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仏との出会い

2024.09.10 12:29

https://jodo.or.jp/keyword/4736/ 【称えるうちに雲晴れて】より

Vowing with a deep mind to attain Birth in the Pure Land while you chant Namu Amida Butsu naturally deepens your faith in Amida Buddha.

「紫陽花や 昨日の誠 今日の嘘」。これは、正岡子規の有名な一句で、人の心の移り変わりを花に喩えて詠んだ句です。

2年以上続くコロナ禍、ウクライナ侵攻、さらには地震や大雨による自然災害など、この時期の曇天のような世情で、心も暗くなってしまいがちではないでしょうか。そのなか、ちょっと自分の心を覗いてみるとどうでしょう。些細なことでカッと怒っていると思えば、今度は楽しく笑っている。毎日さまざまな要因によって心は振り回されています。

仏教では、特に身を滅ぼしてしまう煩悩のことを「三毒」といい、貪(むさぼり)・瞋(いかり)・痴(おろかさ)の三つを指します。これらの煩悩をどうしても抱えてしまうため、私たちは皆迷いの世界に生きる凡夫なのです。

月参りの際、あるお檀家さんとお話をしていた時のことです。「お念仏はありがたいですね。何かあったらお念仏をとなえながら、仏さまに愚痴を聞いてもらっているんですよ。すると心が軽くなった気がして、気付くと仏さまのお顔が目の前にあるんです。一種のカウンセリングみたいですね」と笑いながらおっしゃっていました。

よくお話を聞いてみると、ご先祖さまやお浄土のことを想ってお念仏をとなえていると、自分自身の悩みや愚痴がだんだんと頭の中を駆け巡り、さらにお念仏を続けると、自然と阿弥陀さまのお顔を見ながらお念仏をするようになったそうです。

宗祖法然上人は、念仏信者からのさまざまな質問に上人がお示しになったお答えをまとめた『一百四十五箇条問答』の中で、「どうしても心に妄念(煩悩)が起きてしまうのをどうしたらよいか」、という問に対し、「ただよくお念仏をしなさい(念仏すれば、妄念も静まりますよ)」とお答えになられました。

私たちは日々生きていくうえで、ついつい心の中を煩悩で曇らせてしまいがちです。しかしながら、一心にお念仏をおとなえするうちに、阿弥陀さまの光明が、心を明るく照らし、晴らしてくださいます。

世情や気候によって、心まで塞がってしまう時機ですが、今こそお念仏をとなえる日々を送ってみてはいかがでしょうか。

(大分市浄土寺 結城文親)


http://jyoukohji.com/blog/%E6%9C%AC%E6%97%A5%EF%BC%92%EF%BC%95%E6%97%A5%E3%81%AF%E3%80%8C%E4%B8%96%E7%95%8C%E5%B9%B3%E5%92%8C%E5%BF%B5%E4%BB%8F%E3%81%AE%E6%97%A5%E3%80%8D/ 【本日25日は「世界平和念仏の日」】より

法然上人のこころである共生(ともいき)の精神で、この世が安らぎに満ちた世界になることを願い、お十念をとなえましょう。

「春は花 夏ホトトギス 秋は月 冬雪冴えてすずしかりけり」(道元禅師)

この詩は、文豪川端康成氏がノーベル文学賞を受賞されて、ストックホルムで記念講演された時の冒頭で示された詩です。自然の美しさと共に生きる日本人の姿を語っています。

古来、日本の伝統として大自然に神宿るという宗教観があります。富士山にも木曽御嶽にも神がまします。山川草木悉皆成仏(さんせんそうもくしつかいじょうぶつ)と言われますように、すべての存在に仏を感ずるのです。

「風が吹く 仏来た もうけはいあり」(虚子)

