神秘哲学
https://1000ya.isis.ne.jp/1773.html 井筒俊彦【神秘哲学】より
歓びや哀しみはくりかえしやってくる。ときに急に苦しさがやってくる。あれはどうしてか。心や魂が疼いているとしか思えない。なぜ疼くのか。喜怒哀楽というけれど、キドもアイラクも小さな棘(とげ)を戦士の槍のようにふりまわしてくるのだから、処置がない。外因と内因がどこでどう結びついたのか、どうにも説明がしにくい。
これは古今東西の哲人や詩人をふりまわしてきた大問題だった。キド・アイラクに愛憎を加えて六情、怨を加えて七情、ダーウィンはさらに軽蔑・嫌悪・恐怖・驚嘆を計上した。感情と意識の絡みぐあいはこんなにも厄介な大問題だったにもかかわらず、いっこうに解きほぐせない。仮に心や魂が、われわれがふだん「意識」だと思っている何かで構成されているのだとしても、その意識の正体やはたらきは残念ながらまだわかっていない。
心理学や脳科学や認知科学はそのことを解明するために立ち上がってきたけれど、いくつかの有力な仮説を提供しながらも、決定打を欠いたままにある。
だったら哲学はどうか。哲学こそは意識の本質の解明をめざして組み上げられてきたはずだけれど、途中に何度も躓いた傷や過誤の”補修”に議論の力の多くを奪われていて、いまだ凱歌が上がっていない。哲学する行為そのものが「意識の言語化のプロセス」にまるっきりもとづいているため、自家薬籠の問題であることがかえって自己撞着をかこつことにもなってきた。だから、哲学には弁解が目立つ。
それなら宗教は? 信仰こそは哀しみや苦しさからの解放をめざしたのだろうから、有力な解答をもっていそうである。コーパスもたくさんアーカイブされてきた。祈りや瞑想は意識のプロセスに何らかの究極的な様相をもたらしてきたのではあるまいか、その体験や修行などのさまざまな宗教行為の成果を、哲学や認知科学は最大の友人にできないのだろうか。きっとできるにちがいない。むろん、そう思われてきた。
だからオリゲネス(345夜)、臨済義玄(550夜)、スピノザ(842夜)、ショーベンハウエル(1164夜)、ウィリアム・ジェームズ、西田幾多郎(1089夜)、ベルクソン(1212夜)、カール・バルトなど、多くの宗教者や哲学者たちがそのことについての思索をくりかえしてきた。しかし、何かが欠けてきた。
そうしたなか、以上のような大問題が片付いてこなかった理由を、井筒俊彦は研究者や知識人が「神秘」に向き合ってこなかったからではないかと、ずっと思ってきた。
底の知れない沼のように、人間の意識は不気味なものだ。それは奇怪なものたちの棲息する世界。その深みに、一体、どんなものがひそみ隠れているのか、本当は誰も知らない。そこからどんなものが立ち現れてくるか、誰にも予想できない。
『意識と本質』より
東西の叡智を操る異才
井筒俊彦が晩年を過ごした北鎌倉の自邸書斎。30以上の言語を使いこなせるため、あらゆる言語の文献が本棚に並んでいる。
「井筒俊彦全集」特設サイト(慶應義塾出版)より
井筒俊彦の遺著は『意識の形而上学:「大乗起信論」の哲学』(中公文庫)である。77歳のときに「中央公論」に連載をはじめ、3回目で絶筆になった。それゆえ本になったのは死後のことだった。晩年の井筒が如来蔵(にょらいぞう)を説いた大乗起信論に到ったことはたいへん象徴的で、よほどのことだったと思える。「よほどのこと」とは何か。
如来蔵は、仏教が長年追跡していた信仰意識の究極の本質を、東洋思想がどのようにみなしていたかという根本的な見方のひとつを示していた。インド由来でシルクロードをへて中国での教相判釈をえて、いよいよ華厳同様にひたすらアジア的に醸成された考え方である。井筒は「衆生(しゅじょう)の心がそのまま大乗である」「そこにはアーラヤ識としての本覚(ほんがく)が動いている」と書いた。
