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それでも人生にイエスと言おう

2023.07.02 08:09

https://profile.ameba.jp/ameba/itsuno-hica?fbclid=IwAR3yszTjpB7PbeMQgkwsbPvc394CxdPh1ZJhRs3JWM2Tmp8cJg_ziqT0DT8 【人生に問うなかれ、人生の問いに耳を澄ませよ】より

花がそこに咲くことは 私がここにあることは それが大切だという証

すべてはいつかのいい日のために 広い宇宙の中で 長い時間の中で あなたと出会えたこと

きっと きっと 宝物

  ── 般若心経;山元加津子訳

気が付いたら生きてた。

どうして、どうして、ああして、こうして、私たちの問いかけはいつも人生に向かって投げかけられる。

しかし、フランクルの有名な言葉が意味の逆転を与えてくれた。人生が人間へ問いを発してきている。

したがって,人間は,人生の意味を問い求める必要はないのである。

人間はむしろ,人生から問い求められている存在であって,人生に答えなくてはならない。

人生に責任を持って答えなければならない。

と。

彼はまとめてこう言いった。どんな時も人生には意味がある。

なすべきこと,充たすべき意味が与えられている。と。そして、さらにわかりやすく、

その命題を次のように説明してくれた。

空を見上げれば無数の星がきらめくこの宇宙。どこまでも続くこの果てしない宇宙の中で,今・この時代・この時,この地球の・この国の・この場所に,なぜかこの「私」が置き与えられている。

一見単なる偶然に見えるこの事実。

しかし,考えてみれば,果てしなく続くこの時間と空間の中で,ほかのいつでもない今・この時代・この時,ほかのどこで もないこの国の・この場所に,自分が置き与えられているということには,やはり意味がある。

自分で選び取ったのではなく,気づいた時には選択の余地なくそこに定め置かれていたからこそ,このことにはただそれだけで,意味があると思わないではいられないのだ。

私たちは何をしてもいいし,何もしなくてもかまわないような存在ではない。

ここにいてもいなくてもかまわない。そのような,ただ放り出されているだけの存在ではない。

私たち一人ひとりには「なすべきこと」,「充たすべき意味」が与えられている。

そしてそれと共に,今・ここに定め置かれている。

そしてその「何か」は,私たちによって発見され実現されるのを「待っている」。

私たちは,常にこの「何か」によって必要とされ,それを発見し実現するのを待たれている,

そういう 存在なのだ。

この視点は、また私たちに焦る必要も不安がる必要もないことを教えてくれる。

私がここに置かれたその役立ちのために必要なものは、私をここに置いた「何者か」が

また導き、備え、与えるであろうと。

全能のゆえに、あなたはすべての人を憐れみ、回心させようとして、人々の罪を見過ごされる。

あなたは存在するすべてを愛し、お造りになったものを何一つ嫌われない。

憎んでおられるのなら、造られなかったはずだ。

あなたがお望みにならないのに存続し、あなたが呼び出されないのに存在するものが果たしてあるだろうか。

命を愛される主よ、すべてはあなたのもの、

あなたはすべてをいとおしまれる。

知恵の書11:23-26(旧約聖書続編)【共同訳】


https://www.otani.ac.jp/yomu_page/kotoba/nab3mq0000000ksl.html 【「私たちは問われている存在なのです。」】より

V.E.フランクル(『それでも人生にイエスと言う』春秋社p.27)

 これは、オーストリアの精神医学者、ヴィクトール・E・フランクル (1905 ‐ 1997) のことばです。

 ナチス支配下のドイツにおいて、ユダヤ人をはじめ差別された多くの人々が、強制収容所に送られました。そして何百万という人々が、過酷な労働を強いられ、病に 斃 ( たお ) れ、餓死し、ガス室で大量虐殺されていきました。この言語を絶する状況を囚人として生き抜いたフランクルは、そこでの自らの体験と人々の姿をその透徹した眼で見つめ、『夜と霧(強制収容所における一心理学者の体験)』など数多くの著書において語り伝えています。

 収容所で人間としての尊厳を根こそぎ奪い取られ、運命にもてあそばれるだけの存在となった人々は、もはや自分を無価値なものとしか思えなくなっていきました。<生きる意味>というものが、自分の立てた人生設計に沿って追求され、実現されるものだとするなら、強制収容所の囚人たちには、そうした「意味」を追求する可能性さえ残されていなかったのです。

