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ZIPANG-2 TOKIO 2020「山の向こうのもう一つの日本【寄稿文】日原もとこ」

2018.07.13 14:55

平成30年7月豪雨により亡くなられた方々に謹んでお悔やみを申し上げますとともに、被災された皆様に心よりお見舞い申し上げます。

宝珠山立石寺「山寺の雪景色・・・」

宝珠山立石寺「山寺に春が・・・」  


奥の院
奥之院は通称で、正しくは「如法堂」といいます。慈覚大師が中国で持ち歩いていたとされる釈迦如来と多宝如来の両尊を御本尊とする如法堂は、参道の終点にあるので「奥之院」と呼ばれています。 この道場で慈覚大師が初められた石墨草筆・一字三礼の如法写経行が護られています。また如法堂左側の大仏殿には、像高5メートルの金色の阿弥陀如来が安置され、宗派を問わず供養に数多くの人が訪れます。


五大堂

五大堂からの眺め


開山堂・納経堂
百丈岩の上に立つ開山堂は立石寺を開かれた慈覚大師の御堂で、この御堂が建つ崖下にある自然窟に大師の御遺骸が金棺に入れられ埋葬されています。御堂には大師の木造の尊像が安置されており、朝夕、食飯と香が絶やさず供えられ護られています。普段は扉の閉じられた御堂ですが、年に一度、大師のご命日に当たる一月十四日に法要が行われ御開帳されます。


向かって左、岩の上の赤い小さな堂は写経を納める納経堂で、山内で最も古い建物です。ここに奥之院で四年をかけ写経された法華経が納められます。県指定文化財で、昭和六十二年に解体修理が行われました。 またここより向かって右上には五大明王を奉る五大堂があります。舞台造りのこの御堂からは山寺を一望でき、絶景を楽しむことができます。



根本中堂 不滅の法灯
根本中堂は立石寺という御山全体の寺院の本堂に当たる御堂です。現在の根本中堂は延文元年(1356年)初代山形城主・斯波兼頼が再建した、入母屋造・五間四面の建物で、ブナ材が全体の6割程用いられブナ材の建築物では日本最古といわれます。堂内では、本尊として慈覚大師作と伝えられる木造薬師如来坐像をお祀りし、脇侍として日光・月光両菩薩と十二支天、その左右に文殊菩薩と毘沙門天を拝することができます。


また、伝教大師が灯し比叡山より分けられた法灯を建立当時以来一千百数十年の間一度も消えることなく仏法の護持を示す光としてお護りしてきました。過去に織田信長に焼討で本山延暦寺の法灯が消えた際、再建時には逆に立石寺から分けたといわれています。


せみ塚「閑さや岩にしみ入る蝉の声」松尾芭蕉

俳聖松尾芭蕉が山寺の地を訪れたのは元禄二年(1689)旧暦で五月二十七日(新暦七月十三日)、紀行文と句を詠んだのは当時麓にあった宿坊といわれています。その後、翁に連なる弟子たちがこの地を訪れ、往時の面影から翁を偲び、この場所が芭蕉翁が句の着想を得た場所ではないかと、翁の遺した短冊を土台石の下に埋め塚を立てたものがせみ塚となります。

その後、山寺は斎藤茂吉をはじめ多くの俳人・歌人が訪れ、今尚変わらぬ風景に芭蕉翁を感じた方々が残した詩が参道の至るところに句碑となってご覧になれます。


鎹八咫烏 記
伊勢「斎宮」の明和町観光大使




「山の向こうのもう一つの日本【寄稿文】日原もとこ」


山寺と言えば、'"円仁"、円仁と申せば、"山寺"ことほど左様に山形県の円仁はこのお寺さま の開祖として、県民にとっては最大の偉人尊師でもあります。

 

私などは、山形県民ではないのですが、慈覚大師円仁の地域に寄り添う御心には深く、導かれるところがあり、また、当サイトで触れられた元米国駐日大使、エドウィン・O・ライシャワー氏による "山の向こうのもう一つの日本" という言葉もまた、山形のお宝であると感じるものであります。


思い起こせば28年前のこと、初めて山形に赴任した当時の私は、この土地の見るもの聞くもの全てが物珍しく、この魅力を何とかまちづくりに活かせないものか…と夢中になっていた折りでした。


それを、何と伝えるべきか…?なかなか、キーワードが見つからず唸っていたところ、間もなく山寺を訪ねる機会を得ました。そこで初めてこの美しい響き…


"山の向こうのもう一つの日本" 


