「宇田川源流」【宇田川教育論】 徐々に「記憶力教育」から脱皮する大学がでてくる
「宇田川源流」【宇田川教育論】 徐々に「記憶力教育」から脱皮する大学がでてくる
毎週水曜日は「宇田川教育論」か「大河ドラマ」に関してお話をさせていただいている。ニュースの解説ばかりでは肩が凝ってしまうので、一週間の真ん中は少し気を抜いた話ができるようにということで、大河ドラマに関しては「現在よりも過去について、そしてテレビドラマということに関して話をする」ということを、また「宇田川教育論」に関しては「若者を教育するということを通して、日本の将来を考える」ということをテーマにしている。要するに水曜日は、いつの間にか「現在ではなく、過去や未来を語る日」というようなテーマになりつつある。もちろんそのようなことをはじめから企画したわけではないのであるが、いつの間にかそのようなテーマになっている。
今週は「教育論」である。
そもそも日本の教育は、私がまだ学生であったころなので35年前くらいの話になるが、「詰め込み教育」と言われて、なんでも記憶をするというような状況になっていた。歴史の年代などは当然の事、数学の公式や科学の開放や実験の結果に至るまで全て記憶であった。しかし、その記憶をすることは、それなりに当時は「価値があること」であった。
ちなみに、この時代は小売業などにおいても「大型店舗で、ワンストップで何でもそろう」というようなフルラインショッピングが価値があった時代だ。店舗はどんどんと大型化し、そしてフルライン化していった。
しかし、時代は変わって小売業で言えば「コンビニエンスストア」が小売りの中でトップになる時代になると「情報も、商品もあることが普通」になってきてしまい、「どのようにしてたくさん溢れている情報や知識や商品を取捨選択するか」ということが大きな課題になる。その取捨選択の象徴的なものがコンビニエンスストアであり「売れ筋だけを集めて店を構成する」ということになるのである。ちなみにマイカルはそのような「取捨選択の時代」に「フルラインワンストップショッピング」にこだわったために、商品在庫や店の設備の割に売り上げが伸び無かったということも、この時の倒産の理由の一つなのである。
筑波大学が入試改革 面接や小論文重視に変更へ 「才能見いだす」
筑波大の永田恭介学長は29日、5年後をめどに入試改革を行い、個別試験を面接や小論文中心に変更する方針を表明した。今年度中に改革案をまとめる。
永田学長は「基本的な学力は共通テストで分かるので筆記試験をやっても仕方がない。個別試験を変えて、これまで見つけられていなかった才能を見いだしたい」と話した。
入試の中心となる一般選抜前期では現在、大学入学共通テスト5~8科目の後、2次の個別試験でおおむね2~3教科の学力検査を課すなどしている。永田学長は「受験勉強を含めて用意されたものを勉強することに慣れてしまっている」と、現在の教育への危機感を改革の理由に挙げた。【信田真由美】
毎日新聞 2023/6/29 20:30(最終更新 6/29 20:30)
https://mainichi.jp/articles/20230629/k00/00m/040/300000c?utm_source=smartnews&utm_medium=android&utm_campaign=smartnews
さて、では今の時代はどのような時代なのであろうか。そもそも、Z世代と言われる人々が出てきて、「個性」「インターネットネイティブ」「SDGs」というようなことが言われるようになっている。同時に小売業に関しては「ネット通販に押されて徐々に死滅しつつある」というといいすぎかもしれないが、大型店舗は「モノを買う場所」ではなくなり「憩いの場」になりつつあるのではないか。その様に「昭和の時代の価値観が全く異なる価値観に変化している」時代といえる。
つまり「教育」も、その時代に合わせた教育に脱皮しなければならないのではないか。そのように考えた場合、「知識を持つ」つまり「記憶する」ということは、「価値」ではなくなってきている時代なのではないか。例えば地図。場所を覚え道順を覚える事は、昔は価値があったと思う。その次はアナログの地図を読み解く力が必要であった。しかし、カーナビゲーションシステムや、現在のグーグルマップなどがあれば、実は道順を「覚える」こともあなる後の神の地図を持つ必要もないのである。
つまり「記憶する事」は「機械(スマホ)が代わりにやってくれる」時代になっていつのであり、記憶をすることそのものが価値が無くなっているということになるのではないか。英語であっても翻訳ソフトなどがあるだけではなく、その翻訳をした内容を音声で相手に話してくれ、相手の答えを聞くこともあできるような機械が多く出てきているのであるから、英単語を覚える事もあまり意味がないのではないか。
しかし、日本の教育はいまだに「記憶したことを答案用紙上に吐き出す、またはマークシートを塗る」ということを中心にした状況でしか出来て担い。「偏差値教育」は、そのように記憶をした内容を判定するということでその順位の偏差を見ることができるというようなことになっていたのであるが、そのこと自体に価値が無くなってきているのである。
ではなぜいつまでもそれが無くならないのであろうか。
単純に「記憶を吐き出すことを、機械的に判定するような教員しかいない」ということになっている。つまり「記憶をさせること以外の教育ができない教員しかいない」のである。なぜか日本には幕末にはあれだけ「藩校」や「私塾」があって、松下村塾のような人材を輩出したところがあったにもかかわらず、現在になったら全く人材が出てこないような教育しかできなくなってしまっているのである。そのようなことでよいのであろうか。
そのような状況の打破のために、屋っと「面接や論文を重視した入試」ということが出てきた。つまり、筑波大学は「論文や面接で人間性を判断できる教員が増えてきた」ということであり、徐々に記憶教育からの脱皮が図られているということになるのではないか。
少々遅きに失しているというようなことがあるかもしれないが、まだ変わらないよりはまし。その様に脱皮できるように、日本の教育機関が代わるまで、どれくらいかかるのであろうか。