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言葉を超える

2023.07.02 08:51

https://dictionary.sanseido-publ.co.jp/column/100gaku79 【Facebook新田 修功さん投稿記事】より

🗣

おはようございます🤗💕

私は、空海さんとご縁があったようで、真言密教が好きなのですが、禅の教えも大好きです。

竜馬さんの師匠の勝海舟や、同時代の剣豪、山岡鉄舟さんも禅を極めておられました。

禅の言葉で「不立文字」(ふりゅうもんじ)というのがあります。

悟りの境地は文字では伝えられない、語れない、という事です。

りんごを食べた事がない人に、りんごの味は説明できてもその人が食べてみなければ、本当の事は伝わらないのです。

中国の老子は、「知る者は言わず」と言っています。

本当の事を知っている人は、それを言葉で伝える事が出来ない事を百も承知なのですね。

お釈迦様もそうでした。

何とか伝えようと努力をされていたのですが、肝心な所は本人が自分で食べてみるしかないという事をご存知だったはずです。

ですから、解りやすく喩え話で説法されていたのです。

でも、ブッダの時代には今の都会のように波動が悪い状態ではなかったので、ブッダの精妙な波動がお弟子さんたちに伝わって、準備のできた人はどんどん悟りを開いていたようです。

これを「感化」と言います。

不立文字、とても不親切な言葉のようですが、百万語を費やしても、解らない人には解らない。

「星の王子さま」に出て来るキツネくんも言ってます。

「ものは心で見る。大切な事は目に見えない」

今日も読んでくれてありがとう🙏😊💕


https://dictionary.sanseido-publ.co.jp/column/100gaku79 【第79回 不立文字】より

筆者: 山本 貴光

経験の重要性を論じた後で、話はいま一度、文事に及びます。どんな議論か見てみましょう。

前にもいへる如く、眞理の目的を達するは文事にして、大に學術を助けて之か方略となり、媒となりて眞理を見出といへとも、又徒らに文字に沈溺するときは却て眞理を見出すの害となることあり。卽ち達磨{梁武帝時代天竺より入來る。}の説に不立文字と云ふあり。是ノ語の依て來る所は恐らくは古へ天竺釋迦の前ニ婆羅門{釋迦に至りて此説を破れり。}なる宗旨ありて、其學に八千頌と云ふ種々の詩文の如きもの許多〔あり〕しか、此等は却て煩雑、眞理を見出すの害となるを知るに依る所なるへし。

(「百學連環」第36段落第1文~第3文)

上記文中、{}に入れた文は、ポイントを落とした字で補足的に挿入された割り注を示します。本文の途中に挟まれていることもあるので、このように区別してみました。

では、現代語に訳してみます。

前にも述べたように、真理の目的を達するのは文事であって、学術をおおいに助けて、その手立てとなり、媒介となって、真理を見いだすに至る。しかし、いたずらに文字〔だけ〕に夢中になって深入りすれば、かえって真理を見いだす妨げとなることもある。達磨{梁の武帝時代にインドから来た}に「不立文字」という説がある。この語はどこに由来するか。インドで釈迦が現れる前に、バラモン{釈迦にいたってこの説を破った}という宗教があり、その学に「八千頌」という様々な詩文のようなものがたくさんあった。だが、これはかえって煩雑であり、真理を見いだす妨げとなったことを知っておそらくは、「不立文字」と言うに至ったのだろう。

学術を営む上では、文事、文字や文章は欠かせない手立てにして媒介である。こうした文章のメリットは、ここまでのところで十全に論じられていました。そこで今度は、いわば文事の問題点に注意が向けられています。

前々回と前回とで、経験や実証の重要性が説かれたわけですが、その際、文事だけで学術をすれば空理に走ってしまう恐れもあるという指摘がありましたね。ここでもその議論を受けて、さらに文事の問題点が俎上に載せられているわけです。

「不立文字」とはまさにその象徴のような言葉です。インドから、南北朝時代の中国に来た菩提達磨(Bodhi-Dharma)は、禅宗の祖とされる人物で、「不立文字」は彼に帰される言葉でした。

例えば、鎌倉時代に凝然(1240-1321)が書いた『八宗綱要』には「達磨西来、不立文字、直指人心、見性成仏」と見えます。鎌田茂雄氏の訳をお借りすれば、「達磨が中国へ来て禅宗を伝えた。その教えは文字によることなく、直ちに人心を見て、自己の本性を徹見して成仏することを説いた」となります。

