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練馬区 17 (15/07/23) 上石神井村 (1) 上石神井

2023.07.15 15:20

上石神井村 上石神井


上石神井村

上石神井村には城山、観音山、大門、沼辺、西村、小関 (こぜき)、立野 (たちの)、池淵、出店 (でだな) の小名に分かれていた。



上石神井

上石神井は千川上水と石神井川のニつの水路、青梅街道と新青梅街道の新旧の街道に挟まれた住宅地帯で、北部は石神井台と石神井町、東部は下石神井、南部は関町南と上石神井南町に接している。

江戸時代、現在の上石神井および石神井台は武蔵国豊島郡上石神井村と呼ばれていた。現在の上石神井の範囲は城山、観音山、立野、池淵、出店 (でだな) 辺りになる。

1889年 (明治22年)、町村制施行で豊島郡石神井村大字上石神井となり、1932年 (昭和7年) に板橋区成立で上石神井一丁目、ニ丁目となり、一丁目が昔のままのこの上石神井、石神井川の北のニ丁目が石神井台になる。1970年 (昭和45年) の住居表示実施により、(旧) 上石神井二丁目のほぼ全域が石神井台一 - 八丁目となり、1978年 (昭和53年) の住居表示実施では、 (旧) 上石神井二丁目の残余の一部 (早実グラウンド周辺) が関町北五丁目に編入されている。更に、1980年 (昭和55年) にも 住居表示が実施され、(旧) 上石神井二丁目の残余の一部が東大泉五丁目3番街区に編入されている。

1927年 (昭和2年) に西武鉄道が開通して、戦前には駅の南から開けていったのがわかる。現在は学校などの公共施設を除き、ほぼ全地域に民家で埋められている。

1984年 (昭和59年) の住居表示実施では、(旧) 上石神井一丁目の一部 (千川通り以南など) が上石神井南町に、関町側の一部が関町南一・二丁目に編入された。1985年 (昭和60年) の住居表示実施では、(旧) 上石神井一丁目の全域、(旧) 上石神井二丁目の残余 (石神井川南岸のきわめて狭小な区域)、(旧) 下石神井一丁目の一部 (井草道り以西など)、関町一丁目、関町二丁目の一部をもって (現) 上石神井一丁目 - 四丁目が成立している。上石神井の南には区内で2番目に小さい上石神井南町がある。古くは下石神井村原久保だった。1932年 (昭和7年) に板橋区へ編入された時もここはまだ 下石神井一丁目の一部だった。

上石神井は昭和の初めに鉄道が開通してから発展しはじめ、人口も増加している。人口増加は高度成長期終わりまで続き、それ以降はほぼ横ばい状態が続いている。近年は微増傾向となっている。


練馬区史 歴史編に記載されている上石神井内の寺社仏閣や民間信仰の塔は以下の通り

  • 仏教寺院: 智福寺
  • 神社: 半六稲荷
  • 庚申塔: 4基  馬頭観音: 2基

この内、庚申塔1基と馬頭観音2基は所在地が地番表示で、住所番地表は図書館で調べないとわからない。後日、時間ができれば探してみる。


まちづくり情報誌「こもれび」- 上石神井


石上神井 訪問ログ



朝7時に荻窪の宿を出て、マクドナルドで昨日の訪問記を仕上げ、史跡巡りをスタートする。東京は沖縄より暑く、一日中屋外にいると熱射病の恐れがあるので、時々、図書館やカフェで休憩、水分補給をしながらとした。



比丘尼塚、半六稲荷

下石神井と上石神井の住民共同で建てた地蔵尊の道を西に進むと、こもれび公園 (写真上) の前、道路脇に林の小高い塚があったそうだ。以前の写真 (下) があるのだが、現在は整地されて、塚の様子は失われている。

この塚は練馬区の遺跡で番号44番で登録された遺跡でかつては芸術大学寮裏古墳、比丘尼塚と呼ばれ、円墳とも考えられていたが、調査は行われておらず、現在では古墳ではなく塚とされている。比丘尼塚には稲荷が祀つられている。大山祇の山の神という。元々は別に場所、高橋家の畑の中に高橋家の氏神の半六稲荷 (半六さま) という北向きの稲荷があったものを移設している。塚の木を切ると祟りで死ぬとのことで、初牛の日には祭祀が行われている。祭りはたやさないと言う。稲荷社の形になっているが、稲荷神社だったかは疑わしいそうだ。言い伝えでは豊島氏の石神井城落城の時、金の鞍をおいて池にとびこみ、落ちのびようとした豊島泰経は、金の重みで馬が沈んでしまったので、馬と鞍を捨てて逃げたと伝えている。その馬を供養したのがこの塚であるともいう。


太田道灌愛宕山砦跡

石神井川沿いの愛宕山の丘には早稲田大学高等学院がある。この地域は城山と呼ばれていた。豊島氏の居城の石神井城の出城だったと考えられている。1477年 (文明9年) 4月12日に太田道灌に練馬城を落とされた後、豊島軍は石神井城に移動し籠城していた。この出城はその際に放棄され、そこに太田道灌が石神井城攻めの陣を置いたと思われる。太田道灌は戦勝を祈願して愛宕権現を勧請し砦を築いた場所とされ、愛宕山砦と呼ばれていた。ここには真言宗智山派によって智山専門学校が置かれ、その後、早稲田大学高等学院となり、現在に至っている。