 しかし、「生きていくことに、もう何も期待が持てない」というある囚人の絶望の言葉に対して、フランクルは次のように言います。「私たちが<生きる意味があるか>と問うのは、はじめから誤っている、人生こそが問いを出し私たちに問いを提起しているのだから」、と。その囚人には、彼のことを愛し待ちこがれている異国に住む一人娘がいました。そして、娘の存在によって彼は生きることのかけがえのなさと責任に気づき、生きる勇気を与えられたのです。

 ここでは、人生に対して何かを期待するのではなく、「自分は人生から何を期待されているか」ということへと、生きる意味への問いに180度の方向転換が生じています。この転換によって、人生はいかなる状況においても決して無意味にはなりえないことが明らかになるとフランクルは言うのです。強制収容所という極限状況のなかで、一人一人生きることは、不断の問いかけ、呼びかけへの応答であると、フランクルは確信したのでした。

 現代日本に生活する私たちには、強制収容所での苦難を生き抜くという経験は、想像することさえ困難でしょう。しかしこの困難さは、状況の違いによるだけでなく、人生に対して何かを期待するという考えを自明として疑わない私たちの精神のありようにもよるのではないでしょうか。そのような私たちにこそ、自らの人生において、自分にしか答えられない問いに気づき、応答しているか、と自問することが求められているのでしょう。


https://diamond.jp/articles/-/176890 【それでも人生にイエスと言おう】より

松山 淳:企業研修講師/心理カウンセラー/産業能率大学(経営学部/情報マネジメント学部)兼任講師

フランクルの「名言」に学ぶ心を強くする考え方

「どんな時にも人生には意味がある。未来で待っている人や何かがあり、そのために今すべきことが必ずある」ーー。ヴィクトール・E・フランクルは、フロイト、ユング、アドラーに次ぐ「第4の巨頭」と言われる偉人です。ナチスの強制収容所を生き延びた心理学者であり、その時の体験を記した『夜と霧』は、世界的ベストセラーになっています。冒頭の言葉に象徴されるフランクルの教えは、辛い状況に陥り苦悩する人々を今なお救い続けています。多くの人に生きる意味や勇気を与え、「心を強くしてくれる力」がフランクルの教えにはあります。このたび、ダイヤモンド社から『君が生きる意味』を上梓した心理カウンセラーの松山 淳さんが、「逆境の心理学」とも呼ばれるフランクル心理学の真髄について、全12回にわたって解説いたします。

それでも人生にイエスと言おう

人間はあらゆることにかかわらず──困窮と死にかかわらず(第一講演)、身体的心理的な病気の苦悩にかかわらず(第二講演)、また強制収容所の運命の下にあったとしても(第三講演)──人生にイエスと言うことができるのです。

『それでも人生にイエスと言う』(V・E・フランクル[著]、山田邦男 松田美佳[訳] 春秋社)

フランクルは「市井の人」を理想とする

 拙著『君が生きる意味』の上梓をきっかけに本連載(12回)が始まり、本稿で最終回となります。この連載がきっかけである方とお会いしました。

『君が生きる意味』も読んで感動してメールをくださったのです。とても実り多い時間となりました。執筆は苦労の連続でしたが、「書いた意味があった」と、フランクルの教えの確かさを実感することになりました。

「人生には、未来ですべき何かがある。待っている人がいる。そのために今、できることが必ずある」。

 その方を含めて『君が生きる意味』の感想を聞くと、「意外だったけど、その点がよかった」と、共通して口にしてくださる部分があります。それは、青年が経験する「至高体験」を「小さいおじさん」が否定する箇所です。

 主人公の青年が苦悩に苦悩を重ねた末に、「世界が少しだけ静かになって彩り鮮やかに」なるような一種の「至高体験」をします。その体験について話していると、おじさんが急に不機嫌になります。

 なぜ、不機嫌になるのかといえば、「至高体験」という神秘的な体験には特別な心地よさが伴い、それは「自己執着」「依存」の心理を生み出しやすく、フランクル心理学の重要なエッセンスである「自己超越」の精神から離れていくと考えるからです。