如来蔵(tathagata-garbha)というサンスクリットの原語は、そのまま訳せば「如来は胎児として宿している」という意味になる。すべての衆生は如来を胎児として蔵(やど)しているということ示した思想だ。本覚は本来の覚性(かくしょう)のことで、『大乗起信論』ではわれわれに最初からそなわっていると考えられる。のちに日本にやってきて天台本覚思想となった。
アーラヤ識(阿頼耶識)のほうは、大乗仏教が「行」を通して到達した最深の意識状態のことをいう。井筒はアラヤ識と書いた。眼識・耳識・鼻識・舌識・身識・意識・マナ識(末那識)のさらに奥にひそむ第八番目の深層意識がアーラヤ識であるが、意識状態を脱したものなのだともくされている。
胎児に如来が芽生えているというのではない。大乗起信をまっとうしていけば、アーラヤ識がはたらいて如来の境涯があたかも胎児のころからそこに宿っていたように実感できると説いている。それは「本覚のあらわれ」というものだと説いている。
井筒はなぜ大乗起信がアーラヤ識や本覚に達するのか、そのことを考えようとした。そこに如来蔵の極致、大乗神秘主義の極致が出入りしているように思われたのであろう。これは「よほどのこと」だったろう。
しかし、井筒は晩年になって初めて大乗起信論の本覚に迫ったのではない。このことは、若いころからずうっと変わりなく「意識のゼロ・ポイント」あるいは「存在のゼロ・ポイント」として探りたかったことだった。
全現象界のゼロ・ポイントとしての「真如」は、文字どおり、表面的には、ただ一物の影すらない存在の「無」の極処であるが、それはまた反面、一切万物の非現実的、不可視の本体であって、一切万物をうちに包蔵し、それ自体に内在する根源的・全一的意味によって、あらゆる存在者を現出させる可能性を秘めている。この意味で、それは存在と意識のゼロ・ポイントであるとともに、同時に、存在分節と意識の現象的自己顕現の原点、つまり世界現出の窮極の原点でもあるのだ。
『意識の形而上学』より
『意識の形而上学』(中公文庫)
意識の構造モデル
Aは表層意識を、そしてその下は全部深層意識をあらわす。最下の一点は意識のゼロ・ポイント。それに続くCは無意識の領域。全体的に無意識ではあるが、B領域に近付くにつれて、しだいに意識化への胎動を見せる。Mは「想像的」イマージュの場所。B領域で成立した「元型」は、このM領域で、様々なイマージュとして生起し、そこで独特の機能を発揮する。
全一的「真如」の略図
A空間は絶言絶慮の非現象における「真如」、B空間は現象的存在界に展開した次元での「真如」。Aは、元来コトバにならないことはもちろん、心に思い描くことすらできない「真如」の形而上的極限を、無理に空間的表象であらわしたものであり、Bは、言語と意識とが、「アラヤ識」をトポスとして関わり合うことによって生起する流転生滅の事物の構成する形而下的世界を表示する。
あらためて井筒の思索の系譜をふりかえってみると、初期の『神秘哲学』にすべての狙いが予告されていたのだろうと思われる。この著作の原型は1949年の『神秘哲学―ギリシアの部』(哲学修道院)である。この本には井筒哲学の巨きな発現装置がヘルメス知やグノーシス知のように仕込まれていた。
井筒はギリシア哲学を最初からアーラヤ識や本覚のように読みたかったのではないか、それを何かを撹乱させたり隠秘させたりする神秘思想の特質のあらわれとみなしていたのではないか、そう思わせる。
日本の論壇では、井筒俊彦はイスラム哲学の研究者、あるいは『意識と本質:精神的東洋を求めて』(岩波文庫ほか)などに代表される、とびきりの東洋哲学の研究者として知られてきた。ぼくも最初に読んだ井筒本は『イスラーム生誕』(人文書院→中公文庫)や『イスラーム哲学の原像』(岩波新書)であり、『意識と本質』や『意味の深みへ:東洋哲学の水位』(岩波文庫)だった。
しかし、井筒はイスラム研究にとりくむずっと前の、戦前に挑んだギリシア哲学の解釈において、すでにその後の探求の原点を明示していた。