暑い夏のさなか一陣の風が心地よく吹く時、そこに仏との出会いを感ずるのであります。

法然上人は、「生まれては まず思い出さん ふるさとに ちぎりし友の 深きまことを」

とお詠みになられています。浄土に先立ちしご先祖は、この世に残っている親しい人たちに思いを寄せて、心通わせたまごころを懐かしんでおられる、それは、生まれ育った故郷を偲ぶ心地にして、最後に往生することは寂しいことではなく、極楽で倶に(ともに)再会できる欣びを感じておられます。

また法然上人は、「当今は末法五濁悪世なり。ただ浄土の一門ありて通入すべき道なり。」(『選択集』)

と言われますが、まさに今の世界は五濁悪世そのものです。戦火は消えず、テロ行為による弾圧は報復をよび、人々は殺し合い、憎しみ合って地獄そのものの様相です。まわりの世情もいじめ、親子の殺人、老人が命を断つ等、受け難き人の命が虫けらのように失われる惨状に慄然とするものがあります。この今を救い浄土に通ずる道こそ本願念仏であります。

「浄土門は極楽の得道なり。他力断惑往生浄土門なるが故に、凡夫のために修しやすく行いやすし」

お念仏こそ現在只今の迷いの世界から永遠の未来に通ずる唯一の道です。

(参考「花にも念仏」宮林昭彦台下)


https://izbooks.securesite.jp/kyoshi61.html【風が吹く仏来給ふけはひあり   虚子】 より 

 明治二十八年八月

  下戸塚、古白旧居に移る。一日、鳴雪、五城、碧梧桐、森々招集、運座を開く。

 『五百句』より。

 古くからの友人である藤野古白がピストル自殺をした。明治二十八年三月のこと。

 彼は、破天荒の俳人として異色の存在であり、子規の親戚としても何かと物議を醸したとされている。

 しかし、虚子は彼と親しい関係にあり、其の死をことのほか悲しんだ。そして、彼の旧居に一時的ではあるが移り住む。

 ピストル自殺と言っても、古白の頭の中に弾は残っていたといい、一日二日は危篤ながらも命はあったらしい。

 これはその、新盆のころの作品。

 奇妙なのは、無季でありながら『五百句』に入れていることだ。

 もっとも「 仏来給ふけはひ」ということで、八月の盂蘭盆の霊迎えのころのものと推察される。つまり、季感はある。

 しかし「仏来給ふ」では、正式に季題とはならない。

 「仏の日」「仏正月」は新年の仏事の始まりとして歳時記にある。盂蘭盆のころのものではない。新年の「仏壇に雑煮をそなえる風」という風習もあるようだが、意味としては異なるだろう。

 また「風死す」という季題は、晩夏のものとして、暑い日の盛りにぴたりと風がやんでしまうことを指すが、これも仏事とは限らない。

 彼の「祇王寺」の句も無季であったためか、虚子の主たる句集には入れていない。しかし、この句は青年虚子の想い出の句としてどうしても句集に入れねばならない郷愁があったのだろう。

 古白の死はかように、明治の子規たち烈士の終焉を予感させるものだったのである。

 

 https://plaza.rakuten.co.jp/akiradoinaka/diary/201804050000/ 【子規と従弟の古白の死】より

   春や昔古白といへる男あり(明治28)

   鰒汁(ふくとじる)古白今いづくにかある(明治28)

   雛祭古白に妻はなかりしよ(明治29)

   古白死して二年桜咲き我病めり(明治30)

 藤野古白は、子規より4歳下の従弟で、本名を藤野潔といいます。母は子規の母・八重の妹・十重で、古白が七歳の時に亡くなりました。古白の家は上級藩士のため、「彼が遊ぶべき広き美しき庭園を持ちその庭園の中に自ら王となりてより制限せられずに悪戯を為すの権を持ちたりしことは、内気なる貧しき余をしにその境遇を羨ましめしか」と『藤野潔の伝(古白遺稿)』に書く程、子規にとって古白は羨ましい存在でもありました。しかし、古白は、わがままいっぱいに育ちました。父が母・十重の後に後添いを迎えたことも、神経過敏だった性格がさらに歪んでいきました。

