練馬区 16 (14/07/23) 下石神井村 (2) 下石神井
練馬区 下石神井村 下石神井
- 馬頭観音 (未登録)
- 旧西武鉄道鉄橋
- 下石神井御嶽神社
- 油屋住宅跡
- ちひろ美術館
- 上久保地蔵尊/不動明王
- 庚申塔 (130番)
- 稲荷神社
- 庚申塔 (131番)、馬頭観音 (82番)
- 向三谷公園
- 武蔵御嶽神社
- 祠
- 祠
- 馬頭観音 (83番)
- 所沢道跡
- 本信寺
- 地蔵尊
- 下石神井天祖神社
- 庚申塔 (129番)、二十三夜待供養塔、延命地蔵菩薩
- 庚申塔 (128番)
- 地蔵尊
昨日東京に着き、大泉学園の駅前のインターネットカフェに泊まった。今日は修理を頼んでいた自転車を引き取りに上井草の石塚サイクルに行く。店主とは10年前にこの店で自転車を購入してからの知り合いで、親切に対応してくれる。暫く世間話をし、自転車を受け取り、これで今回の練馬区内の史跡巡りをする。今日はこの上井草の隣の下石神井を訪れる。下石神井の史跡は前回4月に幾つか見ており、今日は残りを訪問する。
練馬区 下石神井村 下石神井
下石神井は練馬区南西部に位置し、北部を石神井町、南部を杉並区井草と上井草、西部を上石神井などに接している。
江戸時代以前の武蔵国豊島郡下石神井村は上石神井村と一つの郷だったが、正保年間 (1644~1648年) に、そのころ幕府の命令で、大きな村は二つに分割され、石神井村も京に近い方を上石神井と江戸側を下石神井として二つの村に分かれている。
1889年 (明治22年)、町村制施行で板橋区石神井村大字下石神井となり、1932年 (昭和7年)、板橋区成立で下石神井1丁目 (現在の下石神井)、2丁目 (現在の石神井町) となった。
- 伊保ケ谷戸は石神井川の南、下石神井5・6丁目にあたる。伊保は疱瘡のいぼと思われる。村境には小祠を建て疱瘡神を祀って、疫病神を防いだとされる。
- 坂下は現在の坂下公園 (下石神) 辺りをいう。
- 久保は下石神井1・2・4丁目一帯。久保は窪地のことで、上久保、下久保、久保台 (別名 向三谷 むけざんや)、遅野井 (おそのい)、久保 (別名 原久保、現上石神井南町)などにわかれていた。
1970年 (昭和45年) 1月1日の住居表示実施により、(旧) 下石神井二丁目の大半が石神井町一〜八丁目となった。続いて、1973年 (昭和48年) の住居表示実施により、(旧) 下石神井一丁目の大部分の地域に、南田中町の一部を編入して境界整理を行い、現行の下石神井一丁目から六丁目までが誕生している。以後、1984年までは新旧の下石神井一丁目が並存していたが、(旧) 下石神井一丁目の残りの部分は1984年の住居表示実施により上石神井南町に変更された。高度成長期間には順調に人口、世帯数は増加している。高度成長期終了後も人口増加は2010年代まで続いていた。ここ数年は増加がほぼ横ばい状態になっている。
練馬区史 歴史編に記載されている下石神井内の寺社仏閣や民間信仰の塔は以下の通り
- 仏教寺院: 本信寺
- 神社: 下石神井御嶽神社、稲荷神社、武蔵御嶽神社
- 庚申塔: 4基 馬頭観音: 2+1基
まちづくり情報誌「こもれび」- 下石神井
下石神井 訪問ログ
馬頭観音 (未登録)
旧西武鉄道鉄橋
馬頭観音のある千川通りが井草通りに交差する踏切で鉄道線路は鉄橋を通る。 ここは暗渠化された千川上水の中流区間で開渠部分になっている。この鉄橋は1927年 (昭和2年) に千川上水に架けられた古いもの。
下石神井御嶽神社