文字を立てずに、人の心を直に指す。文字を媒介すると、媒介物であったはずの文字に囚われてしまって、その文字で表していたはずの人心をかえって悟りがたい。だから、文字を媒介せずに、直に人心に向き合え、とでもなりましょうか。

「直指人心」とは、それ自体たいそう難しそうなことであります。そこで、禅の理解にはよい譬えではありませんが、こんな例を並べてみたいと思います。料理をする際、レシピに記された分量を正確に守ろうとするあまり、実際に調理されつつある料理の味を確かめないとどうなるか。最終的に自分にとっておいしくないもの(味が濃すぎるなど)ができてしまうかもしれません。大切なことは、レシピに書かれていることではなくて、目の前でできあがりつつある料理の味そのものです。もちろん、言葉で説明されなければ、料理のしようもありませんが、さりとてレシピ通りで万事OKというわけにもいかないという次第です。

さて、西先生は、不立文字の話に続けて、なぜそんなことが言われ出したのかという理由を推測していますね。要するに、言葉ばかりが繁茂して、その影でかえって真理が見えなくなってしまうということがあったからだろうというわけです。実は、上で引用した『八宗綱要』の文章はこう続きます。訳文と共に示してみます。

達磨西来、不立文字、直指人心、見性成仏、不同余宗森森万法相違法義、重重扣論。

達磨が中国へ来て禅宗を伝えた。その教えは文字によることなく、直ちに人心を見て、自己の本性を徹見して成仏することを説いた。他の諸宗のように五位七十五法とか百法というように煩雑な法相をたてて、それぞれの差別を明らかにしたり、三性三無性とか一念三千とか十重唯識などというような複雑な議論を立てるのとはまったく別である。

(凝然大徳『八宗綱要』鎌田茂雄全訳注、講談社学術文庫、pp. 433-434)

凝然が禅宗と比較しているのはバラモン教でこそありませんが、結果的には同じようなことを述べていることが分かります。いずれにしても、不立文字とは、文字に頼り過ぎた状況に対する批判でもあったという見立てでした。いったい西先生の議論は、どこへ向かってゆくのでしょうか。


https://dime.jp/genre/1551270/  【ジェスチャー、直感、脳の限界を超えるために必要とされる「脳の外」で考える力】より

#鈴木拓也

脳は意外と賢くない

「脳科学」という言葉がメジャーになったのは、比較的最近のことだ。当初は胡散臭いイメージを持たれることもあったこの学問分野も、常に注目を浴びるようになっている。ここまで存在感を増したのは、我々を人間たらしめている高度な思考も感情も、脳があるからこそ、という考えがあるからだろう。

一方、脳に対する全幅の信頼が揺らぐ研究結果が増えている―どうやら、我々が思っているほどには、脳は賢くないらしい。

科学ジャーナリストのアニー・マーフィー・ポール氏は、「脳の能力はかなり限定的です。あまり喜ばしくない科学的な事実がここ数十年で明らかになっており、脳の限界に気づく科学者が増えています」と説く。そして、「私たちに必要なのは、“脳の外”で考えること」だと、著書『脳の外で考える――最新科学でわかった思考力を研ぎ澄ます技法』(松丸さとみ訳、ダイヤモンド社)で力説する。

ポール氏の言う「脳の外」とは、AIと脳を接続して云々といったSFじみた話ではない。それは、首から下の身体のこともあれば、周囲の環境や空間、専門家や仲間を指すこともある。そうした要素が、脳の限界を押し広げ、人生の質を改善してくれるという。

しかし、「脳の外」で考える力は、ほとんど開発されることなく、大半の人には未知の世界。はたしてそれは、どのような世界なのだろうか?

直感を重んじる一流トレーダーたち

一例としてポール氏が挙げるのは、「内受容感覚」だ。これは視覚や聴覚といった五感とは別の、体内の至るところにあるセンサーによる感覚を指す。たとえこの言葉を知らなくても、我々は知らないうちにこの感覚を使って、仕事や生活に役立てているらしい。具体的な話として、組織行動学学者による、一流の金融トレーダーへの聞き取り調査が紹介されている。

“そのときにわかったのは、トレーダーたちは脳に縛られたやり方で物事を進めたことがほとんどないということです。代わりに、体内から湧き上がる感覚に頼っている、と彼らは話しました。

ある人は、このプロセスを説明する際、とりわけ体感的な言葉を使いました。「直感を信じないといけません。多くの判断は一瞬のことなので、どこが瀬戸際か、どんな手を打つか、わかっていなければいけません」。”(本書47~48pより)

