欠点を含めてあるがままを愛する
Facebook相田 公弘さん投稿記事【欠点を含めてあるがままを愛する】
ひろさちや氏の心に響く言葉より…
「愛とは相手に変わることを要求せず、相手をありのままに受け容れることだ」
現代イタリアの劇作家ディエゴ・ファブリの言葉である。
わたしは、この言葉は「愛のリトマス試験紙」になると思っている。
恋人どうしの愛であれ、夫婦の愛であれ、親子の愛であれ、一度このリトマス試験紙によってテストしてみるとよい。
そうすれば、それが本物の愛であるか否かが分かるであろう。
たとえば、恋人どうしで、食事をするときの相手の食べ方がいやだと悩んでいる人がいる。
どうしたら相手を変えることができるか…と質問されることが多いが、それのような質問が出てくるのは、その人が相手を愛していないからである。
相手を支配しようとしているのであって、それは愛ではないのである。
自分が変われないのであれば、その相手との恋はやがては冷めるであろう。
夫婦のあいだも同じである。
二人は夫婦になってしまったのだから、その結婚を解消したくないのであれば、互いに相手を変えようとしてはいけない。自分のほうが変わろうとすべきである。
それが結婚をつづけさせるうまいやり方である。親子の関係だって、同じことがいえる。
親は自分の希望を押しつけて、子どもを変えようとする。
親から見た「いい子」にさせようとするのだが、それは親が子どもの支配者になろうとしていることである。
真実の愛情を持った親であれば、あるがままの子どもを受け容れるのが、真の愛だかである。
わが子の成績を一方的にしかる親は、所詮は支配者と知るべきである。
『捨てちゃえ、捨てちゃえ』PHP研究所
ひろさちや氏は「欠点を含めてあるがままを愛する」ことが必要だという。
たとえば、こんなエピソードを紹介していた。
『「これで袴(はかま)をつくってくれ」と夫が妻に新しい布を渡した。
「どのような袴がよろしいでしょうか」と聞く妻に、「いまはいているのと、同じにしてくれ」と、夫は言った。
そして、妻がつくった新しい袴には、現在のとまったく同じに、つぎがあてられていた。
中国古典の「韓非子」に出てくる話である。
人間は矛盾した存在だ。いい面もあれば、悪い面もある。
いや、長所・短所といったものは他人が見た勝手な評価であって、見る人が違えば理想が欠点が理想になるだろう。
人間は理想と欠点をミックスした存在だ。
理想の人物像を設定することは、欠点のない人間をつくろうとするようなものだ。
それはまさに、新しい袴をつくるのと同じである。
袴であれば、つぎのないものがつくれても、現実の人間は古い袴と同じで、あちこちに穴があり、つぎがあたっている。
つぎのない新しい人間をつくることは、絶対にできないことである。
欠点があってこそ、その人の長所がある。その人は、その人の生き方しかできないのだ。
わたしたちは、現実にあるがままのその人を、しかっかりと愛することを学ばなければならない。』
「あの人はすごい人だ」、と多くの人から思われ、尊敬され、世間からも認められているような有名な人も、長年つき合い、食事をプライベートでするくらい親しくなると、意外と欠点も見えてくるものだ。
その欠点が見えてきたとき、離れて行ってしまう人と、今まで通りなんのくったくもなくおつき合いできる人もいる。
どんなに理想的な人であっても、人間である限り、必ず欠点はある。
あまりに正義感がありすぎると、相手を裁くようになる。欠点を非難し、許さないのだ。
小林正観さんは、「ボーッとすること」「ピリピリしないこと」が大事だという。
禅に「閑古錐(かんこすい)」という言葉があるが、まさにこの「ボーッとすること」を言う。
閑古錐とは、古くて先がまるくなり、使えなくなった錐(きり)のこと。「鈍(どん)」の人だ。この閑古錐の反対は、目から鼻に抜けるような鋭い人、「聡明才弁」の人だ。
聡明才弁とは、頭が切れて弁の立つ人のこと。「欠点を含めてあるがままを愛する」
ボーッと生きることも時には必要だ。■【人の心に灯をともす】のブログより
「自分が変われば,世界が変わります。」良く聞く言葉です。
この考えだと、和多志が、腹立つ人の為に、セラピーを受けたら、相手が変わるって事ですよね?半信半疑で、セッション受けたけど、相手は変わらないのです、「『周囲は自分の鏡』が本当なら、和多志が悪いのですね?」そんな声が聞こえてきそうです。
セラピーの世界では「過去と相手と客観的出来事は変えることができない」は鉄則です。
変えることができるのは自分だけ。
子ども時代に目の前で 母を交通事故で亡くした40代の男性を知っています。
「母を交通事故でなくする」なんて誰もが起きて欲しくない悲しい出来事です。
それ故に彼は新しい母の愛も拒絶、父も拒絶。閉じこもったままです。
然し「起きて欲しくなかった」とどれほど嘆いても 過去を変えることも 出来事を変えることも彼には不可能です。
では彼の人生は母の死とともに終わってしまうしかないのでしょうか?
