エデンの園
Facebook清水 友邦さん投稿記事
世界中の神話に幼児追放の類似の物語が繰り返しあらわれます。
出生外傷をとなえた心理学者のオットー・ランクは70種類以上の神話を分析してその基本構造を次のように述べました。
『英雄は身分の高い両親から困難の末生まれる。
災をもたらすという警告を受けて英雄は水に流され捨てられる。
いやしい身分の人物か動物に拾われ育てられる。
成長した子供は放浪して、捨てた父親か父親に変わる人物に復讐するか認知される。
最後に最高の名誉を受ける』
この幼児追放のモチーフは迫害されている子どもの空想の中に共通して表れます。
『迫害された子どもは親よりも自分が優秀で偉大な人間であると信じている。
本当の自分は身分の高い、高貴な血筋をひいているのだが、今は追われてか棄てられている身である。
身分の低い両親に育てられ、本当の両親として敬うように教えられている、と思い込んでいる。』
トラウマを抱えて不安を持っている子供は不安を解消しようと頭が作り出す物語の中に入り込んで安心を得ようとします。
トーマス・アームストロングによると幼児追放の神話はスピリチュアルな起源に関わる記憶に基づくといっています。
人間の魂の起源にまつわる神話として聖書のエデンの園からの追放があります。
エデンの園は一つに融合していた状態を表し、堕落とは物質的な肉体と自我に魂が閉じ込められたことを意味します。
英雄は人間の魂を表し、スピリット(高貴な両親)との合一から投出されて漂流し、やがて陸地(肉体と言う物質)にたどり着きます。
魂は長く苦しい試練をへて再び、その高貴さ(スピリットに再び合一)を取り戻すのです。
神話の英雄の行為はトラウマの補償行為であり、切り離された母への回帰の物語でもあるのです。
追放された英雄は怪物と戦い傷つき疲れ果て、無力感と不安に襲われます。
しまい込んだ心の痛みと直面したくないので逃げようとしますが、
魂の奥底にある母(全体)と融合していた記憶があるので、それを思い出すと何が起きても絶対大丈夫という安心感が自然に湧いてきます。
自分の愛の力、勇気、思いやりが試されていることを知って、自分の心の闇と向き合います。
洞察が起きて光明に照らされると闇は一瞬に消えます。
英雄は恐怖や不安、無力感という怪物を退治します。
そして王国の後継者である王女(王子)と出会います。
分離していた女性性と男性性が統合されると二元性を超えます。
英雄は王女(王子)と結婚をして真の王国の統治者となるのです。
自分は英雄ではない、大したことがない、価値がなく、つまらない人間だと思い込んでいる人がいると思います。
でもそれは外から植えつけられた考えです。
その時代の文化・社会の教育、価値観、両親の期待に応えようと作り上げたのが偽りの自分です。
周りの大人に魔法をかけられてしまったのです。
本当の自分ではなかったのです。
地上界に生まれた人々は誰もが英雄(ヒーロー・ヒロイン)であり、かけがえのない宇宙的存在です。
魔法(思い込み)をかけられてカエルにされているのは自分自身なのです。
魔法が解けると醜いカエルはたちまち美しい王子、王女に変容します。
冒険の旅で怪物を退治して魔法を解かなくてはなりません。
失われた自分を見つけて真の自分自身に帰るのです。
それが本当の私に帰る旅です。
https://ameblo.jp/lifeskills/entry-12461908737.html 【心の色眼鏡】
https://ameblo.jp/lifeskills/entry-12283923535.html 【セフィロトの樹】
https://ameblo.jp/ranyokohama/entry-11911223561.html 【エデンの園の中央に植えられた禁断の木の実はリンゴ?いいえ葡萄】