 フランクルは「成功」や「幸福」を直接的に追い求めるなと、私たちを諭します。

「成功」や「幸福」は、「自己超越」(自分以外の物や事や人に我を忘れて没頭すること)の結果として手にする副産物に過ぎないと。つまり、求めるべきゴールではないということです。

「至高体験」も同じであり、人が「至高体験」自体を求めてしまうと、その神秘体験(心地よさ)を味わうことに心が奪われ、日常生活が疎かになります。至高体験すること、特別な人間になろうとすることに多くの時間を割いたり、お金をかけ過ぎたり…。これでは本末転倒です。

「至高体験」をしなくても、自分の置かれた場所で求められることに無我夢中になって取り組んでいけば、人生に意味は満ちていきます。

 そもそもフランクル心理学を知らなくても、人生を意味で満たしている人は無数に存在しますし、その教えを無意識の内に実践している人がいます。

「人生に意味があるかないか」と問うことなく、人は問われている存在であり、生きるとは運命が差し出す問いに具体的な行動で無我夢中になって答えていくプロセスなのだと理解しているのです。

 そうして人生の意味を満たし自己実現している人をフランクルは「市井の人」と呼び、ひとつの理想としました。市井に生きる名もなき人たちに、フランクルは「あるべき姿」を見い出していたのです。

界は「正しい36人」の人間にかかっている

それでも人生にイエスと言おう

松山 淳(まつやま・じゅん)

企業研修講師/心理カウンセラー 産業能率大学(経営学部/情報マネジメント学部)兼任講師

1968年生まれ。成城大学文芸学部卒業後、JR東海エージェンシー(広告代理店)に入社。同社退社後、2002年アースシップ・コンサルティング設立。2003年メルマガ「リーダーへ贈る108通の手紙」が好評を博す。読者数は4000名を越える。これまで、15年にわたりビジネスパーソン等の個別相談を受け、その悩みに答えている。2010年心理学者ユングの性格類型論をベースに開発された国際的性格検査MBTI®の資格取得。2011年東日本大震災を契機に、『夜と霧』の著者として有名な心理学者のV・E・フランクルに傾倒し、「フランクル心理学」への造詣を深める。ユング、フランクル心理学の知見を活動に取り入れる。同年Facebookページ「リーダーへ贈る人生が輝く言葉」の運営開始。フォロワー数は6300名を越える。2016年産業能率大学情報マネジメント学部の兼任講師。2017年産業能率大学経営学部兼任講師に就任。経営者、起業家、中間管理職など、リーダー層を対象にした個別相談(カウンセリング、コーチング)、企業研修、講演、執筆など幅広く活動。

「市井の人」からの教えについて、フランクルはこう書いています。

「市井の人がわれわれに教えてくれるのは、人間であるということは常に状況に直面しているということ、おのおの状況から贈り物(Gabe)と使命(Aufgabe)とが同時に生じているということである。

 状況が我々に『命じる』ものは状況の意味を充足することである。そして同時に状況がわれわれに『贈る』ものは、そのような意味充足をとおして自己を実現する可能性である」※1

 人生で遭遇する様々な出来事は、人生に意味を満たすための「贈り物」であり、同時に、自己実現するために果たすべき「使命」です。「市井の人」は、誰からも教えられることなく、この事実を無意識の内に理解し実践しながら生きているのです。

 逆説的ですが「生きる意味」を問わない、囚われない生き方をフランクルは理想としているのです。

 フランクルはある講演で神話を持ち出し、「世界の成否は、その時代に本当に正しい人間が36人いるかどうかにかかっている」※2といいました。

 この神話はユダヤ教の聖典である『タルムード』で語られている内容です。

 36人の敬虔なる者が「謙虚な隠れた義人として、百姓や職人などの目立たない生活を営みながら、その営みの背後に隠されている義によって、この世界が支えられている」※3というのです。

 フランクル心理学が時に誤って理解されるのは、強制収容所体験があって彼の心理学「ロゴ・セラピー」が確立されたという点です。

「ロゴ・セラピー」の骨子は、彼が20代の時にすでにある程度、完成されていました。その後の「臨床経験」、つまり市井に生き苦悩する人々との対話を通して、「ロゴ・セラピー」は確度を高めていったのです。それは強制収容所に連行される前の出来事です。

 この事実を踏まえて彼が「市井の人」を理想とする点を鑑みてみると、フランクル心理学はアカデミックな世界での高尚さを志向するのではなく、「生きる意味」に苦悩する市井の人々から目を離さない地に足のついた心理学だといえます。

それでも人生にイエスと言おう!

