御由緒 西暦400年頃~現在
第18代履中天皇の御宇(西暦400年~405年)、都邑の県主の後胤 都邑の武彦君の神記奏上により日籠の峰(彦嶽)に畫日別陰龍王伊弆諾神を奉祀し神田75町を付け給いました。
第27代継体天皇の22年(西暦529年)に、筑紫の国造磐井が反乱をおこした時、大連物部の麁鹿火は征討の命を蒙り筑紫の国に下向し、彦嶽宮を祈り御井郡の戦に磐井を討平げることができました。
麁鹿火は、天皇に奏して厚皇円娘皇女と兎皇子、仲皇子、三王の火の国への下向を願いました、厚皇女は後で盲目となられましたが夜萬加荘(山鹿)尾登利荘宮崎の荘、三荘の浦千町の主となられ、兎皇子は日浸杵千町と城野の面千町の主となられ、仲皇子は玉杆名の畠千町の主となられています。其の後円娘皇女は都邑の県主武彦の子孫兼彦に妻はし都邑が碕に家宅を造りお住まいになりました。
兼彦は先例に依り75町の神田を領し日籠峰三所権現の宮司となっておられます。
住古は、当山の四方2里の間は神領であり、その印が四方にありました。
今に残る中村の東二子塚の街道横にあるクワド石は其の一石であるといいます。
延久2年中(西暦1070年)に、菊池則隆公は、日籠峯彦嶽5所権現の下津留宮相殿の神を迎えて大祭典を掌行われ、領主小鳥次郎は彦嶽宮を再興し宝鏡一面を献納されています。
後菊池時隆公(西暦1287~1304年)も彦嶽宮を再興し神田三町を寄付され、後又城村城主隈部親安公は下津留宮を再興し神田三町を寄付され、領主山鹿小次郎親安公も神田三町八反を寄付しておられます。
斯くして永禄(西暦1558~1570年)元亀(西暦1570~1573)の頃までは、国家の崇敬も厚く神職三家も山伏三十六坊に奉仕して、彦嶽宮は神威輝き盛大を極めていました。
天正7年(1579年)肥前の龍造寺氏が菊池の赤星氏を攻めて、帰陣の際当彦嶽宮に放火したため社家防中残す所なく鳥有(うゆう)に帰し社頭も噸に衰微してしまい、続いて天正15年(西暦1587年)太閤秀吉に依って神領も忝く取放たれたのであります。
その後、戦乱打ち続き旧時に復することができなかったのです。
肥後守加藤清正候(1562年~1611年)に依り神田1町七畝と宮司1反7畝を立て置かれる事になりました。ここに於いて彦嶽宮神職吉田遠江守公政大いに力を尽くし元禄9年(1696年)社殿の修造も行われ漸く彦嶽宮を再興することができました。
そして猶数十町歩に亘る土地境内を存し、一大旧社としての面目を保っていた彦嶽宮も明治7年(1874年)上・中・下宮各所に僅かの境内を残し山頂より山麓に連なっていた大部分の土地を過当地として没収され、神社明細帳編纂に当たって、上・中・下宮は何ら関係ない各所の1村社と誤解され、其の後数十年の間、大いにその本来の姿を失うことになりました。
その後、僅かに道路敷地1町9畝9歩を境内に編入することができて、上・中・下宮の三社の位置も連続する1神社であることに復旧訂正されて、漸く其の本来の姿を保つ事ができたのです。
昭和4年(1929年)神職・氏子一体となって御鎮座1850年祭の執行に当たっては社殿の改修境内の整備を実施して彦嶽宮の神威の昂揚を願い続いて、昭和54年(1979年)11月創建1900年の執行に当たっては神殿を銅板板葺に改宗し氏子総代による厳粛なる遷宮の後、全氏子により年季祭が盛大に執行されました。