https://ameblo.jp/ranyokohama/entry-12417406197.html 【正義は人間を最も残虐にさせる】
聖書に「園の中央にある善悪を知る木から取って食べてはならない。食べると死ぬから」と書いてあります。取って食べたアダムとイブは 神を失い、楽園を追放されます。
この神話は「善悪の区分をすることは自己を神化することであり、絶対的な善悪は 存在しない」ということを語っているのではないでしょうか。
「ハートビーイング」というライフスキルプログラムがあります。
その中で人に言われて 嬉しかった言葉を書き出す作業をします。
いつもと言って良いほど トップになる言葉があります。それは「ありがとう」です。
感謝の言葉が 人を癒し 愛の循環を生む力を持つことが良く分ります。
若い頃の和多志はモラリストが嫌いでした。偽善者のように思えたからです。
しかし偽とは人(の)為と書くのも面白い。道徳律を押しつけられるのも嫌でした。
ひところ不登校が話題になりました。「よい子で頑張ること」が 不適応を生む大きな 要因と言われました。善い子とは 周りの大人にとって都合のよい子の呼称です。
善い子は自分の意思より 周囲の期待や価値観に応えることを優先します。
成長する中でいつの間にか自分を失っていくのです。
保育士の研修を担当していますが その方々の大多数が 善い人でなければならないという誤った信じ込みを持っています。
研修内容の一つに「~さん あなたはかけがえのない大事な方ですよ。ありのままでいいですよ。よく頑張ってきましたね」と伝えるプログラムを入れています。皆 大感激を受けます。
しかし「善い人であれ」を自分に課して 生きていくと周りからの評価を得 人生を勝ち取る大きな力になってきました。
このような 自分を縛りながら 一見人生を勝ち取ってきたかに見える厄介な信じ込み(一般的にドラィバーと呼ばれる)は氣づいても手放す(自由になる)のが困難です。
プロフィールで思春期の自分のささやかなレジスタンスぶりを紹介しました。
この頃の自分はむしろ偽悪者を目指していたのかもしれません。
虚無に目覚めた中学時代のある日から 毎日やり続けていた氣象観測もぴたりと止め、レギオン遍歴をはじめました。
授業は興味が持てないとボイコットに徹するのですが(教科担任に帰れと言われ 帰ると次回からは教室に入れないと宣告されました。クラス担任が平謝りに謝って 事なきを得たこともありました。)試験をボイコットした時も クラス担任が自宅まで 車で迎えに来てくれました。
教科書持ち込みでいいから 追試を受けるよう言われましたが、授業が進めば そこまでの教科書は破り捨てていましたので 持ち込み用の教科書もありません。
その後はどうなったか記憶にないのですが退学届まで提出し、突き返された高校を 無事卒業してしまいました。
休み時間は職員室に入り浸りの 不思議な少女でした。教師たちには主に「生きる意味」を尋ね続けるのです。
ある理科の教師が 「命とはリトマス反応のようなものだよ」とそっけなく言い切りました。(今はわかる氣がします)
教師たちもニヒリストが多く逆に「死ぬ自由があるものとないものとどちらが幸せだと思うか?」「浦島太郎はなぜ老人になったと思うか?」などチンケナ質問をされてしまいました。
授業中はチョークを投げつける教師が自宅にまで招待してくれました。
理科室、図書室はフリーパス。図書室は高校生になってからもフリーパスでした。
こんな和多志は真面目か不真面目か決められますか?
意味を問う落とし穴は 無知の底なし沼、レギオンの墓場となりました。
善悪を区別してすっきりしようとする独善からようやく解放され続けています。
靈現象は神観、人間観、世界観の全てを覆しました。
まさに想念破壊の痛みをモロに経験したと言えるのでしょうか?
