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信念をもって「生きる」ということ

2023.07.06 13:53

Facebook船木 威徳さん投稿記事【 信念をもって「生きる」ということ 】

~私が留置場・拘置所に入れられても捨てなかったもの~

「地球は『球体』ではなく、『平ら』だ」と主張する理論は「フラットアース理論」として、かなり以前から信じる人もそれなりにいるそうです。そして、最近は、それを信じる人たちが増加傾向にあると言われています。私は、地球はあくまで文字通り、球体だと「信じて」いますが、私が不思議に感じるのは、相応のキャリアを持っているはずの科学者にむしろ、この「フラットアース理論」に転向する人たちが出てきていることです。

そもそも、人が「信じる」とはどういうことなのでしょうか。

なぜ、人は「信じる」のでしょうか。

先に、ビクトール・E・フランクルの「夜と霧」を取りあげました。そのなかで、フランクルの訴える人生観は、そもそも人が「人生にどんな意味があるのか」と問うものではなく。「人生が(人を超えた存在が)、何をわれわれに期待しているか」という観点に変更されなくてはならない、というものだと話しました。

要約すれば、「生きるとは、問われていること、答えること、自分自身の人生に責任をもつことである」と言いうるでしょう。そして、単に、責任を「もつ」とは、具体的に、毎日、毎時、実際の行動をもって応答の責任を果たしてゆくことなのだとお伝えしました。

ここで、応答の責任を果たすうえで、非常に重要なのは、その人が「なにをどのように信じているか」、すなわち、「信念」でしょう。人生から問われていることに、応答の責任を果たすとは、実に細かな行為にまで及びます。たとえば、夕飯のおかずが少ないので、味噌汁を追加しようと考えたとします。インスタントの味噌汁で済ませる方法もあります。ですが、食べたものが身体を作るのだという「信念」に基づくなら、原料の大豆や麹、塩まで調べて選ぶでしょうし、具材にあわせて豆味噌以外を使うかも知れません。具も出汁もその質にはいろいろあります。食事の時間を大切な人とのコミュニケーションの時間だと考える「信念」を持っているなら、器や盛り付け方も変わってくるかも知れません。

私は味噌やぬか漬けなどの発酵食品が大好きです。ちなみに、私の職場では、ぬか漬けの具材を持ち寄り、毎日、朝のミーティングのあと、ぬか漬けを楽しんでいます。当然、全員が風邪一つひきません。・・・話をもとに戻しましょう。

そもそも「信念」とは、人の数だけあって、その正誤を問うべきものではないはずです。ですが、「信念」にも、それの「ふさわしい持ち方」があるでしょうし、だれもが、そのほとんどは無意識のレベルで、自身の考える「ふさわしい持ち方」で「信念」を抱いているものです。いわば、それぞれが「信念の倫理」を持っているはずなのです。

信念の倫理。これこそ、いまの私がみなさんに、私の立場で、想いを込めて伝えたいことです。1876年4月11日。その後、さまざまな分野で取りあげられることになる演説(論文の朗読)がなされました。演者はロンドン大学ユニバーシティ・カレッジの論理学・数学の教授でウイリアム・キングドン・クリフォード。彼はここで、「信念の倫理」という題名で話したのですが、内容はこうです。

クリフォードは、誰かが信じると決めたことでも、他人による倫理的な判断を免れないと主張しました。彼のことばによれば、<信じるものごとを『信じる権利』がその人になければ、信仰が非倫理的な行為としてとがめられる可能性もある>というのです。

クリフォードは、定員いっぱいの乗客を乗せて出航しようとする移民船の船主を例にあげました。この船主は、船が古くて状態が悪く、もとから造りが頑丈ではないことを心配していました。もう一度無事に公開できるかどうか、疑問さえ抱いていたのです。しかし、船主はなんとか疑問を振り払い、あと一度だけなら航海したといって、大した危険はないだろうと、自分に思いこませたのです。この船は今までだって何度も嵐にさらされてけれど、いつも、どうにか港へ戻ってこられたのだから、「もう一度」航海できない理由はないだろう。

船は出航し、乗客、乗員もろとも海に消えたのでした。

「この船主についてどう考えるべきか?」クリフォードは聴衆に問いかけ、自身の答えを示しました。

<人びとの死について、この男に罪があることは間違いない。たしかに、船主は自分の船の安全性については「誠意をもって」信じていた。しかし、そのような「誠意」はなんら罪を軽くするものではない。船主には、目の前にある証拠を『信じる権利』がなかったからだ。その確信は、忍耐強い調査によって「誠実に」得られたものではなく、「疑念を押し殺すことによって」得られたものだ。最後には、「そうとしか考えられない」という確信に至ったとしても、分っていながら意図的に自分にそう「思いこませた」のだから、責任を問われなければならない。>

