当たり前のことなんだけれど
FacebookMasaru Hagiwaraさん投稿記事【揺れ動きながら生きよう】
近所の散歩コースの庭に咲いている百合の花。なぜか、最近、百合の花が目につく。
世の中は、二元性で成り立っているとつくづく感じる。
コインに表・裏がある様に、言葉にすると観念になり、そこには両面で成り立っている。
目標を決めて生きなさい。目標などは決めなくてもいい。
人は両親を決めて生まれて来る。人の一生は受胎時の遺伝子と環境により決まる。
何のためにあなたは生きる。生き方は宇宙が教えてくれる。
これらは、観念であり、ものの見かたともいえる。
私たちが迷うのは、この二つの考え方の間で揺れ動いているからだ。
自分の中の、自我と真我の間のバランスともいえる。
良寛和尚の言葉として、「我が我がの「我」を捨てて、おかげおかげの「下」で生きよ」
今日もこのバランスの中で揺れ動きながら過ごそう。
FacebookMasaru Hagiwaraさん投稿記事
【当たり前のことなんだけれど】
「すべての物事は変化し、過ぎ去るという理解のおかげで、人は何事にも執着しないように
することができます。この生さえも。
このことが意味することは、生に心を開き、死にも心を開くということです。
この教えを知性で理解しようとしないように、そうすれば、失敗するでしょう。
この教えがハートに届くようにすれば、それはとどまるでしょう。」
~人生を心から楽しむ(バルセカール著、マホロバアート刊)より~
確かに、頭(エゴ)で考えると失敗するでしょうね。
感性で感じるようにすると届きますね。
起こることを逆らわずに受け入れることですね。
Facebook相田 公弘さん投稿記事 【自分の幸せが身近にあることに気がつくこと】
小林正観さんの心に響く言葉より…
本当の幸せとは何も起きないことです。
あたりまえのことが淡々とそのまま過ぎていくことがどれほどありがたいか。
朝起きたら目が見えて、耳が聞こえて、歩くことができて、話すこともできる。
本当の幸せというものがわかってしまうと、その本当の幸せを求めるのに長い旅をしなくてもいいことに気がつきます。
本当の幸せは、身近なところにあって、自分の周りを取り囲んでいるという事実に気がつけばいいのです。
実は幸せに満ちているのに、人間というのは生まれ変わりの回数が少ないと、自分のやりたいことができないから否定的な言葉ばかりが出てくるのです。
今日から口から出る言葉の半数以上を喜びや、幸せ、感謝(ありがとう)という肯定的な言葉に切り替えていきましょう。
そして、3年たって100パーセント肯定的な言葉しか出てこないように自分自身をつくり変えると、出会う人が、100パーセント味方になってくれます。
逆に否定的な言葉を口にしていると、そのパーセントの分だけ味方になってくれない人に出会うようです。
自分の幸せが身近にあることに気がつくことが、魂の進化です。
魂が進化するために絶対的に必要な条件は肉体です。
200年、300年、400年ぶりになぜ生まれ変わるかというと、肉体をもって、その体験を通してはじめて魂は進化するからです。
病気、事故、災難、トラブルなどを、つらい、悲しい、苦しい、つまらないと言っている間は、生まれ変わりの回数がまだ少ないのです。
本当の幸せというのは、何かを想定して、それが手に入ったら幸せなのではありません。
幸せとは、すでに幸せに囲まれていることに気がつくということなのです。
その足りないものが手に入らないから不幸だと思い、どうして手に入らないのかと人の悪口を言い、政治や教育が悪いと文句を言うのです。
