今伝えたい 自由な言葉たち
Facebook相田 公弘さん投稿記事 【言葉で殺せる、生かせる】
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ネガティブなことを言う人のことを、『毒を吐く』と言いますが、本当だって話をご存知でしょうか??
1879年、アメリカの心理学者であるエルマ・ゲイツ博士(ハーバード大学教授)は、人間の吐き出す息を使って実験したそうです。
どんな実験かというと、人間が吐き出す息を採取し、特赦な加工によって液体窒素で冷却すると沈殿物が取り出せるそうですが、その沈殿物は、人の感情の状態によってさまざまな色に変化するということだそうです。
・平安な精神状態の時に吐く息の沈殿物は「無色」
・怒っている時に吐く息の沈殿物は「栗色」
・悲しんでいる時に吐く息の沈殿物は「灰色」
・後悔している時に吐く息の沈殿物は「淡紅色」
そして、人間が怒っている時の息の沈殿物(栗色)を水に溶かして、ネズミに注射したところ、わずか数分でネズミは死んでしまったそうです。
この毒の量を量ってみると、ネズミだけでなくこの毒で多くの人を殺すこともできるレベルの毒だそうです。
またエルマ・ゲイツ博士は、ネガティブで殺せるなら、ポジティブな時はどうなるんだろう?!とも考えたそうです。
結果は、笑ってる人の息はオレンジ色で、ネズミに注射すると元気なったそうです。
ゲイツ博士は、さらに様々な実験をして、次のような結果に至りました。
「怒りや憎しみや悪意は、人体内に毒素を作る。一方、明るく楽しい感情は、免疫物質を作る」
また、私たちの血液は、感情により次のような色になるという話もあります。
○ 怒ると、黒褐色で渋くなる。
○ 悲しむと、茶褐色で苦くなる。
○ 恐れると、紫色で酸っぱくなる。
感情は言葉に乗って届けられる、それが日本古来より伝わる「言霊」ですね☆
そして、感情の物質化したものが血液とも言えるのかも知れません。
毒のない息を吐いていきましょう☆ね
自分への独り言。
※写真は水の結晶より
実験の内容や結果が事実でなくても、響ける資質があるかないかで、人生は大きく変わると思います(*^^*)
Facebook西岡 範男さん投稿記事
. 『 名付けられるものは、名付けられないものに触れている 』
幼い頃、短歌は呪文のように謎めいて、学校帰りに口遊みました。
『 いのちなき砂のかなしさよ さらさらと
. 握れば指のあひだより落つ 』
人生が意に満たぬまま過ぎゆくことを無情にも教える手からこぼれ落ちる砂 ” かなしさ ” に溺れる啄木であるのに、この歌の調べはあまりにも美しく ” さらさら ” という音はあまりにも清らかです。何故にと彼の思いを辿ると、 ” かなしさ ” の彼方を見つめる啄木がいます。そこには限りない自由と豊かさが微睡み、名のあるものが名付けられないものに触れている。と、たまゆらに啄木は境遇を飛躍し、 白紙の天空に舞うかの如く” さらさら ” と書く。人が名付け得ないものに触れた時、自由と創造を本能とする熱き命は自ずから魂の言葉を踊ります 。肉体は思想を生み、名付けられないものへの祈りと化します
和み 🌿message✧︎︎︎︎@nagomu_toki
雨は悲しみを流してくれるかな…
未練や執着を手放すために降っているのかな…
降り続く雨にまた爽やかな陽ざしが楽しみになる
お天気を責めることがないよう人を責めることもなくなればいいなぁ
お天気も楽しめたらいいね起こる事を面白く捉えれたらいいね
心が潤いますように.*✿.
https://blog.goo.ne.jp/sikyakuhaiku/e/1cbf32ae3ec25be6fd5ed5e1a900a5d6 【俳句時評 第113回 「言葉を生かす俳諧師」と「言葉を殺す俳人」 天宮 風牙(里俳句会同人)】より
最近出席した句会で拙句〈店員も客も外人アスパラガス〉について「外人」という差別用語を用いた句はけしからんという句評を頂いた。差別用語とは、辞書によると「他者の人格を個人的にも集団的にも傷つけ、蔑み、社会的に排除し、侮蔑・抹殺する暴力性を持つ言葉」のことをいうとある。差別用語や放送自粛用語といわれる言葉の殆どが本来は差別を意図した言葉ではなかった。「言葉」自体に意味は無い。言葉は使われて意味を持つ。使われた状況によってどうにでも意味が変化して行くのが言葉ではないのか。
連歌形式とは、長句a(五七五)→短句b(七七)→長句c(五七五)と進行し、a、b、cの各々独立した三句からabとcbという二首の歌ができる(前句に付く)。このときabとcbは短句bを共有しながらも全く別の景を描かなければならない(前々句である打越と離れる)。これを「三句の渡り」といい連歌の最小単位であり基本構造である。蕉風の歌仙「市中は」の巻より例示する。
茴香の実を吹落す夕嵐 去来
僧ややさむく寺にかへるか 凡兆
さる引の猿と世を経る秋の月 芭蕉
茴香の実を吹落す夕嵐/僧ややさむく寺にかへるか
「茴香の実」は日本においては漢方薬、精進料理に用いられていたようであり、漢方薬にも通じる知識人としての僧侶を想像させる。
さる引の猿と世を経る秋の月/僧ややさむく寺にかへるか