新しい母の愛、父の愛を受け入れ、自分らしい人生を取り戻すことは不可能なのでしょうか?
どのようにすれば自分を取り戻すことができるのでしょう?
不慮の事故で愛するものを亡くした人は沢山います。
しかしそんな痛みと悲しみが自分を育てるエネルギーに変えられていったケースを和多志は幾例も知っています。
何が違うのでしょう?
考えられるのは 潜在意識に閉じ込められた「母を助けることのできなかった自分への怒り」
「母を殺した世界への怒りと拒絶」もしかしたら双方かもしれません。
「かわいそうな自分」という被害者意識に凝り固まって バランスを取り続けてきたのではないでしょうか?
自分の痛みと怒りを観て 手放す勇氣が必要です。
怒りは二次感情です。自分が「激しい痛みと嘆き」を瞬時に「怒り」に変え、「絶望」に変え
潜在意識に閉じ込めた事実を観る必要があります。
その時の「激しい痛みと嘆き」を顕在意識に昇らせ 「涙で浄化」する必要があります。
それから自分を許すことが始まります。
自分を許すことが世界を許すことになり 自分と和解することが世界と和解することになり、愛を取り戻すことになるのではないでしょうか?
「自分が変われば世界が変わる」・…
世界は自分が引き寄せているもの、自分のエネルギーへの共鳴現象といえるのではないでしょうか?
セラピーは自分のエネルギーを本来の自分に引きもどす働きとも言えます。
あなたの欠点は?
できるだけ沢山挙げてみてください。
次は「欠点と思っていることに隠された長所」を 探して下さい。
例えば優柔不断が欠点と思っているとします。
隠されていることは?「優しい」「慎重」「熟慮」…色々考えられると思います。
「それは素晴らしい和多志は優しい」と言ってみましょう。
自分で数えあげた欠点の全てに隠された長所があることが納得できるまで・・・・
次は欠点の反対語を考えます。
「優柔不断」が欠点と思っている人は「即決即断」を理想的なことだと思い込んでいるかもしれません。その理想に潜む 一番避けたいことを探します。
「独善」「独りよがり」「孤立」…これも色々考えられると思います。
「それはいけませんね。独善的な人」と言ってみましょう。
性格は個性であり 長短がないこと、単なる好みであることが納得できるまで・・・・
誰かと一緒にやってみると ありのままの自分を愛し受け入れる手助けになりますよ。
自分の想念、信じ込みから自由になり 本来の自分を取り戻す喜びを体験してください。
こんなことに関心のある方は
http://www.asahi-net.or.jp/~nu3s-mnm/kojinnsessyonn.htm
しかも和多志たちの脳は 実際の体験も イメージも同じ刺激として受け取ります。
イメージトレーニングの話は広く知られた事実です。
マイナスイメージを持ち続ければマイナスの現象を引き付け、プラスイメージを持ち続ければ
プラスの現象を引き寄せることになります。
ナポレオン・ヒル著の「思考は現実化する」はあまりにも有名な書籍です。
ここでは運命を自分の手に取り戻す方法の一つをご紹介します。
開運は脳力、知力、氣力,資力、人脈、チャンスetc.何かを掴んで果たせることと 一般的には考えられます。
和多志的には逆!「手放すこと、過去の捉われから自由になること」
これが和多志のお勧め開運法です。
過去への捉われは ある意味では学習結果(NLP用語ではアンカリング)です。
学習は インパクトの強い体験、繰り返される体験から生じます。
学習結果から距離が取れるようになる(メイキング ア スペース)と囚われから解放されます。
恐怖症は極めてインパクトの強い恐怖体験によって 脳に刻印された情報と言えます。しかし基本的には情動のリリース法で開放できます。
恐怖症の開放手順 (FOフォルディングをして行う。)
ビデオデッキ(時代遅れかもしれませんが ビデオテープの方が扱いよい)をイメージします。
自分の恐怖症の体験をビデオテープに録画している積りで 見ます。
見るのが辛すぎると 以前ご紹介した「金色のバラの方法」を使って 情動を少し和らげ たり、録画を白黒に編集し直して 見ます。
それでも辛すぎると 早送りします。
見終わると、テープを逆回しにします。(脳内のタイムラインを逆さに辿る)
見終わるとテープを粉々に切り捨てるなり、焼き捨てるなりします。
もう一度恐怖症体験を 鮮やかなカラーで見てみましょう。
嘘のように恐怖症は消えているはずです。