こうしたことを言っていると幸せはやってきません。
今自分のおかれている状況に満足しないことは、不平や不満と紙一重なのです。
「ほしいものが手に入らないから不幸なんだ」
朝起きて、目が見えること、耳が聞こえること、歩けること、ご飯が食べられること、今この瞬間が幸せだと思える人に神様は味方をしてくれます。
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先日、早川千晶さんというアフリカのケニアに約30年住んでいる女性の話を聞いた。
ケニア最大のスラム、キベラで「マゴソスクール」を主宰している。
19歳から世界放浪の旅をしつづけ、最後に定住した地だ。
アフリカには2000以上の民族が暮らしてきたが、ヨーロッパの列強に蹂躙(じゅうりん)され、植民地になった。
ケニアにはシングルマザーが多い。
彼女たちは、小さな台(キハンダという)を借り、朝仕入れてきた野菜を売ったり、食品を売ったりして、生計を立てる。
人のせいにせず、自ら仕事をつくり出す。だから、生活にグチがない。
今日も命があってありがたい、という。
また、病気になっても病院に行くお金がないので、早く死んでしまう親も多い。
残された小さな子供たちは、1日に日本円で、10円とか20円を手にするために、朝から夜中までゴミをあさり、ペットボトルや金属を売って毎日をしのぐ。
子どもたちの夢は…「50歳まで生きること」「勉強をしたい」「学校へ行きたい」
「お腹いっぱいご飯を食べたい」
そんな子どもたちのために、早川さんは「マゴソスクール」という学校をつくった。
今は全部で500人ほど在籍している。
食事ができない子どものために、朝とお昼に給食を出す。
そして、寝るところがない子どもたちにために、寝る場所もつくった。
マゴソスクールを卒業した子どもたちは、必死の努力で高校や大学へ行く。
そして、学校を卒業したら、夢があるという。
それは…「貧困をなくしたい」「困っている子どもたちを助けたい」「学校をつくりたい」
「お世話になったみんなの役にたちたい」
今、日本の多くの大人や子どもたちは本当に恵まれている。
それは、アフリカのこの現状を知るだけでも、どれだけ恵まれているかわかる。
しかし、多くの大人や子どもたちは、不平や不満、愚痴でいっぱいだ。
「自分の幸せが身近にあることに気がつくこと」こそが、今の我々に最も必要なこと。
■【人の心に灯をともす】のブログより
https://www.mbs1179.com/575/fixf/senryu/2013/05/index.shtml 【しあわせの五・七・五 川柳な人々】より
不安を隠せない。
近藤師範が、今日最初に挙げた注目作は、これでした。
「今日もまた普通の事ができる事」
なんとも穏やかな空気が流れる一句ですね。普通の事ができるなんて、それこそ普通のことなのに。いや、実はそれは普通のことではないのだ、という気づきがあってこその作品といえるでしょう。
「何事も起きずに暮れて晩ごはん」
なんとなく過ごした一日。気づいたら、もう夕食の支度をしなくてはいけない時間になっている。そんなときに、ふっと自分の姿を客観視すると、こんなふうに詠めるのかもしれません。静かなしあわせの感覚があふれてきます。
「コーヒーがいつもの味でホッとする」
これも、何気ない日常に変化がないことを上手く切り取っていますよね。
三句に共通している、ささやかな安堵感。でも、底に流れているのは、近い将来に対する不安や恐れである、と近藤師範は指摘します。
いつまでも今の状態が続くのか?
この国のこれからは本当に大丈夫なのか?