の寄稿碑に接した時の感動!これぞ、私が探していた核心をついた言葉では…?山形をこれほど的確に言い表した言葉を知りません。当に金言として深く私の中に入り込んだのです。


正式名、宝珠山立石寺は、古くから親しみを込めて山寺と呼ばれており、岩山に点在する多様なお堂や祠、大小様々な岩窟等の佇まいが独特の美しい景観を形容するに相応しいものでした。



山寺の麓には門前町の土産物屋や蕎麦屋が軒を連ねており、その崖下を立谷川が流れております。それを挟んで反対側には小高い段丘があり、ここに "風雅の国" という、芭蕉記念館や後藤西洋美術館等の複合施設があって、こちら側からは、山寺の全容が手に取るように展望出来るのです。

そこに、前述のライシャワー氏の寄稿文碑が次の様に刻まれていました。 


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〜山形−山の向こうのもう一つの日本〜


日本はある意味で2つの違った国で成り立っています。一つは、巨大な工場や切れ目なく続く都市、そして東京一帯から北九州まで延々と続く高速道路から成り立っています。この意味での日本は、近年他の国々に知られるようになりましたが、たいして魅力的ではありません。生活環境が制約されていて快適ではありません。自然自体も、人間の圧力によって無慈悲にも脅びやかされてきています。


ところが、このおびただしい主要地域とは遠くない所に、もう一つの日本が存在するのです。そこには、果てしなく続く山脈や大森林が広がり、そしてあちこちに点在する村や町や小都市の住民にとって、とても快適な生活空間があります。日本の本来の姿を思い出させる美しいところです。


それは、松尾芭蕉が300 年前にかの有名な旅行で山形を訪れた時に目に映ったものであり、私自身が20年以上も前に山形に旅した時に感じたものです。山形が過去の日本であるばかりでなく将来の日本であると共に発展の余地があり、しかもその発展には自然と人間の喜ばしい均衡を決して損なうことのないものであって欲しいと私は望んでいます。


山形の位置する日本海側の気候は、暖かい時期には太平洋側とほとんど変わりません。しかし、冬においては著しい差があります。シベリアからの季節風は日本海側を横切るときに湿気を吸収し、山脈の西側に多く雪を降らせます。


そこがかの有名な『雪国』です。冬期間常に5~6フィート(150~180㎝)の雪が積もっています。 私はこの「もう一つの日本」に属する山形を訪ねるにあたり、あえて晩冬を選びました。トンネルを抜ける短い線路は、私を太平洋の乾いた地面や太陽のまぶしい空から、雪に埋もれた冬の不思議な国山形に連れていってくれました。


※イメージ写真

外は雪に埋れた赤い鳥居 屋内では各地で集会所に 集まり伝統芸能を楽しむ (©日原もとこ)

月山雪解け水は春の兆し。 信心深い人々は小さな祠に感謝を捧げる(©日原もとこ)


私には、ほんの一瞬のうちに世界の半分を旅したかのように感じられました。山形の人は雪のことを言い訳し、当惑しているように思われました。しかし、私にはすばらしいことに思われました。


雪は山々や広大な山形の自然の美しさに、さらに素敵な魅力を与えてくれているのですから。私の山形への関心は、言うまでもなく、自然の美しさに留まりません。


私の学者としての経歴のはじめに、円仁(慈覚大師)の日記の翻訳や研究に多くの年数を費やしました。円仁は日本の僧侶で、9世紀に10年にわたる中国留学の間、日記を書き続けたのです。後に円仁は山形に寺を築き、その遺品は山形の歴史的財産になっているのです。もちろん、それらは私にとって興味深いものです。


山形の人々もまた魅力的です。外国人があまり訪れないので人々は外国人の訪問客には新鮮な気持ちで親切にしてくれます。


私は友人から日本でどこを見るべきかと尋ねられると、きまって踏みならされた道から一歩はずれてみるように勧めます。もちろん、東京や大阪などの大都市は日本の縮図であるから見るべきであるし、日本の歴史を残す京都や奈良のようなところも見逃せません。しかし、私は強く言いたいのです。

※イメージ写真

白鷹町の奥まった地区にひっそりと佇む、元古志王族の祠(©日原もとこ)


山形を良い例として「もう一つの日本」を見落としてはならないと。将来において自然と人間が健全なバランスをとっている、そのような「もう一つの日本」に日本全体がなることを望みます。

ライシャワー博士御夫妻立石寺来訪1988.3.1 エドウィン・O・ライシャワー(日本語訳:ハル・M・ライシャワー)・・・この碑の出典: S63年に山形女性グループ「風」に寄せられた英文本「YAMAGATA」の寄稿文より引用篆刻された。