ふつう、ギリシア哲学はプラトン(799夜)のイデアにもとづく理念哲学やアリストテレス(291夜)の自然学を下敷きにした形而上学で頂点に達したとみられている。けれども井筒は、それ以前に「理念を傷つけるもの」や「もともと形而上的にしか取り出せない魂の体験」がギリシア哲学のそこかしこにあっただろうことに思いをめぐらし、そのことをディオニソス神のような野蛮で(反理性的で)、アジア的で、(非地中海的で)、狂奔を辞さないアンビバレンツな神の介在との関係において、もっともっと深く思索すべきであろうと感知した。
またふつう、ギリシア哲学が神秘主義的な様相を勁くするのは、オルフェウス教やピタゴラス主義などの特別な例外を除くと、古代ローマ期に入ってプロティノスが登場し、そこに新プラトン主義が広まることによって新たにプラトニズムの発展系に神秘哲学の兆候を嗅ぎとるわけなのだが、井筒はそうではなく、すでにミレトス学派の台頭のなかに自然神秘主義が揺れ動き、神秘を否定したプラトンやアリストテレスにも本人がいかに否定しようとも、拭いきれない神秘哲学の種字(しゅうじ)が去来していたと見た。
井筒は「哲学は、いわば真理を聖体として成立するところの高次の密儀宗教なのである」と書いている。真理が聖体で、その探求は密儀(オルギア)にひとしかったというのだ。
これは当時としてはかなりめずらしい見方だが、若き『神秘哲学』はそのことをこそ訴えたかった。しかしながら当時の多くの論者は、そもそもギリシア哲学を「神秘哲学」と括ること自体がおかしな見方ではないかとみなしていたので、こうした井筒の発想はひどく片寄っているか、オカルティックなものに走っているだろうと見て、これをまったく評価しなかった。だが、その論者たちのほうがずっと狭隘だったのである。
ギリシア精神が叙情詩から自然哲学へ移行するその中間に、自然神秘主義体験を置こうとする私の立場は必ずしも多くの読者を満足させないであろう。ギリシア哲学の神秘主義的起源――このような主題はある人々を苦笑させさえするだろう。(中略)ふたたびニイチェ、ローデの昔に還ろうとするのか。(中略)だがそれにもかかわらず私は深い確信をもって、ギリシア哲学成立にたいする神秘主義体験の決定的意義をまたふたたび高唱しようとするのである。
『神秘哲学』昭和22年の序文より
ひそかな井筒俊彦ブーム
『意識と本質』は長らく岩波文庫のロングセラーだったが、近年井筒の代表作が次々と岩波文庫から復刊した。『神秘哲学』『意味の深みへ』『コスモスとアンチコスモス』。
ソクラテス以前の哲学より流れ出た神秘主義の伏流水
左:万物の根源を無限なるアペイロン[apeiron]に求め、この神的で不滅な根源からあらゆる概念が対発生してきたと考えたミレトス学派のアナクシマンドロス。
右:あらゆる対立を統合する絶対者としての〈一者[to hen]〉から〈叡智[nous]〉が流出すると考えた新プラトン主義の鼻祖プロティノス。
当然のことながら、ギリシア哲学の流れは一様ではない。時期によっても流派によっても、かなり多彩だ。個性的でもある。だからかんたんには案内できないが、あえて粗雑に圧縮していえば、まずはホメロス(999夜)が語った物語、ゼウス一族やオリュンボスの神々の輻湊した嫉妬深い神話、小アジアの強い女神たちをめぐる制圧伝承などなどが、先行的に地中海沿岸を交差しながら進んでいった。ギリシア神話の神々はほぼすべてが擬人化されていた。
それらが混じりあった因果は、やがて古代ギリシア独特の神人交信的な世界観や自然観や人生観となり、それを背景としてイオニアにタレス、アナクシマンドロス、アナクシメネスらの自然哲学が生まれ、そこにヘラクレイトス、アナクサゴラス、アルケラオスが続き、それがピタゴラス学派とパルメニデスやゼノンらのエレア学派を出現させた。
こんなふうになったのは、早々にギリシア・アルファベットが確立したことが大きい。セム語系のフェニキア文字に母音を加えて(フェニキア文字は22の子音文字だけ)、前6世紀には汎用性を発揮した。これで考えていることや伝え聞いたことを「詩」や「文」に移せた。ギリシア哲学はずうっと表記言語とともにあったのである。若いころから語学に堪能で、ギリシア語にも通暁しつつあつた井筒はギリシア哲学の言語思考の脈絡を追い、そこに二重多重の「意味の分節」がひそんでいることに注目するようになった。