境内社には講祖の一山霊神を祀る一山神社が御嶽神社の隣に建てられている。
御嶽神社の奥には稲荷神社が祀られている。隣には、多分古くからあった狐像を祠の中に納め祀っていた。
御嶽神社と一山神社の間の奥に、御嶽山に見たてた岩を積んだ築山があり、造化三神の天之御中主神 (あめのみなかぬしのかみ、中央)、高御産巣日神 (たかみむすひのかみ 右)、神産巣日神 (かみむすひのかみ 左) が祀られている。
境内奥には何を祀っているのかはわからないのだが、祠のが置かれている。
境内には、1905年 (明治38年) に寄進された神前型燈籠 (写真左) の竿部の龍の彫り物は見事だ。その他、一山霊神三十七年祭碑 (明治19年)、御嶽神社燈籠奉納記念碑(明治38年)、土留石奉納記念碑(明治39年)、御嶽神社奉納金壱百円也碑(明治44年)、御大典境内地拡張之碑(大正4年)、社殿改築記念碑(大正9年)、鳥居建設記念碑(大正13年)、金弐百円奉納碑(大正14年)、御嶽大神一心・覚明・普寛・一山霊神(明治30年)、明光治輝霊神(大正3年)、一山忠明霊神四十年祭(昭和33年)の碑がある。
油屋住宅跡
千川通りに戻り、下石神井商店街を抜けて新青梅通りに出た南側には油屋住宅と呼ばれた地域になる。江戸時代に菜種油や ゴマ油を製造していた油屋の屋号で知られた下石神井村の豪農の本橋家の広大な屋敷跡だった。1884年 (明治14年) に、屋敷の敷地内に東京同潤社という大規模な糸線器械工場 (資本金3万円、120人規模) を建設し、外国貿易をめざした。好立地を活かし、千川上水から大量の工場用水をとっていた。不況や天災などの不運に見舞われて1884年 (明治20年) に倒産してしまったのだが、稼働中は近隣の養蚕農家に大きな影響を与えていた。この工場跡地も含めた屋敷跡は昭和2年~3年ごろに整地され、石神井地域では初の分譲住宅地となり油屋住宅と呼ばれていた。
ちひろ美術館
千川通り沿いの油屋住宅内には絵本作家のいわさきちひろ (1918 - 1974年) が最後の22年間を過ごした場所で自宅兼アトリエがあった。1977年に、この千川通りのアトリエ跡に世界で最初の絵本美術館としてちひろ美術館が開館している。いわさきちひろの作品を中心に各国の絵本の原画を展示している。
当時子供向けの本は文字中心で絵本はまだ少なく、挿絵は全く評価されず、挿絵画家の地位は低かった。この概念を変えたのがいわさきちひろだった。
上久保地蔵尊/不動明王 (7月16日 訪問)
ちひろ美術館の北側は上久保と呼ばれた村があった地域で、その中に祠がある。下石神井を巡った際には見落としていた。7月16日に新宿に向かう途中にたまたま見つけた。祠の中には絵馬が沢山掲げられ、上久保地蔵尊と呼ばれている1698年 (元禄11年) 造立の延命地蔵尊と、上久保不動尊と呼ばれ、大山系講中 (庚申待講中武州下石神井) による1734年 (享保19年) 造立の不動明王が祀られている。練馬区内では講中により建てられた不動尊としては最も古いものだそうだ。
庚申塔 (130番)
千川通り沿いには庚申塔 (130番) があると資料に記載されていたので、今年の4月にこの庚申塔を探した。残念ながら見つからなかった。後日調べると、4階建のマンションの敷地内にあるというので再訪した。庚申塔は元々はこのブロックの北側にあったのだが、ここに移設されている。1696年 (元禄9年) 造立で板駒形塔正面には、日月、邪鬼を踏みつけた青面金剛像、二鶏、三猿が浮き彫りされている。下部には「本橋忠左エ門 同 伊右エ門 同行 十一人」の銘がある。この本橋家はこの地域豪農で、かつてはここにも本橋家一族の家が建っていたそうだ。