『君が生きる意味』の解説は、フランクル心理学の第一人者であり明治大学の諸富祥彦教授に筆を執っていただいています。解説では「ロゴ・セラピー」流の問い方が紹介されています。

 苦悩する状況に直面した時に、「私は本当は、どうしたいのだろう」「私は本当は、何を望んでいるのだろう」と、「私の視点」を中心にする問い方だと心の視野が狭まり悩みが深まりがちです。

 これを「人生からの視点」にリフレームして、諸富先生は「ロゴ・セラピー」流の問い方を提案しています。

「人生は、私に、今、何をまっとうすることを求めているのだろう」

「人生は、何を私に、問いかけてきているのだろう」

「私は、どうすれば、私の人生に与えられている使命をまっとうすることができるだろうか」

 人生には様々な苦悩が訪れます。悩みが大きければ大きいほど、人は「私の視点」にこだわりがちです。「私がこうしたい、そうしたい」と…。

 ですが「私の視点」では、「私にできること」「私に考えられること」という思考の限界が発生しやすくなります。考えるのは同じ私ですが、「人生からの視点」に問い方をかえると、心の視野が広がりその他の可能性に目が向くようになります。

 例えば、部下との人間関係がこじれて憂鬱になっている上司がいたとします。部下と口もきかない状態となり、その部下のことを考えるだけでストレスです。夜も眠れなくなっています。

「私の視点」に立つと「転職か、会社に残るか」で答えが出ず、堂々巡りです。その時「人生は、この出来事を通して、何を私に問いかけてきているのだろう」と考えてみます。

 すると部下を責めてばかりいたのに、「ワンランク上のリーダーになるために、変わるべきは自分かもしれない」という思わぬ答えが発見されるかもしれません。

その結果、どうせ転職するなら最後に部下と腹を割って話し合ってみようと覚悟が定まり、いざ、話してみると実は部下の方も関係改善を望んでいて、拍子抜けするほどあっさり問題解決してしまうようなことが実際にあるのです。

 人は日々の些細な出来事の中に、人生を揺るがすほどの大きな苦悩を抱えるものです。

「上司になってみて、まさかこれほど部下との関係で悩むことになるとは…」。そう口に出せず悩んでいる上司はとても多いのです。

 そんな人に言えない苦悩を抱えた時ほど、ナチスの強制収容所という圧倒的な絶望状況を生き抜いた心理学者がいたことを思い出して欲しいのです。

 その人は、監視官に殴られるのが日常でした。仲間が次から次へと死んでいきいつ自分の順番がきてもおかしくない状況でした。

 ですが、仲間を励まし、妻を思い、自然の風景に感動し、決してユーモアを忘れず仲間と笑いあい、そして皆で歌を歌いました。その人が収容されたブーヘンヴァルト収容所で歌われた歌の名は「それでも人生にイエスと言う」でした。

 その人の名は、ヴィクトール・エミール・フランクル。

 彼は天国から、市井に生きる私たちに向けてその歌を歌い続けていることでしょう。「どんなことがあっても負けるな」「どんな時にも人生には意味があるのだ」と、「人生を投げ出すな」「それでも人生にイエスと言おう」と。セイ・イエス…。

 AIが登場し人間の「生きる意味」がますます問われるこれからの時代に、フランクルの教えはさらに求められ、より多くの人の心を救い続けることになるでしょう。

 短い連載でしたが、皆さまの人生に豊かな「生きる意味」が満ちることを心から祈り、筆を置きます…。

◇引用文献

※1 Der Mensch vor der Frage nach dem Sinn, Eine Auswahr aus dem Gesamtwerk , 10 Aufl ., Piper. M?nchen 1995.『フランクルを学ぶ人のために』(山田邦男 [編]、世界思想社)より

※2-4『それでも人生にイエスと言う』(V・E・フランクル[著]、山田邦男、松田美佳[訳]春秋社)