「さる引」は猿回しをする芸人のことで、猿回しは被差別民の生業とされてきた。仏教の殺生を禁じる教えが、一方では動物にかかわる職業を卑賤視するもととなっていたからだ。相反関係にある「僧」に「猿引」を付けることにより戒律を厳格に守る僧侶像が想像される。又、前句と二句一連で歌として読むことにより一句単独では味わえなかった社会性を持った作品となった。言葉とはその置かれた文脈により幾通りもの意味を持つ、俳諧師は付合により言葉の意味を変化させ座における最善の意味を見出していた。「変化」こそが俳諧の基本理念である。僕が仲間と巻いた歌仙「寺町は」の巻の一部である。
晩飯に唐突にあるお赤飯 陽子
大人だつたり子供だつたり 風牙
有明に捕虫網持ち飛び出し 登貴
この三句の渡りによりできる二首の歌
晩飯に唐突にあるお赤飯/大人だつたり子供だつたり
有明に捕虫網持ち飛び出し/大人だつたり子供だつたり
では、一首目の登場人物は初潮を迎えた少女、二首目は盆休みに帰省した大人の男性となる。前句を起点とする単なる連想ゲームと化した現代連句とは趣を異にするものと自負している。
俳諧から連俳を切り捨てた俳句は一瞬の切り抜きと耳にするが、景を切り抜くだけではなく冒頭に掲げた俳人のように言葉そのものも切り抜き固定化させてしまった方も少なくない。言葉は切り抜かれ固定化されればその生命力を失う。
又、「写生」という言葉は明治以降西洋から絵画論として移入される以前にもあった。それは中国絵画の修練法で、美しい構図は先達によって既に決められている、よって先達の作品を模写することが上達法であるということであった。現代俳句における写生論は子規が提唱したデッサンからやり直す西洋絵画的写生ではなく、先達から伝承された季語の本意と俳句形式としての型による中国絵画的写生である。俳壇はもとより所属誌においても自らの作品が注目されない俳人が承認欲求を満たすために目指す到達点は「俳句の先生」であり、そのためには季語の本意と型は金科玉条なのであろう。
俳句は未だ文学ならず。先頃の俳句甲子園で話題となった、
玉葱や魔羅をうつさぬレントゲン 名古屋B
にしてもその話題は「魔羅」という言葉だけが切り抜かれていたと思う。「魔羅」は雅語では無いが「ちんこ」と書かなかったことに文学性より審査委員(或は俳句世間)への忖度があったのだろう。そもそも、玉葱も魔羅も骨が無くレントゲンに映らないという関係性、或は皮という包茎への暗示なのかいずれにしても見立ての二句一章の句でなんの俳句的面白味も無いことを批判すべきであった。高校生ですら言葉を殺すことが俳句だと思っているのであろう。
Facebook清水 友邦さん投稿記事「言葉だけでは伝えられないものがある。」
共通の言語で話しをしても、共通の体験、共通の文化、価値観、言葉を聞いて連想するイメージ(シニフィエ)を共有していないと言語は意味が伝わりません。
近代言語学の父と呼ばれるソシュールは言語がシニフィアンとシニフィエでなりたっている体系であると喝破しました。
シニフィアンは「言葉の音や文字の種類」の記号なので意味はありません。
シニフィエは「言葉を聞いて連想する像、イメージ」のことです。
言葉というのはこの二つの要素が一緒になっています。
言葉は単独で意味がなく、他の言葉との関係性においてのみ、つまり文脈でしか意味を持つことができないのです。
そして文脈は無数に広がるので言語は実際の対象を示すことはできないのです。
言葉だけでは真の理解はできません。
経験や体験を正確に言葉にすることはできません。
高次の状態を表す、神との一致、究極の自己、梵我一如、涅槃、サマーディ、ノンデュアリティ、ダルマカーヤ、タオは言語で表しても、共通のシニフィエがないと役に立ちません。
料理のレシピを聞いたり読んでも料理を食べてみないとわからないように、自己探求の道を実践して、一瞥が起きて初めて伝わるのです。
瞑想とマインドフルネスは言葉なので、シニフィエが異なる言葉は意味が通じなくなります。
瞑想やマインドフルネスのように言語を超えた状態を説明しようとすると何を言っているのかわからかなくなります。
マインドフルネスは次のように説明されています。
「今この瞬間にある何かに意図的に注意を払い。今この瞬間に実際に存在すること」
この説明ですと「あるがままのいまここ」(Being)とエクササイズ(Doing)を混同してしまいます。
注意を払うのはマインドです。
マインドは今ここにいられないので努力して注意を払い続けます。
しかし、努力を続けているマインドは今ここにいられないのです。
努力することなく気づきが起きている状態が瞑想状態です。
気づきは未来も過去もなく
広がることもなく満ちることもなく
大きくもなく小さくもありません。
上もなく下もなく中心もありません。
行くことも成ることもありません。
言語は三次元の世界に属しているので、それを超えた世界は説明できないのです。
直接「これだ」と示せないので、喩えや比喩でしか表せないのです。
それを仏教では方便といいます。
つまり嘘です。
ですから言葉で理解しようとするマインドはいつまで経っても「あること(Being)」を把握できないのです。