次にクリフォードは、同じ話をすこし変えて繰り返しました。結果的にひとりも命を失うことなく航海を終えられたとしたらどうでしょうか。船主の罪は軽いと言えるでしょうか。

<そんなことはない。ひとたび行動すれば、それは永久に正しいか間違っているかのどちらかだ。その善か悪がたまたま結果を生まなかったからといって、それが変わることはない。無実だったことにはならない。「見つからなかっただけ」だ。正しいか間違っているかは、信じたかどうかではなく、なぜ信じたかの問題である。何を信じたかではなく、なぜ信じたかの問題である。「何を信じたかではなく、どのように信じるに至ったか」の問題である。「結果として正しかったかどうかではなく、目の前にある証拠を『信じる権利』があったかどうかの問題」である。>

「信じる権利」とはクリフォードの独特の英語の言い回しで、すこしわかりにくいのですが、なんとか説明するとすればこうなります。「信じるべき対象(ものごと)について、十分に調べ尽くしたうえでないと、それを信じる権利はないということで、権利がないのにそれを行使すれば、それは当然、人類に対する罪になるということ」です。

私たちは、普段、なにかを信じるということに、それほど神経を使ってはいないでしょう。しかし、クリフォードは何かを信じるということは、私たちがなんとなく考えている以上に重大な行為だと主張しているのです。それは、人の信念は、いかなる場合でも、その人だけにかかわる個人的な問題ではないからです。信念を思考する時点で、私たちは言語という人類の共有資産を使って思考していることになり、いわば人類の歴史・財産を受け継いでいると同時に、次世代に伝えてゆく責任があるというのです。これがクリフォードの主張の根幹にあり、この文脈で彼が強く主張するのは、「私たちは、なにかを信じる前に、徹底的に『調べる義務』を負っているということなのです。

彼が繰り返し指摘することを、できるかぎりわかりやすく言いかえるなら、「根拠のない(乏しい)ことを信じることは、それがだれであっても、その信念を他人に流布して、悪影響を広めてしまいかねませんが問題はそれだけではありません。互いに、簡単にものごとを信じてしまうなら、それが習慣化してしまい、人間の社会そのものが聞きに瀕することになりかねない」というものになります。クリフォードの主張の大事な点は、何らかの考えが結果的に正しくても、簡単に信じることは悪であると言っていることです。それは私たちには、その信念を必要に応じて修正し、改善する義務が課されているからです。簡単に信じて検証もしないなら、検証の義務を怠ることになり、将来、間違った信念を持ったとしても簡単に修正できなくなってしまいます。

私は、ここ数年間、世界を脅かした感染症は「存在しない」とか、予防(できるはずだった)注射剤は「うつべきではない」などと、ただ「よい・悪い」、「すべき・すべきではない」などと、ABどちらかのグループに属して、「自分(たち)は正しい」という話をしたいわけではまったくないのです。

何年も話し続けてきましたが、食品添加物や新薬の問題、放射能汚染や農薬、家畜の餌、原発から水質の汚染、電磁波の問題など、私は仕事として、人の身体を詳しく診てきているからかも知れませんが、医療はもとより食品や環境、農業に関する問題に関しては個人的に相当学んできましたし、意見を求められれば、答えてきました。

ただ、そこで、問題の解決が時間的に差し迫ったものでない限りは、結論を急がず、慎重に、公表されないものも含めて情報を集めつつ、対処してきました。なぜなら、私が信念に基づいて行動した瞬間、それが部分的にせよ間違いを含んでいたなら、その誤りさえも拡散させてしまい、悪影響を及ぼしかねないからです。その悪影響の最たるものは、人々の分断を生むことと考えています。

先に挙げた、医療、食品や環境、農業に関する問題は、法律をはじめとした権力に基づくルール作りや被害者の保護が必要なことは私ももちろん承知しています。それでも、私が危惧するのは、その権力やなんとなくできあがる世論といったものが、人々の間に、それまではなかった「境界線」を引いてしまうことです。「予防(できるはずだった)注射剤」を、うつべきだという空気が生まれると、個々人の判断の結果として、接種者、非接種者という境界線が生まれます。そこでは、世界中で多くの人が、政府や「専門家」らの見解、マスコミ報道などを信じて、慎重に判断をくだしたかのように見えますが、しかし、そのひとりひとりの行動に問題はなかったのでしょうか。

歴史を振り返っても、政府や「専門家」たちの見解が常に正しいはずはなく、マスコミ報道にあっては、所詮は権力やスポンサーの顔色をうかがう、ただの商売に成り下がっています。SNSにさえ露骨な検閲が入っていることは周知の事実です。そしてなにより、人間はどうしても、集団生活しかできませんので、大多数と同調し、他者と違う行動を避ける傾向にあります。果たして、そんな社会のなかにあって、私たちは自分の人生から問われている問いに、十分な情報を集めたうえで、自分の責任で行動するという義務を果たしてきたのでしょうか。