 明治16(1883)年に子規が上京した時、藤野家はすでに東京に移っていて、子規は藤野家に寄寓して大食らいぶりを披露したり、古白とともに須田塾の寄宿舎に入って、起居をともにしたこともありました。しかし古白の乱暴は変わらず、他の塾生とのケンカが絶えず、監督役の子規はずいぶん苦労させられています。

 明治20(1887)年9月、精神病の兆候を現わした古白は巣鴨病院に入院します。のちに帰郷して病を養い、明治24(1891)年4月に上京して文学の勉強を始め、翌年には東京専門学校(現早稲田大学)に入学します。師には坪内逍遥、同級生に島村抱月・後藤宙外がいました。ただ、俳句の才能は、子規よりも優れており、24年の秋には「今朝見れば淋しかりし夜の間の一葉かな」「芭蕉破れて先住の発句秋の風」「秋海裳朽木の露に咲きにけり」などの秀句をつくり、子規は「これらの句はたしかに明治俳句界の啓明と目すべき者なり。年少の古白に凌駕せられたる余等はここに始めて夢の醒めたるが如く漸く俳句の精神を窺うを得たりき。俳句界これより進歩し初めたり」と絶賛しました。

 しかし、古白は次第に俳句から遠のき、小説や戯曲に心を傾けはじめます。東京専門学校の卒業にあたって書き上げた戯曲「人柱築島由来」は、平清盛の兵庫港における築島造営に題を取り、人柱に立った松王を主人公に、時代批判と一種の厭世観を絡ませたものです。古白は、この一作に心血をそそぎ、なんども改稿し、これによって自らが文壇に立つことを夢想しました。しかし、この作品は、明治28(1895)年に「早稲田文学」へ発表されたものの、世間から無視されてしまいました。古白は落胆し、心に大きな傷を残しました。

 明治28年3月2日、古白は日清戦争へ従軍する子規の荷造りを手伝います。その翌日、子規と古白は新橋駅で別れました。その一か月後、虚子は古白と汁粉を食べていました。すると、大きな地震があったので、古白は、店からはだしで飛び出します。「死のうと思っているのに地震がこわいとは不思議だ」という言葉とともに……。

 4月、子規は日清戦争の取材に赴くため、広島の宇品港にとどまっていました。明日出航という4月9日、古白がピストル自殺を図ったという知らせが届きました。古白の遺書には「顧て思うに予が精神昂沈不定にして恒に一事一物に専らにせしむる能はず、勇猛進取の気力は例として一時の発作たるに止りて持久するを得ず、傲慢にして他に愬(うった)うることを得為さざりしの果遂に愬ふる所なきに至りて、ここに現世に生存のインテレストを喪(うしな)うに至りぬ」と書かれていました。出発を明日に控えた身の子規は、古白のためにどうすることもできません。古白の父・藤野漸に「万一の事あらば遺憾無限。余りのことに実は涙も出ぬくらいにて、何とも言えぬ感じに相成申候。兎に角今死なれては困り申候」という見舞状を書くのがやっとでした。

 金州に渡った24日、子規が受け取った河東碧梧桐の手紙には、古白の死の詳細が書かれていました。子規は「春や昔古白といへる男あり」と詠みました。

 高浜虚子は『子規居士と余』で、古白の死の前後を記しています。

 旧暦の雛の節句前後、居士は広島の大本営に向って出発した。余はどういうものだかその新橋出発当時の光景を記憶しておらぬ。ただ居士が出発当日の根岸庵の一室を記憶している。

 居士は新調の洋服を着つつある。その傍には古白君が、「万歳や黒き手を出し足を出し……」と何かにこういう居士の句の認めてあるのを見ながら、「近頃の升さんの句のうちでは面白いわい」と何事にも敬服せない古白君は暗に居士の近来の句にも敬服せぬような口吻を漏らした。居士は例の皮肉な微笑を口許に湛え額のあたりに癇癪らしい稲妻を走らせながら、「ふうん、そんな句が面白いのかな。それじゃこういうのはどうぞな。……運命や黒き手を出し足を出し……その方が一層面白かあないかな。ははははは」