分節されたもの(例えば花)が、その場で無分節に帰入し、また次の瞬間に無分節のエネルギーが全体を挙げて花を分節し出す。この存在の次元転換は瞬間的出来事であるゆえに、現実には無分節を分節とが二重写しに重なって見える。それがすなわち”花のごとし”といわれるものなのである。
『意識と本質』より
蛮神
手にカンタロス(ワイングラス)を持ち、ヘルメスと会話するディオニソス。トラキア、マケドニア地方から伝来した集団的狂騒の祭儀によって崇められていた豊穣神と、小アジアのフリュギア、リュディア地方から伝来した樹木や果樹の精霊などが習合して成立した荒々しい神。
ギリシア神話は、古代ギリシア人にコスモス(宇宙)という枠組と、自然の猛威(嵐や海の力)の何たるかを知らせた。そのコスモスや自然力はどういう理由で生じたものなのか。
タレスらのミレトス学派の自然哲学はコスモス(秩序)を成立させている原理の疑問(宇宙は何から生じるのか)に答えようとするものであり、ヘラクレイトスらの哲学は自然力の本性を熟慮しようとしたものだった。タレスは万物の根源を「水」とみなし、ヘラクレイトスは「火」や「流れ」とみなした。
そこに「数」と「比例」に注目した数学的思考が加わり、神秘的な調和が尊ばれた。パルメニデスらがすべての推理を「論理」で説明することを提案されると、エンペドクレスが以上の仮説のあれこれを総合して、宇宙の4元素説をまとめ、そうした構成要素は結合(ビリア)と分離(ネイコス)をくりかえすのだと言い出したのだが、レウキッポスやデモクリトスは構成要素はもっと小さな物質で、もうこれ以上分割できない原子(アトム)によってできていると主張した。
こうした見方をすべて寄せ集めると、なんらの一貫性もない。それはおかしいのではないかと、プロタゴラス、ゴルギアス、プロディコス、ヒッピアスはあれこれ理屈をこねて、百家争鳴をくりかえした。ソフィストの時代である。
おおざっぱには以上が西欧哲学史で「ソクラテス以前の哲学」と一括りにされるもので、時代的にはアテネがペロポネソス戦争で疲弊し、ソフィストふうの議論ばかりが交わされる時代までのことになる。そこでソクラテスはソフィストの「どっちもどっち」方式の議論の不毛を暴くことが「知の愛」(フィロソフィ)だと訴えた。若いプラトンがこの見方に影響をうけて純化させ、アリストテレスが体系化に着手した。しかし「どっちもどっち」はギリシア語の分節思考に絡まってきたものでもあった。
ソクラテス以降、ギリシア哲学は着々と宇宙(コスモス)、理念(イデア)、魂(プシュケー)、運動(デュミナス)、質料(ヒューレ)、形相(エイドス)などを定義づけながら、総じては自然学(フィジックス)と形而上学(メタフィジックス)を構築する。しかし井筒は、そこに二重多重の分節を残響させていたはずの「神秘思考」が欠けすぎていること、かつてはそうした「意味の神秘」との出会いによって思索が飛躍したり深化していたことに、もっと注目すべきではないかと考えた。
古代ギリシアでは、プラトンがコスモスのロゴス的根拠づけを企てていたその同じアテナイの都で、悲劇詩人たちがディオニソス的アンチコスモスのエクスタティックな情熱とその狂乱とを、すさまじい形で演劇化していた。しかもギリシア悲劇は、このアンチコスモスとしてのカオスを、外部からコスモスを襲う無秩序、不条理性としてではなく、コスモスそのものの、構造の中に組み込まれている内発的自己破壊のエネルギーとして描いたのであった。
『コスモスとアンチコスモス』より
古代ギリシアのワールドモデル