そんな問いかけが、自分の心に芽生えているからこそ、その問いに自らフタをして、不安が大きくなるのを抑え込もうとしている。そんな心の動きが、私たちの中に今あるのではないか、というのです。
そんな「陰」の芽を頭では否定していても、心のつぶやきである川柳には、隠しおおせないのかもしれませんね。
さて、あなたの胸のうちはいかがでしょう。不安と安堵のバランスを保つ役割を、川柳がしてくれているような気もします。
川柳は事物。
自分の気持ちを、どう表現するか。
「うれしい」とか「かなしい」とか「つらい」とか「切ない」とか。様々な感情を直接的に表す言葉はありますが、そんな言葉を使いたくなるときには、ちょっと待ってみましょうか。
そうして、自分の気持ちを、何か事物に託してみる。そこに味わい深い川柳が誕生します。
「父の背を流すようにと墓洗う」
一言では言い表せない、作者の気持ちがじんわりと迫ってきますね。
「畳替え私も青く変わりたい」
今度は、畳に自分の気持ちを託したわけですね。青い畳の新鮮な匂いが漂ってくるから、不思議です。
こんなふうに、自分の気持ちを託すことができる事物を見つければいいのだ、と頭ではわかるのですが、実際やるとなると、私などは適当な事物を探し当てられず、いつもあきらめていました。
でも自分が今、何を手にしているかを見てみたら浮かんできたものが、一つあります。それは鉛筆。赤と青の二色鉛筆は、アナウンサーの私にとっては必需品で、原稿を読むときも、人の話を聞くときもいつも手にしているモノなのです。
そうか。特別なものでなくていい、身近なモノが、自分を物語ってくれるかもしれない、と思えてきました。
近藤さんの場合は、辞書だそうです。分厚く大きなものと、手頃なサイズ。いつも二冊の辞書をそばにおいておかなくては落ち着かない、というほど近しい存在。もしも「自分」を表現するなら、「辞書と自分」の関係から書いてみることになるだろう、と言います。
あなたの場合は、いかがですか?あなたを語ってくれる事物は、一体何でしょうか?
気づきと発見。
近藤師範は言います。
川柳のいのちは、気づきだ。
言葉を操ることよりも、まずは日常生活の中で、何かに「気づく」こと。するとその発見を表現したくなってうずうずしてくる。そのエネルギーが川柳を生み出す、というわけです。
「あたりまえこんな幸せ気ずく朝」
どうということのない一日が、私たちの日常のほとんどを占めていますが、それでも、この一句のように発見できることはあるのですね。
「ただ食べて犬と歩いたしあわせ日」
しあわせだと気づくかどうか、それだけのことと言ってしまえば簡単ですが、それに気づけるかというと、どうでしょうか。
「取りあえず今日を生きれば明日がくる」
これも当たり前といえば当たり前。でも深い気づきですよね。必死な状況に追い込まれたときに、この一句が思い出されたら、どんなに救われるでしょう。
近藤さんは、当たり前を当たり前と受け流さないで、他の表現に置き換えるのが文芸だ、と話します。
そのとき大切なことは、唯一。気づいた瞬間に、メモを取ること!
「気づき」は足早に逃げていきます。宝物を逃さないように、近藤師範は枕元にもメモとペンをスタンバイさせているとか。お手洗いやお風呂など、いたるところにペンを持ち込みましょうか。
発表!4月の月間大賞!!
今日は四月の月間大賞発表でした。
選ばれたのは、この一句。
「アハハハハそれで万事を済ます母」
他にも優れた句がいくつもある中で、この作品に決定したわけを、近藤師範は「描写と説明のバランスが絶妙」と教えてくれました。
まずは、現在目の前にある状態を描写する。そして、どうしてそういう状態が生まれているのかが、あとからわかる。この順序が大切なのだそうです。
この句の場合は「アハハハハ」が、描写です。確かにこの擬声語ひとつで、眼前のお母さんの表情や人柄、その場の雰囲気、が伝わってきます。よくぞ思い切って、上の句を「アハハハハ」だけで使い切りましたねえ。そうして、その背景があとからついてくる形になり、私たちは納得をします。
この順序は、「現在・過去・未来」と覚えていくといいよ、とも近藤師範は言います。
まず、現在どうなっているのか、を描写する。次に、どうしてそうなったのか過去からのいきさつを語る。さらに今後どうなっていくのか、未来について述べていく。
この「現在・過去・未来」の構図は新聞の記事を書くときにも大切だとか。確かに記事って、この順序で書かれていますよね。
新聞記者だけでなく、私たちが文章を書くときも、話し言葉で伝えるときも同じこと。さらに川柳をつくるときも、この発想でやってみるといいんですって!是非、お試しあれ。
さて「アハハハハ」のお母さんは、今頃、月間大賞の知らせを聞いて、またアハハハハと大笑いなさっているのでしょうか。