智福寺

石神井川に沿って更に西に進むと南側に阿弥陀如来を本尊とする浄土宗寺院の智福寺がある。正式には海見山無量院智福寺という。上総国の武士の子として生まれた一空上人が1625年 (寛永2年) に東新橋の江戸桜田元町に開山したが、ここが幕府入用の地となり、その後、港区芝田町の札の辻に移転した。柘榴坂を登りきったところで、幕府による切支丹を処刑した刑場跡 (天和の大殉教) で現在はカトリック高輪教会になっている。ここは、かつてで、住む人もおらず空地になっていたことや、処刑者の霊も弔う意図から移転したという。寺中に「耶蘇舊教徒原主水外三十六殉教者の焚死の碑」が建てられていた。現在残っている碑は1956年に建てられたもの。この地では、崖崩れで建物墓地等が土中に埋没する大きな災害を受け、また第二次世界大戦の戦災にも見舞われ、1966年 (昭和41年) にこの地に移転している。現在の本堂は伝統的な寺院形式ではなく、建物の位置や内部の構造は機能性を重視して現代建築様式で建てられている。

境内には塩上地蔵がある。掃除をしていた女性の方が説明をしてくれた。江戸時代から、身体に痛むところに地蔵のその部位に塩をかけると、痛みなどが治ると伝えられ、元々寺があった品川では漁師たちが、塩水をかけて撫でていたという。元々の塩上地蔵は塩をかけて撫でられて摩耗してしまった。その地蔵は新しく建てられた地蔵の後ろに残されていた。


庚申塔 (登録番号なし)

智福寺本堂の左、墓地入口に無縁仏塔が集められている。その中に庚申塔もある。隙間なく、石塔が置かれているので庚申塔の一部しか見えず、隙間から写真を撮った。この庚申塔の造立年代は不詳だが、板状駒型の塔に日月、邪鬼 (右下) を踏みつけた青面金剛像、三猿、二鶏が浮き彫りされている。


立野の庚申塔 (127番)、出羽三山・百八十八ヶ所観音供養塔

道を南に線路を越え、現在は暗渠となった千川上水の千川通りに出ると、交差点角に祠がある。この場所は千川沿いの旧道と立野橋が架かっていた道が交差する辻にあたる。この辺りは立野 (たちの) と呼ばれていた地域になる。現在の関町の立野町は昔にこの立野の人が開墾した地で、飛地だった。立野の由来は立野の馬牧に擬する説や、館 (タチ) に関係する説がある。館は城館ではなく官有林や牧の監視所程度だった。祠の中には1704年 (宝永元年) に上石神井立野村の結衆33人によって建立された駒型の庚申塔が左側に置かれている。正面には青面金剛立像と三猿像が浮彫りされている。右側には1842年 (天保13年) に建てられ供養塔が置かれ、出羽三山 (湯殿山、月山、羽黒山) と四国、西国、坂東秩父百八十八ヶ所観音の文字が刻まれているそうだ。


田中水車跡

千川通り (江古田道) を東に進んだ左側に上石千川児童遊園という公園がある。1696年 (元禄9年) に造られた千川上水の水は水車で汲み上げ、灌漑用水として利用されていた。最盛期には、この流域だけで10基以上の水車があったといわれているが、今では、全て姿を消してしまった。この児童遊園の側にあった水車は区内でも一番最後まで、1969年 (昭和40年) 頃まで水車を回し上水を利用し、粉が碾かれていた。公園の中に田中 (観音山) 水車」をかたどった水車のモニュメントが置かれていた。


丘野橋庚申塔 (126 番)

千川通りを少し東に行くと、1705年 (宝永2年) 造立された板状駒型塔の庚申塔がある。千川上水が暗渠になる前には丘野橋が架かっていた場所で、その袂にあったという。祠の中の庚申塔正面には日月、青面金剛立像、三猿が浮き彫りされ、右側には「奉造立南無帝釋天王」「上石神井村 願主」、左側には「宝永第二乙酉天十月吉日」と刻まれている。


観音山憩いの森

観音山憩いの森は、3軒の屋敷を覆う大きな屋敷森の一 部。 観音山の名は、このあたりの古い地名にちなんだもの。


御嶽神社 (大口真神 観音山講中)

観音山憩いの森の北側に神社を見つけた。この神社の情報は見つからなかった。祠の中にはニホンオオカミが神格化したとされる「大口真神 (おおくちのまがみ)」が祀られ、その札には観音山講中と書かれている。横にも犬が描かれた御嶽山の大口真神の札もある。多分、観音山地域の御嶽神社で山岳信仰の地元講中が拝んでいるのだろう。


上石神井の史跡はそれほどないので、見終わった後は石神井台の石神井公園を散策しながら、そこにある史跡を巡った。石神井台は明日も訪れるので、訪問記は明日のものと合わせて別途とする。今夜は長女の婚約者との顔合わせで焼肉屋で会食。




参考文献

  • 練馬を往く (1983 練馬区教育委員会)
  • 練馬区史跡散歩 (1993 江幡潤)
  • 練馬区の文化財 指定文化財編 (2016 練馬区地域文化部)
  • 練馬区史 歴史編 (1982 練馬区)
  • 練馬区史 現勢編 (1981 練馬区)
  • 練馬の寺院 三訂版 [郷土史シリーズ 3-4] (2004 練馬区教育委員会)
  • 練馬の神社 三訂版 [郷土史シリーズ 5] (2006 練馬区教育委員会生涯学習部)