稲荷神社
千川通りから道を北にそれ住宅街に入ると民家の前に稲荷神社があった。情報は無いのだが、小さな稲荷の祠、その隣に背の高い木製の燈籠が置かれている。大きさがアンバランスなので、元々はこの燈籠に見合う大きな神社だったのかも知れない。
庚申塔 (131番)、馬頭観音 (82番)
庚申塔 (130番) があるマンションの北側別のブロックにも庚申塔と馬頭観音が並んで置かれていた。庚申塔 (131番) は 1700年 (元禄13年) 造立で、駒型の石塔の正面に、日月雲、ショケラを踏みつけた六臂青面金剛立像、その下には三猿は浮き彫りされている。その右には馬頭観音 (82番) の立像の塔がある。1706年 (宝永3年) 造立で、舟形の光背になっている。
向三谷公園
この辺りは向三谷と呼ばれていた地域。正式には窪地を表す久保で、上久保、下久保、久保台 (別名 向三谷 むけざんや) だった。その名が向三谷公園として残っている。
武蔵御嶽神社
向三谷公園の南に武蔵御嶽神社と書かれた神社があった。この神社の情報は見つからなかったが、祠内に「武蔵御嶽神社 下津宮向三谷講御社」と札が掲げられていた。先に訪れた御嶽神社が組織していた講中の内、向三谷の講中が祀っている様に思える。
祠
向三谷公園の北の住宅地の中の道を北に進んで行くと祠があった。詳細は不明だがおそらくこの地に住んでいた人の屋敷神ではないだろうか?
祠
更に道を北に進んだ所にも祠がある。これも屋敷神だろう。
馬頭観音 (83番)
祠のすぐ北に馬頭観音 (83番) が交差点沿いにあった。造立年は1872年 (明治5年) に造られたもので、櫛型角柱型塔の正面に「馬頭観世音」と刻まれている。右側には「四人関」、左側には「小泉市五郎 本橋惣治郎」の銘が入っている。この馬頭観音も本橋家が絡んでいる。
所沢道跡
馬頭観音 (83番) から旧早稲田通りに出て、北西に進んで行くと所沢道跡の石碑が建っていた。所沢道の解説がされている。それによれば、所沢道は八成橋から禅定院まで道が通り、門前で向きを西に変え、道場寺、三宝寺の門前を通って、富士街道と交差し、 南大泉を経て西東京市に入り、所沢へと通じていたとある。つまり通って来た旧早稲田通りが所沢道だった。かつては江戸方面へ農産物などを運んだ産業の道であったと共に、江戸からの三宝寺参詣、行楽の道でもあった。関東大震災後、都市計画で大部分の区画で拡張工事が行われ、昭和通りとなっている。
本信寺
所沢道を進み、禅定院の南を流れる石神井川手前で、道を東に外れた所に寺がある。本門佛立宗寺院の本信寺は2002年 (平成14年) に設立登記された新しい寺で、伝統的な本堂ではなく、民家を寺として使っている。本門佛立宗は長松清風 (1817 - 1890年)が幕末から明治時代にかけて設立し、日蓮宗の現証利益を強調し、当時の退廃した仏教界を攻撃する活動を行い、後の法華系新宗教に影響を与えたという。
地蔵尊
所沢道を進み、禅定院の南を流れる石神井川手前で、道を東に外れた所に地蔵尊が祠の中に祀られていた。ほとんどのお地蔵はほっそりしているのだが、ここの地蔵は少々太り気味だった。
下石神井天祖神社
