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春風文庫

奇兵隊と近衛兵

2023.07.03 12:15

(1)

 昭和四十三年(一九六八)の政府主導による「明治百年」には、近代化を美化し過ぎだなどとの批判の声が強かった。その反省もあったのか、昭和五十年代半ばは、官民共同で明治維新の影の部分にスポットを当てようとする動きが盛んになる。

 それは私が中学生の頃で、NHKのテレビ番組「歴史への招待」などは、明治初期の長州諸隊の脱隊騒動、久留米藩難事件、広沢真臣暗殺事件、秩父事件等といった、いまならちょっと考え難いコアなテーマを、毎週のように扱っていた。あるいは特別番組として、竹橋事件のドキュメンタリーなども放映したと記憶する。昭和五十五年の大河ドラマで、維新の光と影を描く「獅子の時代」(山田太一脚本)も、そうした風潮が生み出したものだろう。

 いま、あらためて岩波新書の一冊として出た田中彰『高杉晋作と奇兵隊』(昭和六十年)などを読むと、当時の空気が感じられて懐かしい。

(2)

 今年結成百六十年となる長州の奇兵隊と言えば、初代総督を務めた「高杉晋作」が代名詞のようになっている。だが、奇兵隊六年半の歴史のうち、晋作が在籍したのは最初の三カ月ほどに過ぎない。奇兵隊が幕末史上、特異な存在感を発揮するのは、軍監山県有朋(狂介)の影響が少なくないと、私は考えている。

 山県は、長州藩の最下級の武士身分である蔵元附中間の生まれだ。苗字は公認されていない。それが松陰門下の末席に加わり、奇兵隊に入り頭角を現す。元治元年(一八六四)十二月、晋作の下関挙兵に始まる藩内戦では奇兵隊を指揮して藩政府軍を大田・絵堂で撃退し、政権奪取に大いに功があった。

 つづいて山県らは、軍事力を背景に藩政へと介入してゆく。晋作を含む藩政上層部からすれば、これは封建秩序の破壊だ。だから山県らの動きを阻止すべく干城隊を組織するなどしたが、台頭する諸隊勢力を結局は押さえ込めなかった。

 『高杉晋作と奇兵隊』で高く評価されているのが、奇兵隊など諸隊の「会議所体制」である。それは「自律的な指揮体系」の具現化であり、「最高の議決機構」だった。数人単位のリーダーである伍長たちが集まって会議を行い、決めた事を上部へと上げて決定してゆくシステムである。これにより山県は、政治や軍部の指導者となってゆく。奇兵隊および諸隊は戊辰戦争の最前線で戦い、新政権の基盤を確たるものとした。

 ところが明治二年(一八六八)十一月、藩は五千人の諸隊のうち二千二百五十人を精選して常備軍とし、残りを解散させるとした。だが不十分な論功行賞、幹部の不正、不公平な精選など、さまざまな問題が噴出。こうして「脱隊騒動」と呼ばれる反乱事件が起こるのだが、結局は藩に鎮圧され、百人を越える刑死者を出して幕が下ろされる。

 なお、山県は明治二年六月、賞典禄六百石を受けて事件時は洋行中だった。帰国したのは翌三年八月のことである。

(3)

 脱隊騒動から九年後の明治十一年八月、山県が陸軍卿と参議を兼ねていた時、「竹橋事件」と呼ばれる兵士の反乱事件が東京で起こる。

 近衛兵は前年の西南戦争で、大いに活躍した。にも関わらず、論功行賞は上層部に厚く、兵卒に対し薄かった。他にも徴兵制の不公平など、日ごろからの不満が爆発し、竹橋近くに屯する近衛砲兵二百五十九人が、山砲二門を引き出し蜂起する。首謀者のひとりはフランス革命のネルソンの言葉を引き、政府の不善を改革するのが「革命」とし、肯定した。そこには、当時盛んだった自由民権運動の影響も指摘されている。

 隊長を殺した反乱軍は、大蔵卿の大隈重信邸を銃撃。つづいて赤坂離宮に火を放ち、諸大臣を殺害する計画だった。最後は天皇に嘆願しようとするも、結局は鎮圧され、裁判のすえ五十五名が深川越中島で銃殺刑に処された。山県らは反乱計画を事前に察知しており、泳がせて鎮圧した事が分かっている。

 事件直後の明治十一年十月に山県は「軍人訓戒」を頒布し、十五年一月には「軍人勅諭」が発せられた。これらにより、兵士は上に対して絶対服従を強いられ、政権批判などは出来なくなった。かつて奇兵隊を「物言う軍隊」にすることでのし上がった山県は、権力の座に就くや、兵士たちの抵抗の牙を、徹底的に抜き取ったのである。