中学時代 生きる意味を求めて 堂々巡りをし続け ふとしたことから プロテスタントの教会に出会いました。その教会には夜学に通う 勤労高校生が10名近く集っていました。
彼らの多くはニヒリストであり 和多志はその仲間に入ってしまいました。
彼らは熱心に求道生活を送っていましたが 和多志はアンチクリスト的な本を読んでは彼らと牧師に議論を吹き掛け続けました。
その果てに 和多志は門外漢だから去る旨を告げました。
すると一人の青年が 真っ蒼な顔をして「傲慢な態度を許して下さい」「自分は説得できると思っていた」と謝りました。
和多志には 彼がなぜ謝ったのかさっぱり解りませんでしたが 心が揺すぶられてしまいました。それ故 生きることも死ぬこともできない 悶々とした毎日の突破口を キリスト教に そして視点変更に求めました。
「生きる意味を問うもの」から(絶対者に)「生き方を問われるもの」になろうと決め クリスチャンワーカーになるべく 結婚とほぼ同時期に 大学と院での学びを始めました。
赴任教会での働き以外に 日本キリスト教団の働きも、兵庫教区の働きも担いながら 家庭と教会生活中心の毎日を歩み続けました。
然しプロテスタントとはカソリックにプロテストすることで生まれた 言葉中心、左脳中心の信仰共同体です。
教団内には分派、徒等が沢山生まれ、言葉中心の礼拝には霊性が乏しく 教会内のグループはサロン化し、教会活動を精一杯しても 満たされる思いになれませんでした。
それなりにいろいろ学ばせてはいただきましたが どうしても納得がいかない教義に「時」に対する 概念があります。
キリスト教における「時」の流れは直線的です。輪廻転生の考えもありません。
大宇宙の公理は回転なのに!そして創世記では一日の時の循環、一年の時の循環を語るのに!!何故か時間軸は直線です。
和多志がキリスト教に躓き始めたのは 霊性のなさ、教義に対する不信、そしてリーダーたちに対する不信と世俗化にあります。
教団総会、教区総会、教会役員会など メイン会議の前には 俗世界とおなじように 教団、教区の権力(お金)を握るべく 根回しが横行し どこにも分派が生まれ、徒等が組まれ
教会のリーダーたちが競い合う姿をいやというほど見てしまいました。
世俗化こそ 教会を去ることになった 決定要因かもしれません。
特に 聖職者といわれる牧師(ファミリー)への侮蔑の思いが強いです。
最後に出会った一人をご紹介しましょう。
夫婦と、娘3人の家族でした。 夫も妻も 各々が「自分たちは本来離婚していてあたりまえの関係だ」と和多志に語りました。然し教会員の前ではおしどり夫婦を演じます。
長女はうつ病。カウンセリングをして欲しいということで 引き受けたものの、娘のカウンセリングが終われば 必ず母である牧師夫人が カウンセリング内容を聞きたがり、自己正当化のために和多志の居室に居座り続けます。
遂にたまりかねて 両親の問題が 娘を追いこんでいると言ってしまった翌日から 彼女は顔を合わせても視線を反らし 挨拶さえも返さなくなりました。
次女はストーカー事件を引き起こし 警察沙汰にさえなりました。
次女の保護を要請されたり、和多志の夫までも相手との折衝にかりだされたりしました。
牧師は教会員がいない場では 常にビールを片手に、まるでアルコール依存症を疑いたくなる感じでした。
和多志が関わっていた求道中の青年に セクハラ事件を起こし 大問題となり青年の自宅に謝罪に行く故 同行を求められたりもました。
牧師は玄関先で土下座をして謝りました。
にもかかわらず 後の牧師の話では 悪いのは青年の方になってしまいました。
こんなどさくさの中で和多志は教会を去ることを決めてしまいましたが 洗礼を希望していたこの青年はうつ病になったと聞きます。
キリスト教とお別れする氣持ちが強まるなかで 残された人生を 如何に生かされるのかを ずいぶん問い続けました。
プロフィールにも書いように和多志は人並み以上に いわゆるトラウマというものを持っています。それが和多志の人生の特徴かもしれません。
その人生で出会った大きなものが キリスト教と心理療法でした。
二大特徴の一つであるキリスト教に失望すれば 残されたものは心理療法しかありません。
人生で得た心理療法を 人生へのお返しとして これからのライフワークとしようと決めました。援助者になろうと決めたわけです。
人の援助がしたいと願うからには 自分がとことんクリアリングされる必要があります。
もちろん教育面接類のこと、頭蓋仙骨療法、箱庭療法 各種ワークショップの参加、その他いろいろ自分の浄化のためにしましたが、 スリーインワンコンセプトの一人セッションをまるで仕事のようにやり続けました。
その技法で、僧坊筋にあった スタックポイントを外した時 身体ががたがた震え 座りこむと同時に 直径30センチくらいの白昼光、次いで鮮やかなアメジスト色の光が セットで2回、次の日に一回輝き 基底部から前につんのめるような感じで エネルギーが上がり始めました。 クンダリーニが覚醒したのだそうです。
キリスト教とのお別れが霊現象の始まりになった ということでしょうか。