別のトレーダーが「腹にずしんとくる直感」と表現するその感覚は、神の啓示といったものでなく「内受容感覚」によるものだという。また、直感と呼ぶほどでなくても、「震えやため息、呼吸の加速、筋肉の緊張」といった形で現れると、ポール氏は記している。

その感覚は大抵の場合、あまりにもささやかで、つい見逃してしまいがちだ。そのことを象徴する実験を、ポール氏は紹介している。その実験の参加者は、コンピューターの画面に表示された、伏せたカードで作られたAからDの4組の山から、山を選んでカードを表にするように指示される。カードの表には賞金か罰金が書かれていて、罰金は避け賞金を稼ぐように求められる。実はAとBの山は多額の罰金カードが含まれる「悪い山」。他方、CとDの山は罰金よりも賞金の比率が高い「良い山」となっている。参加者にはそのことは知らされず、全くのノーヒントでこのゲームをする。

このゲームの間、参加者たちは生理的にどれだけ興奮しているかを測定するため、指は電極につながれていた。参加者は、50枚カードをめくったところで、AとBの山は危険度が高いと認識したと答えた。しかし、それよりずっと前の10枚めくったところで、悪いカードの山をクリックしようかと考えているとき、電極は興奮状態を示し、無意識的にその山を避けるようになったという。

実験後の参加者へのインタビューでは、ゲーム後半まで、「なぜ自分が、ある山をほかの山よりも多く選ぶようになったのかは、本人も理解してなかった」そうだ。これがまさに内受容感覚のなせるわざであり、ポール氏は、「参加者の“脳”が理解するよりずっと前に、参加者の“体”はわかっていた」と指摘する。

活用すれば便利そうなこの感覚を高める方法がある。その1つがマインドフルネス瞑想だ。ポール氏は、この瞑想法を行うことで「体内のシグナルへの感度を高めるうえ、そのために重要となる脳の部位“島皮質”の大きさと活動を変化させることがわかっています」と説明する。マインドフルネス瞑想は、日本でも一時期流行したが、内受容感覚の開発を意識してやってみるのも悪くはなさそうだ。

高収入の親はジェスチャーが多い

「脳の外」で考える方法として、もう1つポール氏が挙げるのは「ジェスチャー」だ。

ジェスチャーといえば、起業家が聴衆を前にしたプレゼンテーションで、身振り手振りで自社商品をアピールする姿が目に浮かぶ。その姿はちょっと大仰で、信頼感に欠ける印象がなくもない。

しかしある研究では、投資家向けのプレゼンで、「ジェスチャーを巧みに活用した創業者は、新規事業への資金を獲得する確率が12%高い」という結果もある。

また、ジェスチャーの効用は、起業家のためだけにあるのではない。仕事や日常生活において、相手に話の内容を覚えてもらうのにも有用だ。ポール氏は、次の研究結果を紹介する。

“ある研究では、ジェスチャーつきのスピーチ動画の方が、実験参加者が話のポイントを思い出せる確率が33%高くなる結果になりました。この効果は、動画を見た直後から表れていましたが、時間の経過とともにさらに大きくなりました。スピーチの動画を見た30分後、実験参加者がスピーチのポイントを思い出す確率は、ジェスチャーつきの方が50%以上高くなりました。”(本書154pより)

そもそも我々はみな、意識しないでもジェスチャーを日頃から使っている。キングス・カレッジ・ロンドンのクリスチャン・ヒース教授は、体の動きと言語表現における相互作用を研究するため、医師と患者の対話を映像に記録した。その映像では医師が、「これは言ってみれば、ええと、炎症を抑えるのに役立ちます」と話したとき、「ええと」の前にすでに、手で何かを抑えるような動きを3回している。話そうとする前に、その内容のコンセプトはジェスチャーで示されているというのは興味深い。そして聞き手も、相手の話を聞く前に、ジェスチャーを見てうなずくなど反応している。ポール氏は、「私たちの会話はほとんどが手によってなされ、口にする言葉は単なる補足」だと記すが、実際そのとおりなのかもしれない。

また、より衝撃的な話として、「高収入の親は、低収入の親よりも多くジェスチャーをする」とも。幼な子は親を見て学ぶものなので、ジェスチャーの多寡もそっくり受け継がれることになる。1歳2ヶ月の子供を90分観察した研究では、高収入の家庭の子は、平均で24の意味をジェスチャーで伝えた。一方、低収入の家庭の子は、それが13の意味にとどまった。それが就学年齢になると、語彙力の差となって顕在化している。