(4)

 中央集権の過程で起こった脱隊騒動と、廃藩置県や徴兵制などを経て起こった竹橋事件とを比較するのは、容易ではない。もっとも、すでに明治の頃、井上毅などはその類似、相違点ともに論じてはいる。ここでは近年「発見」された、ひとつの接点につき述べておきたい。

 竹橋事件で処刑された五十五名の遺骸は、東京の青山陸軍埋葬地に埋められた。明治二十二年二月、大日本帝国憲法発布で大赦令が出たのを機に、正面に「旧近衛鎮台砲兵之墓」と刻む、高さ一メートル半ほどの墓碑が建てられる。後年、墓碑は撤去されて一時行衛不明となるが、昭和五十二年十一月末、青山霊園西端の窪地で発見される。つづいて事件を題材としたノンフィクション、澤地久枝『火はわが胸中にあり』(昭和五十三年)が世に出て、忘れ去られていた事件が注目された。そして説明文を刻む碑が昭和六十二年に建てられるなど、整備されてゆく。

 墓左側面には「祭主福井清介 世話人墓地関係一同」とある。『火はわが胸中にあり』では建墓者の福井清介につき、「事件とどんなかかわりのある人物なのか、いまのところ、まったく不明である」とある。

 ところが福井清介は山口県出身、東京高輪の公爵毛利家編輯所で、維新史編纂に従事した人物との説が出て来る。しかも、刊行されている唯一の脱隊騒動の史料集である、マツノ書店版『奇兵隊反乱史料 脱隊暴動一件紀事材料』(昭和五十六年)の編纂者と同一人物だと言うのだ。

 その書籍の解題、広田暢夫「編者福井清介と毛利家明治維新史編纂事業」によれば、福井清介は明治七年、二十七歳で陸軍省に十五等出仕し、同十五年に十三等に昇任するが、同十九年に非職、同二十二年三月に非職満期で退職する。次の仕事を探していたところ、毛利家編輯所で欠員が生じたので楫取素彦の推薦により、同二十二年十二月に就職した。そして『部寄』と呼ばれる膨大な史料群の中から脱隊騒動の関係史料を抜き出し、史料集を編んだのである。

 ところが、清介は編輯所の方針変更により、閑職に追いやられた。しかも明治三十四年十一月、失火により役宅や史料を焼いてしまい、同三十五年六月、依願退職する。広田解題には「その後の福井清介の動静はまったく分からない」とある。

 広田解題は、建墓の件には触れていない。毛利家編纂員と建墓者を同一人物と断定したのは、『高杉晋作と奇兵隊』である。そうだとすれば、陸軍省退職の前後に建墓したのだろう。同書では「近衛兵の反乱を陸軍省内部にあってみつめた福井は、毛利家に入って諸隊反乱の史料集を編纂するめぐり合わせとなったが、そこには竹橋事件の反乱兵士を弔う『祭主』福井の鎮魂の思いが、諸隊反乱の史料集の編纂に込められていたのではなかったか」と解釈する。

(5)

 以前、青山霊園を調査していた私は奇しくも、清介の墓を見つけた。場所は1種イ3号6側で、福井家累代墓と清介夫婦の墓が建つ。

 墓誌には福井家初代から十三代及び十五代の霊位は、山口県萩市常念寺で永眠するとある。つづいて十四代の信政(明治十七年没)、十五代の光(大正四年没)ら七名の名が刻まれるが、清介の名は無いから当主ではないらしい。

 清介夫婦の墓は、独立している。清介の法名は「西庵清介居士」、没したのは「明治四十一年十二月廿七日」とある。「まったく分からない」とされた毛利家を去った後の清介は六年後、六十二歳で没していた。

 それにしても建墓者と史料編纂者の「福井清介」は、本当に同一人物なのか。単なる同姓同名の可能性は考えられないか。不安が残らないわけではないが、以後追究されたとは聞かない。それどころか、脱隊騒動や竹橋事件に対する世間の関心も、かなり薄らいだ気がしてならない。それは、昨今の歴史番組や「明治百五十年」などの姿勢を見ても分かる。

 実は反乱兵の墓と清介の墓は、二百メートルも離れていない。私が青山霊園に通いはじめて、今年で四十年になった。その間数え切れない程歩いた道だが、二つの墓を結ぶ糸は私の中ではいまだ、すっきりしないままである。

        (「晋作ノート」58号、2023年5月)