石神井川から下石神井の中心部 (六丁目) にある天祖神社に向かう。上久保と呼ばれる地にある。この辺りは豊嶋氏の居城の城下地域として郷中一の中心集団地だった。創建年代は不詳だが、1674年 (延宝2年) の庚申塔があるので、江戸時代初期には存在したと考えられている。この時代には神明様と呼ばれていた。江戸時代初期には神明祠か伊勢の遥拝所があったと推測されている。近年では天王様と呼ばれている。下石神井村の時代は村の鎮守で、社域は坂下、上久保、向三谷、伊保ヶ谷戸、原久保を含んだという。参道前には1856年 (安政4年) 造立の古い常夜燈がある。社殿は1885年 (明治18年) の建築で、大日孁貴神、須佐之男命を祭神として祀っている。
境内には境内社として稲荷神社と八幡神社が置かれ、八幡神社前には三個、稲荷神社脇には一個のの力石があった。
境内にはその他、満州日華事変、大東亜戦争で没した下石神井一丁目の戦没者35柱を祀る慰霊碑が昭和41年に建てられている。
庚申塔 (129番)、二十三夜待供養塔、延命地蔵菩薩
下石神井天祖神社の鳥居をくぐった右側には、三基の大型の石仏と石塔が立っている。左から二十三夜待供養塔、庚申塔、地蔵菩薩になる。
- 二十三夜待供養塔 - 練馬区登録有形民俗文化財の角柱型の二十三夜塔は「廿三夜」という文字に、本尊の勢至菩薩が刻まれている。月待講が盛んだった1817年 (文化13年) に造られた。月待とは特定の月齢 (ここでは二十三夜、他に十九夜、二十一夜、二十二夜は如意輪観音を祀る) に、人が集まって月の満ち欠けに生命力を見出したのか、月を出るのを待ち、飲食をともにし、安産祈願や病気平癒祈願をしていた。などの願をかけたという。
- 庚申塔 (129番) - 1674年 (延宝2年) 造立で笠付角柱型になり、正面には日月、二鶏、三猿が浮き彫りされている。右側面には「武列豊嶋郡石神井郷神明村」とあり、この付近は神明村だった。
- 延命地蔵菩薩像は1717年 (享保2年) 造立で、舟型光背型に梵字「カ」の下に地蔵尊が厚く浮き彫りされている。
下石神井天祖神社の西側には珍しい丸彫青面金剛像が残っている。1727年 (享保12年) に伊保ヶ谷戸の講中の人たちによって造立され、1つの石から高さ148cmの青面金剛立像を丸彫りしている。青面金剛は邪鬼を踏みつけ、その下には青面金剛の使いを表す「見ざる、聞かざる、言わざる」の三猿が浮き彫りされている。昭和40年ごろ、この庚申塔に自動車が衝突し、塔は二つに折れてしまい、講の人たちによって修復され、現在でも伊保ヶ谷戸の庚申講の人たちによって、庚申待ちの行事が年に数回行われている。
地蔵尊
庚申塔 (128番) から西に進み井草通りに出る。これで下石神井をぐるっとまわったことになる。井草通りに出た直ぐ、通りの西側に地蔵尊が置かれている。この井草通りは下石神井と上石神井の境界線になっており、この地蔵は二つの村が共同で建てたものだそうだ。
これで今回の東京滞在の一日目が終了。今夜は、阿佐ヶ谷で以前の会社の部下達と会食。11時近くまで盛り上がって、自転車で大泉学園まで戻るエネルギーが残っていないので、近くの荻窪のインターネットカフェ泊まりとした。今回の東京滞在は定期検査の為で、短く一週間で天気が良ければ、史跡巡りはそのうち3~4日間になるだろう。
参考文献
- 練馬を往く (1983 練馬区教育委員会)
- 練馬区史跡散歩 (1993 江幡潤)
- 練馬区の文化財 指定文化財編 (2016 練馬区地域文化部)
- 練馬区史 歴史編 (1982 練馬区)
- 練馬区史 現勢編 (1981 練馬区)
- 練馬の寺院 三訂版 [郷土史シリーズ 3-4] (2004 練馬区教育委員会)
- 練馬の神社 三訂版 [郷土史シリーズ 5] (2006 練馬区教育委員会生涯学習部)