿勢はいかにあるべきか」、

「理想の最期とは?」 、「尊厳とは? 」・・・

答えの無い問いにぶつかる度に、私を叱咤激励し方向性を指し示してくれるのである。


https://www.magonoteclub.co.jp/dayori/202304/ 【「看取りケア」について】より

医療法人社団医輝会の理事長・東郷医院院長の「東郷 清児先生」に、看取りケアについてお伺いしました。

看取りとはギリギリまで尊厳ある生活をサポートすること

看取りとは、間近に迫った死が避けられないとわかった時から始まる。”人生最期の看病”だと考えています。看取りの本質とは、積極的な治療ができず、回復の見込みがない方に対して尊厳ある生活をギリギリまでサポートし、尊厳ある死を見守ることです。そのため、看取りでは、医療行為よりもご家族や介護ヘルパーさんなどによる日常生活のケアが主体となります。

マッサージ

患者さんやご家族の死生観もここ十数年で変化しつつある

死への考え方も、ここ10~15年で変化しています。30年ほど前は、終末期の患者さんであっても、最期は心臓マッサージなどの処置が施されていました。しかし近年は、命には限りがあり、無理に救命処置をして命を長らえさせることが、本当にご本人にとって幸せなのか?と問われるようになりました。「『平穏死』のすすめ 口から食べられなくなったらどうしますか」(石飛幸三郎著・講談社)が刊行された2010年あたりから、医療従事者を含め、人々の間に変化の兆しがあったのかもしれません。

最期はどうしたいか?を元気なうちに確認しておく

治すのが難しい病気だと診断がついたときや、もう治療方法がないとわかった時などのタイミングで、1日でも長く生きたいのか、きつい治療はしたくないのかなど、延命治療の有無を含めて、最期はどうしたいのかをご本人に確認しておきましょう。人の気持ちは変化しますので、意思表明の内容は、いち更新しても大丈夫です。何より大切なのは、ご本人の気持ちを受け入れ、看取りケアに関わる方全員で共有することです。

看取りケアの準備期

亡くなる1~2か月前より、活力や身体的な機能は急速に低下していく

看取りケアの準備をいつごろからはじめたらいいのか、判断するのは難しいですが、かかりつけの医師に相談しつつ、患者さんに以下のような変化が現れたら、準備を始めた方がいいのかもしれません。

・体力が低下し外出が難しくなる

・じっとしていてもダルい

・ちょっとしたことで息が切れる

・食事が目立って低下し、体重も減少する

・日中も横になっていることが多くなる

・ボーっとして忘れっぽくなる

看取りケアの開始期

亡くなる1週間~2日くらい前から、日単位でお身体に変化がみられるく

以下のような症状が見られたら、看取りケアを始める時期となります。症状は1日単位で変化します。

・水分や薬が飲めなくなる

・発語が減ってくる

・衰弱して、目に勢いがなくなる

・むくみやすくなる

・生活が全面介助になる

・傾眠傾向や意識障害がみられる

・時間や場所、人などがわからなくなる

亡くなる間際の看取りケア

言葉や動作で反応できなくても、意識があるときと同じように接してく

目が開けられず、言葉が出ない状態でも、ご本人にはちゃんと声は届いていますし、感情もあります。声をかける、手を握る、身体をさする、そばにいることでコミュニケーションはとれており、周囲の人の気持ちは伝わっています。その人との関係性を変える必要はありませんので、普段と同じように接してあげてください。

もし、ご本人が話せる場合には「そんなことは言わないで」と話を中断することはせず「何を考えているの?」と尋ねてあげてください。安易な励ましやなぐさめは慎み、本人の言葉に耳を傾けることが大切です。

親しい人を看取るとき、どうしたらいいの?Q&A

看取りをする際には、様々な問題に直面します。食べられなくなったらどうするのか、病院か、在宅か、本人の意思はどう確認したらいいのかなど、選択の連続です。看取りケアの現場で直面する課題にどのように対処していけばいいのか、東郷医院院長の「東郷 清児先生」に引き続きお伺いしました。

Q.食べられなくなったとき、胃ろうを作ってもいいのでしょうか?