逆にジェスチャーを有効活用することで、外国語の学習など、さまざまな場面で役立つことをポール氏は示唆する。

長くなるので、本稿では内受容感覚とジェスチャーの2例を紹介するにとどめるが、ポール氏の著書は、予想外の気づき我々に与えてくれる。500ページを超える大著だが、読んで得るものは多いはずだ。


https://tenki.jp/suppl/hiroyuki_koga/2017/08/19/25131.html 【8月19日は「俳句の日」 ── 俳句とオノマトペ】より

8月19日は「俳句の日」 ── 俳句とオノマトペ

〈あかあかとあかあかあかとまんじゆさげ〉

明日から全国高校野球選手権大会もいよいよ準々決勝。お盆の時季は最高気温が9月並みというエリアも多かったため、プールに行ったのに、寒くて長時間水に入っていられなかった……というご家族も多かったようですし、心なしか、セミの鳴き声も弱々しげに感じられる天候が続きました。

そして今日8月19日は、語呂合わせから「ハイク(俳句)」の日です。あちらこちらで、そこはかとない秋の雰囲気を帯び始めると、俳人たちは夏から秋へ季語を衣替えし始めます。そこで今回は俳句の日にちなみ、俳句の楽しさの一部分をご紹介します。

擬音語と擬態語の豊かな表現

俳句は日本の文芸としては比較的新しく成立したものですが、今は日本の文学の代表的なジャンルと言えるものでしょう。

俳句の特徴として、何よりも「短い」ということがあります。

この短さと5・7・5のリズムによって、人の感情に触れる言葉を紡ぎ出すのが俳句の真骨頂です。そこで大きな役割を果たしているのが「オノマトペ」です。

「オノマトペ」は擬音語、擬態語を表すフランス語で、擬音語は実際に鳴っている音を表現しようとするもの。たとえば、犬の鳴き声を「わんわん」と表現したり、雷の音を「ごろごろ」と表現するものです。

一方の擬態語は、実際には音が鳴っていないようすを表現しようとするものです。たとえば、雪が降るようすを「しんしん」といったり、乾いていることを「からから」と表現したりすることを指します。これが日本語の表現を豊かにしていることは、いうまでもありません。

マンガと俳句に多用されるオノマトペ

オノマトペはマンガにもよく使われますね。

ものが爆発するときには「ドカーン」という擬音語、雲が浮かんでいるようすを描写するときには「ふわふわ」という擬態語が使われます。きりがないくらい例があります。

そしてマンガと同じくらい、俳句の表現にもこのオノマトペにとてもマッチしているのです。いくつか例を挙げてみましょう。

〈春の海ひねもすのたりのたりかな〉与謝蕪村

〈水枕ガバリと寒い海がある〉西東三鬼

〈鳥わたるこきこきと缶切れば〉秋元不死男

〈をりとりてはらりとおもきすすきかな〉飯田蛇笏

〈たらたらと縁に滴(したた)るいなびかり〉山口誓子

〈ロンロンと時計鳴るなり夏館〉

〈ロンロンと時計鳴るなり夏館〉

音数が極端に切りつめられた俳句だからこそ、オノマトペが大きな効果を持つのでしょう。

言語学ではm音類には何かやわらかい「感じ」、k音類にはなにかかたい「感じ」が感じられると指摘しています。この言葉と「感じ」の結びつきを音象徴と呼びます。

俳句はこの「感じ」を表現に効果的に利用しているといえるでしょう。

オノマトペ俳句は、まだまだあります。

〈三月の甘納豆のうふふふ〉坪内稔典

〈あかあかとあかあかあかとまんじゆさげ〉角川春樹

〈ロンロンと時計鳴るなり夏館〉松本たかし

── オノマトペは、気がつけば広告のキャッチコピーなどにも使われていることが多いですし、俳句ばかりでなく、オノマトペは日本語の大きな特徴が現れているようです。


Facebook西尾仁さん投稿記事 【一日10分の瞑想が必要】

正しい食事だけでは人間の病気は治らないのです。

意識を変え、考え方を変え、生き方を修正することが必要なのです。

そのとき大切なのは、瞑想です。

瞑想によって人は意識を変えることが可能だからです。

人は右脳の意識を使うようになると、目に見えないモノが理解できるようになります。

すると、エネルギーが高まり(アンタカラーナ)、宇宙服(肉体)の病は自然に治ります。

人の魂はエネルギーです。

それも『光のエネルギー』であると意識するようになると、

DNAが次元上昇(アセンション)するといわれています。

人は次元上昇すると光の存在(ライトボディー)に成るといわれています。

人の魂が光の存在であると悟ると、フォトンが電子の軌道に出入りし、心のパワーが目覚めます。

『光の瞑想により、魂は不死であることを悟る』と多くの人が主張するようになって来ています。

心のパワーを目覚めさせるには、

1.リラクゼーション(瞑想)

