「宇田川源流」 逆差別は許さないというアメリカの裁判所の言う「平等」
「宇田川源流」 逆差別は許さないというアメリカの裁判所の言う「平等」
日本という国は、何か一つの価値観があり、その価値観を否定するときになると、ちょうどよいところで止まることなく、全く反対側の極端に触れてしまう。価値観の否定ということは、そのまま価値観の「良いところ」もすべて消し去ってしまいそのアンチを使ってしまうということを「是」とするようなことになっている。これが良いっかどうかといえば、当然に、その国民性はよろしいとは思えないことが少なくない。しかし、日本というのはそういうことでやってきた国であるので、その国民性を捨てきれないことによる弊害が多く出てきているのではないか。
そのうえ、その国民性に輪をかけて、「政治的にその国民性を利用し、自らの主張を通し、自らの利権を得ようとする人」が出てくるので、ややこしくなる。その「ややこしくなる」ことから、いつの間にか面倒なことが多く出てきてしまっているのではないか。
明治時代、「日本は欧米列強に遅れた」ということを深く感じるようになった。そのことから出てきたのが「欧米化政策」であり、散切り頭まではよいが、「鹿鳴館外交」など、極端に触れたものが出てくることになる。また戦前の「天皇崇拝」が出てくるようになると、それを利用して軍部が暴走し、そしてその軍部の暴走から他を排除するというようなことになり、そして大政翼賛会となる。ある意味で「自由民権運動」からの「政党政治」のアンチとして極端に振れた結果であろう。そしてその結果で戦争に負けたのちは「天皇否定」というようなことが往々にして行われる。昭和21年のメーデーでの、いわゆる「プラカード事件」というものがある。これは、1946年(昭和21年)5月19日の食糧メーデー(米よこせメーデー、正式には「飯米獲得人民大会」)の際、参加者の一人である日本共産党員の田中精機工業 [注釈 1]社員・松島松太郎が掲げた「ヒロヒト 詔書 曰ク 國体はゴジされたぞ 朕はタラフク食ってるぞ ナンジ人民 飢えて死ね ギョメイギョジ」(表面)、「働いても 働いても 何故私達は飢えねばならぬか 天皇ヒロヒト答えて呉れ 日本共産党田中精機細胞」(裏面)のプラカードが不敬罪に問われた事件である。しかし、「人間宣言」となり不敬罪は成立しないとして、名誉棄損罪にしかならなかったということになる。
このような日本の「両極端に振れる」というのは、現在もそのままなのである。
米大学入試の人種優遇「違憲」 バイデン大統領「強く反対」
米大学入試の人種優遇「違憲」 バイデン大統領「強く反対」
アメリカの大学入試選考で黒人などの少数派を優遇する措置を巡り、連邦最高裁は憲法の規定に反するとの判断を下しました。
名門ハーバード大学などが採用している人種的少数派への優遇措置=アファーマティブ・アクションについて連邦最高裁は29日、「正当化する目的が欠如している」として「法の下の平等」を定めた憲法に反するとの判断を下しました。
裁判所では不審な小包が見つかり、警察が一帯を封鎖するなど緊張が走りました。
また、判断に抗議する学生の姿もありました。
抗議する大学生:「大学には低所得の学生や有色人種の学生が入学しやすくする責任があります」「裁判所がなすべきことと逆の方向に進み、高等教育へのアクセスを悪くし、門戸を開く代わりに閉ざすことを決めたのは本当に恥ずべきことです」
バイデン大統領は演説で、「資格のない学生を優先して入学させる措置ではない」と強調し、多様性を守り、機会を広げる新たな道が必要だと訴えました。
バイデン大統領:「私は裁判所の判断に強く、強く反対する。あらゆる才能を活用することでこの国はより強くなる」
一方、野党・共和党を支持する白人を中心とした保守層は、この措置を「白人への逆差別だ」と批判していて、トランプ前大統領は「すべて実力主義に戻る。それがあるべき姿だ」と最高裁の判断を評価しています。
2023年6月30日 14時52分 テレ朝news
https://news.livedoor.com/article/detail/24523692/
日本で極端に振れるといえば、まさに「男女平等」いわゆる「ジェンダー」に対する考え方である。日本の場合は当然に江戸時代の「儒教道徳」から、
男性は外に出て働き、女性は家を守るというような価値観がしっかりと残っていて、明治維新がありながらもそのような価値観に関してはあまり変化がなかったといえる。もちろん、日本以外の国も壇s寧画素と、女性が家の中というような考え方が多くあったので、特に日本だけがおかしいというような考え方はなかったのではないか。
これが変化し始めるのが1970年代の「ウーマンリブ」という考え方がアメリカから来たあたりからである。そして、1980年代には、「家にいる女性たちが不倫をする」というような「金曜日の妻たちへ」のような、女性が家の中では収まらないというような価値観が出てくる。80年代後半から90年代にかけては、バブル期になり、女性が夜遊ぶというようなことも少なくなく、ディスコのお立ち台の女王(今の若い人には何を言っているのかは全くわからないと思いますが)などが出てくるようになるのである。
そして、ここに「セクシャルハラスメント」というような「法律的な対処」が出てくると、一気に「女性のほうが優位性がある」というような形になってきているのではないか。ネッ戸壽では「逆差別」などというようなことが言われるようになってくるが、女性側は「今まで虐げられてきたのだから特権を認められて当然」「今までの特権(女性の場合は肉体仕事はしなくてよいなどのことがあったが)をそのままに、権利だけを主張する」というようなことが往々にして行われるようになるのである。
もちろん、男性も「男性用化粧品」などに見ることができるよう「質実剛健」ではなく「見た目重視」になっていて、女性化してきているのではないか。そのような現象を表した言葉で「草食男子」などといわれている。
そしてその行き過ぎた内容は、歌舞伎町タワーの「ジェンダーレストイレ」のような話につながるのである。
さて、そのような内容に関して、アメリカではどうなのであろうか。
名門ハーバード大学などが採用している人種的少数派への優遇措置=アファーマティブ・アクションについて連邦最高裁は29日、「正当化する目的が欠如している」として「法の下の平等」を定めた憲法に反するとの判断を下しました。<上記より抜粋>
これには当然に反対意見が出てくるであろう。しかし、先日もデンマークで「心は女でも肉体的に男性であれば、刑務所は男性用の刑務所に入れる」ということが言われている。すでに、ジェンダーに関しても黒人に関しても「優遇する」というのはおかしいので「機会を均等にするまでであり、それ以上はおかしい」ということになる。アメリカでは徐々に「反作用」が強くなり、これで「真ん中」に近いところに収まるが、日本はなぜかこのような動きが出てこないのである。
皆さんは、このような「作用と反作用」をどのように考えるのか。