私は、どんな信念を持っている人をも批判するつもりはありません。自分はこれだけ学んできた、調べてきたのだから「正しい」はずだ、とか、反対派は論破してやろう、などと考える自信も持ち合わせていません。なぜなら、人は自分の過去の行動、すなわち、自分のこれまでの選択してきたことと、それをさせてきた信念、パラダイムを、「正しかった」と思い込みたい生き物で、私もそんな弱さを持ったひとりに過ぎないからです。だからこそ、いろいろな意見を聞き入れながら、自分のなかの軸や、直感も軽んじることなく、調べ続け、検証し続けるのです。

ニュース記事に対する書き込み、SNSでの発信を見ていると、「自分が属するチーム」すなわち、意見や考え方、信奉、信仰を同じくする側と、あきらかに対立する側に分かれるところから始める人が多いことに気づきます(6~8割は無関心かただの傍観者)。そして、そこで特徴的なのは、同じチーム(意見を同じくする人たち)のメンバーの投稿や訴えは、ほとんど無批判に受け入れ、賛同し、すすんで拡散するのに対し、対立するチームのそれに対しては、ただ単に、断片的な批判材料の羅列だけを繰り返していることです。たとえば、例の予防注射に反対する人たちは、同意見の人たちの投稿する記事や写真が、どこのだれが作ったものか分らなくても、また、ニュースのソースも確認もせず、まるで「ほら見たことか!」とほくそ笑むがごとく、拡散を繰り返しています。一方で、対立する「予防注射を勧めている、接種事業に賛同している人たち」に対しては、彼らが提示する根拠(論文、アンケート調査結果やニュース記事など)を慎重に検証することはほとんどなく、その人たちの言論を断片的に切り取って、徹底してNoを言うだけなのです。

予防注射反対派は、その注射をうった人たちが寝たきりになったり、亡くなったりしたときには、「自業自得だろう」、「自分たちは正しかったんだ」と、あろうことか、相手の死さえ喜んでいるかのように感じられるものさえあります。賛成派は賛成派で、たとえば、「注射を受けないのは自分勝手だ」「そんなやつらは社会にとって迷惑だ」などと、束になって応酬するかのように見える人たちも珍しくありません。もちろん、そんなことをするのはごく一部の人たちでしょう。しかし、私たちの心のなかに、同じような想いはないと言えるでしょうか。

フランクルが訴え続けたように、私も、人は「人生から、人を超越した存在から、生きている限り、どう考え、どう行動するのかを『求められている』もので、かつ、その求めに行動をもって応答する責任がある」のだと信じています。そして、同時に私は、その応答責任を果たしてゆくうえで、ベースとなるのが人の信念であり、その信念さえ、他者の人生によくも悪くも影響を与えかねないものであり、慎重に、検証を繰り返していかねばならない、と、そう考えるのです。

世の中には、数え切れないほどの問題が山になっており、個人的にも解決しなくてはならない課題がない人などいないでしょう。だれもが、そうした問題から目を反らしたいし、できれば、「誰か」にきれいさっぱり、解決してほしいと、そう思うものです。とはいえ私やあなたも、政府も、「専門家」たちも、だれも、万能ではありません。私の人生の主人公は、私だけであり、あなたの人生の主人公はあなただけ、なのです。

私は、私たちが追求すべきは、主体的に、自分の意志をもって追求する幸福であり、それができる自由を守り抜くことだと考えています。人それぞれが抱えている課題は、本来は、個々人が真剣に向き合い、それを主体的に乗り越えてゆく、という行動を通じて、「人生から個人的に問われている『問い』に応答する責任を実際に果たしてゆくための重要なチャンス」なのです。

私たちが、個人的に、応答する責任を放棄するとは、「みんながそうしているから、世間ではこうしているから」と、自分以外のなにものかに、自分の人生もいのちも明け渡してしまうことに等しいのです。当然、私たちが求める幸福など経験できるはずもありません。強い者たちや、大きな力は非常に巧妙に、「みんな」や「社会常識」を作り、浸透させてゆきます。私たちに考えることをあきらめさせ、自分の信念や行動を検証することを「必要のない、バカなこと」と放棄させます。その入り口は、私たちが、慎重に考えずに、考えたつもりになって、分裂してしまうこと、分断されてしまうことなのです。