2.丹田呼吸     

3.アファメーション(ポジティブな言葉で自分に語りかける)

4.ビジュアライゼーション(達成イメージ)

人の魂は自分自身を変身させることが可能なのです。

七田チャイルドアカデミー名誉校長 教育学博士

七田 眞 著「魂の人生学」より(抜粋、管理者が一部追加)


https://ameblo.jp/taiki-ism/entry-12808124151.html  【コアスター瞑想】より

最近ハートやコアスターを意識して日々を過ごしています。

OSHOのハート瞑想がじぶんには心地よくてそれをアレンジして瞑想しています。

一般的に 呼吸により自分の中の汚いものを吐き出しきれいな空気を吸い込むという瞑想がありますよね?

でもその瞑想の個人的な疑問点は、自分がとても汚れていて周りを汚い空気で汚染させているんじゃね?って思ったことがあるんですよね 笑

自分のことしか考えていないじゃん的なしかも、自分の外側は光で、自分の内側が汚れてるみたいな暗示を自分の無意識にかけていることにも気づきました。

ハートの瞑想の場合は自分の中の辛かったこと苦しかったこと、嫉妬したことそんな感情たちを吸う呼吸でハートに集め、愛や喜び、美しいもの、清らかなものに変換して吐く呼吸で外に吐き出すという瞑想です。

つまり、「自分のハートには、汚れ・痛みを愛や清らかなものに変換するパワーがある」という圧倒的な自己肯定感が得られるのです。

あなたが息を吸う時、過去、現在、未来のこの世界の生きとし生けるものの惨めさすべてを、苦しみのすべてを吸い込みなさい。

そして息を吐く時、持てる限りの喜び、至福、祝福すべてを吐き出しなさい。息を吐きながら、自分自身をこの世界の中へと注ぎこみなさい。

これは、慈悲の技法だ。

すべての苦しみを飲み干し、至福のすべてを注ぎだす。そしてもしあなたがそうしたら、きっと驚くだろう。

あなたが自分の内側で、世界の苦しみすべてを引き受ける瞬間、それらはもはや苦しみではなくなる。

ハートはまたたくまにそのエネルギーを変容する。ハートには変容する力がある。惨めさを飲み込む、それが至福に変容される。そしてそれを注ぎだすのだ。

OSHO

意外と人って自分自身が傷ついていたこに気づかず、他の人を助ける役をやってる人って多い気がします。こんなにしてあげているのに…なんでうまくいかないんだろう?…

そう感じている方は、無意識は傷ついているのかもしれないね

以前の僕の場合はずっと自分のハートには自分自身を癒す力がない、無力だと無意識に思っていました。

このハートの瞑想をしたときに「ああ、じぶんのハートって心強いヒーラーなんだ」と思えてきて自分という存在への赦しとなりました。

(深い領域においても)

それから深い呼吸が起こるようになりました。自分の中の汚いものを吐き出すとか健康のためという視点では呼吸に全く意欲的ではなかったのですが

自分のハートから喜びや清らかなものが溢れてくるイメージ。

自分の中でみじめさや苦しみ、悲しみを愛や喜びに変換できるなんてめっちゃステキじゃありません?

自分の場合はハートとみぞおちの間にあるチャクラより高い次元のコアスターをイメージします。

実は私たちのコアスターは 地球のコアに在る「ソフィア」と連動しています。

人間界の二元性のドラマ・ジャッジ・我慢によって生じたモヤモヤやストレスのエネルギーをじぶんのハートとみぞおちのチャクラから吸い込み、コアスターの光によって愛と喜びに変換するほど、地球のコアも同時に癒されていくイメージをします。

「なーんだ!コアの光(本当の自分)は何一つ傷ついていないじゃん」ってところまで来たら、もう大丈夫!

コアスターをイメージするのが難しい方は、ハートとみぞおちの間にレムリアのクリスタルを設置して、そのクリスタルの美しい波動によって、チャクラのつまりや汚れが純化されて、癒されていくイメージをしても効果的です。

このコアスターの瞑想でパラダイムシフトが起こるなあと感じています🪽