Q.何歳だからもういいのでは?と思いこまないことが大切です。

患者さんが90歳、100歳という年齢の場合「食べられなくなったらおしまい。この年で胃ろうを作ることに何の意味がありますか?」と言われてしまうケースがありあます。こんなケースがありました。あるご高齢の患者さんは、ステーキを食べるほどお元気だったのに、骨折してしまい、手術後2か月ほど入院。食べられなくなってしまい。病院からは「これ以上、何もできません」と言われて自宅に帰されました。ご家族からは「このままではどうしても諦められません」と言われ、点滴からはじめて、違う病院で胃ろう(胃の壁に小さな穴をあけて、そこから栄養を入れる方法)を作ってもらいました。するとお話ができるようになり、胃ろうが外れて口から食べらえるように。さらにはリハビリができるほどお元気になりました。

Q.本人の意思を尊重したいのですが、家族に本音を話してくれているか自信がありません。どうしたらいいですか?

Q.介護ヘルパーさんやマッサージの方、友人などに本音を話していることも。意思決定の場に家族や医療従事者以外の方も入れてみて。

ご本人が、自分の意思を表現できない時、家族と医療従事者で今後のことを決めがちです。しかし、本音は介護ヘルパーさんやマッサージの方、気の置けない友人に本音を話していることは少なくありません。もしご本人がどうしてほしいのかわからないときには、その患者さんと過ごす時間の長かった方に尋ねてみることも大切です。意思決定の話し合いの場にも、出来れば入ってもらいましょう。

Q.家で看取るのか、病院の方がいいのか。いつ頃話し合っておいた方がいいですか?

Q.もう治らないとわかった時点で、最期はどうしたいのか、どうするのか話し合っておきましょう。

病院なのか、在宅なのか。悩む方は多いと思います。ある患者さんびケースですが、在宅で看取るための体勢はしっかりつくっていたのですが、普段は家に帰ってこない息子さんが「家ではちゃんとした治療なんかできない」と思い込み、無理矢理、病院に選んでしまいました。しかし声おなかのため付き添いもできず、病院でなくなるというケースがありました。患者さん本人はずっと「最期まで家で過ごしたい」と希望されていましたが、仕事が忙しいからと息子さんは話し合いに参加してくれなかったのです。こういうケースを避けるためにも、治る見込みがないとわかった段階で、今後のことを、家族全員で話し合いをしておいてほしいと思います。

Q.家族でもなくなる人の気持ちはわかりません。看取ると際、一番大切なことを教えてください。

Q.死に優劣はありません。その方の人生に敬意をもって、見送って差し上げてください。

どんなに親しい家族でも、なくなる方がどのような思いを持っておられるかはわかりません、ましてや死の怖さをどう乗り越えて、安住の域へと至るのか、周囲の人にもわからないことだと思います 。しかし1つだけ言えるのは、どんなに成功した方でも、なかなか思うような人生を送れなかった方でも、死の瞬間はみな同じ。平等です。死に優劣はありません。周囲から見て、不本意な生き方だったとしても、その方なりに頑張って生き抜いたのです。”おつかれさまでした”と、敬意をもって見送って差し上げてください。

Q.患者さんに、どのような声掛けをしたらいいでしょうか。言葉がうまくでてきません。

Q.ありきたりな言葉より、辛さや怖さなどを共有してくれることの方が、ご本人は救われるのかもしれません。

死にゆく方にとって、どのような声掛けがいちばん癒しとなったのか、心療内科の医師がアンケートをしたそうです。その結果「まだ大丈夫だから」などありきたりな言葉を言われるより、「怖いよね、怖いよね」と一緒に苦しんでくれることの方が、救われたということでした。良い言葉を探そうとするより、ご本人の辛さを共有していく姿勢のほうが、大切なのかもしれません。なくなっていかれる方の感情を抱きしめてあげてください。

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