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さて、この人、エドウィン・O・ライシャワー氏が翻訳された 円仁の綴った日誌『入唐求法巡礼行記 』は、世界に向かって発信され、マルコポーロの「東方見聞録」、玄奘三蔵の「西遊記」とともに東洋三大旅行記 として、注目を浴びるようになったのです。


慈覚大師円仁(794‐864) は、平安時代の天台宗の僧で、延暦寺第3世座主、山門派の祖。また、最後の遣唐使であったことは全国的に知られた経歴の持ち主です。命の危険に晒されつつ遣唐使の身分を隠して10年間も隠遁生活で苦労を重ね、本来の目的を果たせないまま、傷心の帰国を果たすのですが…… 


もう少し踏み込むと、先ずは円仁が仏教を深める為、留学僧として派遣されたのは、承和5年(838)6月13日、博多津を出港。となっていますが、彼は呪われた如く、それ以前の初回出航は836年、次が837年と海流に乗れず失敗続き。やっと本番になった円仁の船団四隻の遣唐使船は悪天候に見舞われ、内1隻は、渡海中に遭難沈没し、彼の船も座礁して、海中からずぶ濡れで這い上がっての上陸でした。



長崎県五島市「五島遣唐使ふるさと館(三井楽町)」 三井楽は、遣唐使船の日本を出る前の最後の寄港地であり、遣唐使とのゆかりの深い場所です。展示コーナーでは、遣唐使についての資料や、万葉集に掲載されている、三井楽を詠んだ歌などの展示をおこなっています。 空海、最澄は同時期に遣唐使船にて唐に渡っています。その後、円仁も最後の遣唐使として入唐。

しかし、その後も更に不運が続きます。時の唐18代皇帝武宗(814∼846)は廃仏派として交代しており、目的の天台山へは厳しい規制で旅行許可が下りず、短期帰国の羽目に陥ったのです。ところが、諦めきれず遣唐使帰国船には乗らないで別行動の不法滞留を決意します。


その後、当時、中国の山東半島には在唐新羅人社会が形成されていて彼らの助けにより秘密裡に通行許可証を入手。それ故にこの地にて紹介を受けた五台山にて修行生活に入ることが許されました。


円仁はこの大華厳寺で天台宗義を学び,その後、長安に入って、841年大興善寺元政から金剛界、青龍寺義真から胎蔵界と空海が未受であった"蘇悉地"を受け、密教の大法全てを身につけたのです。その後も武宗の仏教弾圧にあい、一時還俗を強いられながらも帰国の途につき、漸く張宝高の商船で承和14年(847)に大宰府に帰着※したのです。このとき経典559巻,両部曼荼羅,舎利,法具などを持ち帰ったとされます。


※ 円仁の帰国は張宝高暗殺から数年を経ていたそうです。


帰国後、円仁は天台密教の振興に尽力し、念仏,戒律に新見解を示したり、854年天台座主となります。同3年文徳,清和天皇など1000人以上の人々に灌頂を授けました。


五台山での修行生活、その後の長安でのその成果を初め、10年間にもわたる広大なる古代中国での自ら歩いた彼の道程は一日40kmの歩行速度という想像を絶する程の健脚と見聞、洞察は広域に及んでいます。彼が著した大量の著書の一つ『入唐求法巡礼行記 』は全4巻からなりますが、それを通じて円仁が目標と責任を全うする為に身分を隠して、如何に辛苦の日々をくぐり抜け、体験する様々な事件やその時代の各地における地理風土、巷間の人々の日常風景、生活文化、風俗に至るまでの詳細な記録を書き留めたかを知る素晴らしい紀行文なのです。  


[円仁の鐘を鳴らす会からの発足] ➡ 「円仁祭」へ


幾度も絶体絶命の局面に遭遇しながらも、奇跡的生還を成し遂げた円仁はその陰に多くの人々の弛まざるご尽力があったことについて述懐しています。


五台山や悲願の首都長安への入京を果し、空海所縁の密教教理の完全修得。清龍寺他関係各寺院等での真剣なる修法へのご協力支援を仰いだこと。


そしてなかんずく山東半島新羅地区での円仁の在唐逗留生活10年間を支えた新羅人社会の親身なる交流。


そして、同区港町・赤山浦を拠点とする、一大勢力を持つ張 宝高からの様々な安全保障、生活支援、協力があったこと。


今、私達の多くは、円仁のこの壮絶苛酷なる運命を辿ったことに対して、その都度、手を差し伸べられた中韓両国の魂の交流とも言うべき尊いご支援があつたことさえも知りません。