 それは古白君は今の抱月、宙外諸君と共に早稲田の専門学校に在って頻りに「運命」とか「人生」とかいうことを口にしていたので、元来それが余り気に入らなかった居士は一矢を酬いたのである。古白君も仕方なしに笑う……こんな光景がちぎれた画のように残っている。

 しかもこれが互に負け嫌いな居士と古白君との永久の別離であったのである」

……中略……

 従って居士から余らに宛て、その起居を報ずるような手紙をよこすことは極めて稀であったが、ただ居士の留守中、碧梧桐君と余との両人に依託された『日本新聞』の俳句選に就いて時に批評をしてよこした。この頃余は碧梧桐君と協議の上本郷竜岡町の下宿に同居していた。そうして俳句はかなり熱心に作っていた。

 余は桜花満開の日、青木森々君と連れ立って大学の中を抜けておると、医科大学の外科の玄関に鳴雪翁が立っておられて我らを呼びとめられた。翁の気色けが常ならんので怪みながら近よって見ると、「古白が自殺してなもし。今入院さしたところよなもし」と言われた。それで余らはすぐその足で病室に入って看護することになった。ピストルの丸は前額に深く這入っていたが、まだ縡切(ことき)れてはいなかった。余はその知覚を失いながら半身を動かしつつある古白君を、ただ呆れて眺めた。謹厳な細字で認(したた)められた極めて冷静な哲学的な遺書が、その座右の文庫の中から発見された。

 数日にしてこの不可思議な詩人は、終に冷たい骸となった。葬儀の時坪内先生の弔文が、抱月氏か宙外氏かによって代読されたことを記憶しておる。子規居士は広島に在って、この悲報に接したのであった。けれども居士がしみじみと古白君の死を考えたのは、秋帰京してその遺書を精読してからであった。(高浜虚子 子規居士と余)

 子規は、古白の一周忌、『松羅玉液』に「○古白一周忌とはなりぬ。うたてや古白、今頃は何処に迷いおるらん。あるは半ズボンの洋服身軽く、猟銃を肩にして左の手には梅花の一枝に鵯(ヒヨドリ)一羽かけたるを携え、得々として死出の山路をや狩りあさるらん。あるは菅の小笠、菅の小蓑、脚絆、草鞋に人目を避けて六道の辻に、地蔵菩薩と問答をや試むらん。あるは極楽と地獄との国境に立ちて、悟るが如く、迷うが如く、笑うが如く、泣くが如く、呆然と口を開けて空飛ぶ雲をやながむらん。あるは孜々(しし)として昼夜を分たず、書きに書きたる数年の草稿、俳句、和歌とも言わず、小説戯曲とも言はず、ずたずたに切りさき、喰い破りたるを尽(ことごと)く三途の川に押し流し、手を拍って唖然と笑いおるにやあらん。古白かつてわれを恨めり。今や白雲の中よりわれを招くが如し。その追悼会にも得行かざりければ、春雨のわれ、まぼろしに近き身ぞ(明治29年4月23日)」と書いています。

 子規は、古白の死に対して、もっと親身になって相談してやればよかったという慚愧の念が大きく、古白が自分を恨んでいるとの思いは、子規の心の底にずっと引っかかっていました。明治34(1901)年10月13日の『仰臥漫録』には、古白が子規に冥界への誘いに現れたことを記しています。「古白曰来(古白いわく来たれと)」。一人になった子規は硯箱にある小刀と千枚通しで自殺を考えます。「死は恐ろしくはないのであるが、苦しみが恐ろしいのだ」と考えるうちに、八重が帰ってきました。古白は、子規に死の甘美さを、どのように伝えたのでしょうか。

※子規の病床に現れた古白の幽霊は​こちら