分断・分派、対立は、結果として、どちらかが正しかったと分ったところで、私たちの幸福を生むことはないと、私は考えます。人それぞれの考え方があっていいし、むしろ、みなが同じ考えや信念、思想を持つことこそ不自然で不気味なことでしょう。そうなった結果、過去、どれほど残酷で恐ろしいことを人間が実際にやってしまったかは、歴史が証明していることです。

私は、すでにみなさんにお話ししたように、医師としてというより、「私」として、私自身の信念に従って行動したことで、すなわち「私の人生からの問いに、私の信念に基づいて応答し、行動したこと」で、逮捕・勾留され、結果、社会的には犯罪者とされました。たくさんの財産も失いました。

それでも、心は晴れやかです。自分の信念と相容れない問題や、あきらかな人権の侵害に苦しむ人たちの涙ながらの訴えに知らぬ顔をして、これからの人生を、後ろめたい気持ちを抱えて生きてゆくことこそ、私にとっては地獄にいるようなものだったでしょう。苦しんでいる人がいることに目をつぶらねば、医師として認めてもらえない社会なら、私はそんな資格などいりません。

私にとって、私の信念に忠実であり、私の一度きりの人生からの「問い」に応答する責任を果たすことのほうが、比べものにならないほど重要なことですから。それができる自分であることこそ、私がいのちをかけて守るべき「自由」なのです。

最近、30年以上前に観て、非常につよい影響を受けた映画を、ふたたび観る機会がありました。学生の頃、当時のワープロで書き取り、下宿の4畳の机の前の前の壁に貼って、暗唱していたのを想い出しました。この30年間、いろいろなことがありました。しかし、そのいろいろなことがあったから、いまの私の信念があり、それをなんとか欺くことなく生きてこられたように感じます。

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O Me! O Life! ---Walt Whitman(1819-1892)

Oh me! Oh life!

Of the questions of rhese recurring,

Of the endless trains of the faithless,

Of cities fill’d with the foolish,

Of myself forever reproaching myself,

(for who more foolish than I,

and who more faithless?)

Of eyes that vainly crave the light,

Of the objects mean,

Of the struggle ever renew’d,

Of the poor results of all,

Of the plodding and sordid crowds I see around me,

Of the empty and useless years of the rest,

With the rest me intertwined,

The question,

O me! so sad, recurring---What good amid these,

O me, O life?

Answer.

That you are here---that life exists and identity,

That the powerful play goes on,

And you may contribute a verse.

おお 私よ いのちよ 私が幾度も思いなやむ疑問だ 信仰なき者たちが途切れのない列をなし 街々は愚か者でひしめいている 永遠に 私は 私を責め続けているのだ

私ほど愚かで、信仰なき者がいるのだろうか、と そして、あてもなく必死に光を求める目の数々 卑劣な目的や繰り返される争い まったくうまくいかないことばかりで

私のまわりをうろつく汚らしい連中や 空っぽで無意味な このわたしの人生の残りの時間に

さあ、質問しよう いったいなんのよいところがあるというのだ 私よ いのちよ

答えはこうだ・・・

それは きみが ここにいるということ いのちがたしかに存在し おのれが在るということ

力強い芝居はいまも続いていてとまることはなく きみも そこに いつか貢献するときがくるということ

(訳・船木威徳)

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映画は、「いまを生きる(原題: Dead Poets Society)」です。あらすじの説明は省きますが、舞台は1950年代のアメリカの進学校。生徒の自由や自主性より、伝統や規律を第一とする学校に、英語教師として新しく着任したキーティング先生と生徒たちが起こす事件を中心に物語が進みます。

(邦題の「いまを生きる」とは、紀元前1世紀、古代ローマの詩人ホラティウスの詩にあるラテン語「Carpe diem(カルペ・ディエム=Seize the day、その日を摘め、一日の花を摘め)」に由来します。いまこの瞬間を楽しめ、いまという時間を大切に使え、との意味に使われてきました。)ご覧になっていない方は、ぜひ一度、観て欲しいと感じます。

最後に、キーティング先生のことばを引用して終わりたいと想います。

『自分の信念を貫き通すのは難しい。誰もが人とは違う歩き方をしたいと思う。

なのに、なぜ手拍子した?人と同化したいのだ。

だが自分に自信を持たねば 他人から非難されようと、バカにされようともだ。

(中略)

きみだけの歩き方を見つけろ。自分だけの歩み、自分だけの方角を。立派でも、愚かでもかまわん。』

『難しくても本当の自分をさらけ出すんだ。きみは家来じゃない。強い信念と情熱で証明してみろ。』

『自分の力で考えることを学ぶのだ。ことばや表現を味わうことを学ぶんだ。

誰がなんと言おうと、ことばや理念は世の中を変えられる。』

(ふなきたけのり 2023/07/06)

※写真は、東京拘置所で私が過ごしたのと同じタイプの部屋。