帰国後の甚大なる布教活動を通じて、広く東北人が受けた円仁への深い尊崇の念等に対して、忘れてはならない円仁留学生活の蔭に、この様な親身となった両国のご支援があったればこそと、元山形県会議員の大内孝一氏が永年溜め込んでいた想いがありました。


大内氏は、一念発起して円仁由縁りの中韓における寺院や関係者との交流を始めたのです。それが実り、慈覚大師円仁を偲ぶことを目的に、「円仁の鐘を鳴らす会」を立案し、会長として就任、推進役を努めました(現在、2018年 4月から大内理加県議会議員が会長を継承)。


そして、第一回目の円仁祭は2009年4月14日、円仁の誕生日に合わせ、日中韓3カ国の僧侶が立石寺に集まり、円仁をしのぶとともに世界平和を願い打鐘したのが始まりです。


 その趣旨は円仁の御心を核にした日中韓三カ国を繋ぎ、世界平和を祈念する会として、3年ごとに各国主催で持ち周りの祈年祭でした。


その後、各国に生じた政情も変化するにつけ、国際的行事は不定期となっていますが、現在は各国、円仁ゆかりの関係寺院において、その打鐘祈念行事は確りと受け継がれております。


日本では、特に東北地方に生まれた慈覚大師開基の寺院が多く、各地で絶大なる親しみと敬愛を受けて居られます。


その数にして、全国で現在615箇寺以上の開基・中興・由緒寺院があることが確認されており、しかもその半数以上が、関東・東北地方と言うのも謎ですね?


ただ、天台宗だけに限らず 600以上の寺院が、慈覚大師に由緒ありと伝えているのだそうで、この数は現在の天台宗寺院数に照らすと約18%を占めるとか。


驚くのは西日本の弘法大師が主勢なのは分かるとしても殊に山陰地方、天台宗山陰教区(鳥取県・島根県・山口県)には、20箇寺に慈覚大師が寺院縁起に出てくるそうです。これも謎めいておりますね? 


[四寺回廊キャンペーン]


古寺巡礼 四寺廻廊めぐり「御朱印」
左から「立石寺」「毛越寺」「中尊寺」「瑞巌寺」


その熱気はやがて、2003年から始まっていた、他県を代表する寺院にも及び、全国の旅行会社、観光協会、JR東日本や、各航空会社、観光バス会社を巻き込む一大広域連携プロジェクトにドッキングしました。


その名も"四寺回廊ツアー" 円仁所縁の大寺院、即ち、江戸時代に松尾芭蕉も奥の細道で訪れた、松島の「瑞巌寺」山寺の「立石寺」平泉の「中尊寺」と「毛越寺」巡りです。


瑞巌寺五大堂

宝珠山立石寺本堂ファサード

中尊寺経蔵

毛越寺常行堂

毛越寺開山堂 円仁像


これらを巡る行程は、本来、原生林豊かな土地柄につき、その分だけ、疲れた都会人には天然温泉の豊富な環境で、物見遊山ではない、自分発見の旅と位置づけ、ゆったりとした時間そのものを楽しむ、そして、円仁の説く、


"山川草木悉皆成仏"


の世界を味わい、それがやがて、ライシャワー氏の理想とする、これからの日本の在り方に対する提言 :


「山の向こうのもう一つの日本」


の再発見につながりますように。 合掌


【寄稿文】日原もとこ

プロフィール
東北芸術工科大学 名誉教授 風土・色彩文化研究所 主宰
アジア文化造形学会 会長 まんだら塾塾長


協力(順不同・敬称略)

宝殊山 立石寺 〒999-3301 山形県山形市山寺4456−1電話: 023-695-2843

毛越寺 〒029-4102 岩手県西磐井郡平泉町平泉字大沢58 TEL:0191-46-2331

山寺観光協会(会長・清原住職)TEL:023-695-2816

山寺地区文化観光推進協議会(大場登会長)TEL:023-695-2221

円仁の鐘を鳴らす会(大内理加会長)TEL:023-630-2845

四寺廻廊めぐり

一般社団法人長崎県観光連盟
〒850-8570長崎市尾上町3-1長崎県庁5階 TEL 095-826-9407

長崎県文化観光国際部観光振興課
〒850-8570長崎市尾上町3-1長崎県庁5階 TEL 095-822-9690


※画像並びに図表等は著作権の問題から、ダウンロード等は必ず許可を必要と致します。

発行元責任者 鎹八咫烏(ZIPANG TOKIO 2020 編集局)