「支配」について考える
こんばんは。
最近、振り返りをよくしています。
その中で、昨日〜今日よく考えていたことが、「支配」ということについてでした。
どんなに考えても、なんだかもやっとして答えが出ないので、先に曼荼羅アートにしてみることにしました。
これが、「支配」をイメージして描いた曼荼羅アートです。
タイトルもそのまま『支配』。
あれ?
意外と柔らかい感じ…
そこで、タイトルはとりあえず無視して(タイトルにとらわれない=支配されない状態にして)、このアートを見てみました。
秩序が保たれていて、美しい世界。
このアートには、明確なルールが存在する。
美しく見えるための仕組み。
計算し尽くされた美。
調和、バランス、そして優しさ。
さらに、この色合いからは儚さも感じます。
柔らかい感じもするし、凛としてもいる。
さて、これが『支配』というのならば、それは一体なにゆえか。
わたしが、これらのことから行き着いた『支配』というものに対する答えは、「世界を構築する決まり事が存在する」状態のことでした。
わたしにも、わたしを構築する決まり事があります。
世界には、世界を構築する決まり事が存在する。
常識もそうだし、ルールも、法律も。
これらは、基本となる骨組みであり、それ自体が世界を構築する決まり事なんです。
そして、「支配」とは、その決まり事に則って行動すること。
だから、そもそも、世界を構築する決まり事がすべて自分によって創られていた場合、それによって「支配」されることは苦痛でも何でもなく、むしろリラックスできたり、安心だったり、安全だったりするんですよね。
だけど、その決まり事が他人の決めたものだったら。
それによって「支配」されることは、苦痛以外の何でもないと思いました。
そして、世間一般に「支配」といえば思い浮かぶイメージや、体感として登ってくるものは後者のものではないかと。
だから、きっと「支配」が悪者になっているんです。
これはわたしの推測、というか持論なんですが、本来の「支配」は、「支えて」「配る」という文字から考えるに、自分や世界を支えて、さらにはその世界がうまく回るように気を配るための基盤が存在することをいうんだと思います。
つまり、わたしたちは1人として、「他人から支配される」ということはありえない。
もしも、そう感じるんだとしたら、自分を構築するルールの中に、自分にとって心地よくないと感じるもの(他者のルール、常識など)が混ざってる証拠なんじゃないでしょうか。
わたしを「支配」できるのはいつだってわたしだけ。
わたしの世界を構築できるのは、いつだってわたしだけ。
他者に支配されることはないし、他者を支配することもない。
「支配」って、ものすごく窮屈で嫌なものだと思っていましたが、全くの見当違いでした。
なんかめちゃくちゃ長くなってしまった!
最後までお読みいただき、ありがとうございました( ´ ▽ ` )