アリストテレスの世界と宇宙。16世紀に描かれたもの。中央に「地球(yearth)」その表面に「水(water)」その上に「空気(aer)」「火(fier)」そして、月、水星、金星、太陽、……の球が続き、その上に「透明な蒼穹(cristalline firmament)」の球があって、最上部に「第一動者(primum mobile)」が存在している。
井筒が見通したことは、ギリシア哲学をコスモスによる容器性や秩序性の中だけで解釈したくないということである。ときにコスモス(秩序)を脅かすカオス(混沌)の動向に接触した意識こそが、ギリシア哲学が今日にもたらしてきた原動力になったのではないかと見られるからだった。
各地でもアテネでもおこなわれたディオニソスの祭典の渦中にあって、古代ギリシアの精神や意識は『プロメテウス』『アンティゴネー』『オイディプス王』『メディア』『バッコスの信女』といった、まさに魂が張り裂けるようなギリシア悲劇(トラゴーディア)として結実した。そこではのちにプラトンやアリストテレスが重視した体系的で順調なコスモス観ではなく、荒れて酒好きのディオニソス(バッカス=バッコス)に駆られるかのような逸脱や暴言が激しい魂の慟哭として躍如していた。
井筒はそれを「ディオニソス的アンチコスモス」と捉え、そのような逸脱と狂乱と深化が、実はギリシア哲学の底辺に渦巻く神秘力を逆上させてきたのであって、それがのちのプロティノスらの神秘哲学(新プラトン主義)を用意したのではないかとみなしたのだった。
多くの研究者たちは、こうした見方がギリシア哲学の中心を貫くものとは見ない。そんな大胆な見方をしたのは、アポロン的宇宙観に対するにディオニソス的狂乱を対比させてギリシア悲劇の「深層の凄み」を抉ったニーチェ(1023夜)かエルヴィン・ローデか、さもなくばグノーシス、キリスト教神秘主義、中世ユダヤのカバラ思想、バロック的なオカルティストたちだけだった。だからそんな見方をギリシア哲学史の下敷きにするのはおかしい、と井筒の本を葬り去った。
それほど一般のギリシア哲学史からすれば破天荒な見方だったのである。ただし井筒も自分の思想がニーチェらに準じているとは、ことさらに強調しなかった。しかし、井筒の「意識のゼロ・ポイント」はあきらかにアンチコスモスから照射されていた。
井筒のこのような企み(信念)を最初に指摘したのは、ぼくが知るかぎりでは中沢新一(979夜)だった。1991年に「井筒俊彦著作集」(中央公論社)が刊行されたのだが、その第1回配本『神秘哲学』の挟み込みの栞に中沢は「創造の出発点」を書いて、井筒の意図を簡潔に言い当てた。中沢はこう書いた。
「ギリシアの神秘哲学はディオニソス神の衝撃の中から発生したのである。この異国の神はインド・ヨーロッパ語的な文明原理の外から出現し、その原理がつくりだした形而上学的なホメロス的進学の宗教を根底から揺るがした」「ギリシアにおける神秘哲学の起源は、同時に西欧形而上学の起源の場所でもある。最初にそのことに気がついたのはニーチェだが、井筒俊彦はこの本において、まったく別のやり方で、その条件をえぐりだしてみせたのである」。
まさにそうであろう。短文ではあったが中沢の指摘は当たっていた。とはいえ、井筒の「別のやり方」や「よほどのこと」はその後も長らく理解されなかったのである。またニーチェやローデとの違いやグノーシスとの関係も、その後はほとんど議論されてこなかった。
井筒はあまりに突飛な研究者だったのだろうか。そうではあるまい。宗教や哲学のかたわらに「そもそもの突飛」がふんだんに出入りしていたことに気がついたのである。
ちなみに、少しのちのことになるが、若松英輔や安藤礼二も井筒のこの発見と意図を強調した。若松には『井筒俊彦:叡知の哲学』(慶応義塾大学出版会・2011)というすぐれた井筒評伝や井筒ファンを集めた『井筒俊彦ざんまい』(慶応義塾大学出版会)があり(その後に『霊性の哲学』KADOKAWAでも井筒をとりあげた)、若松・安藤の二人には生誕100年道の手帖『井筒俊彦』(河出書房新社・2014)がある。
私が本論で分類するものは、詩的想像力、あるいは神話形成的想像力によって、深層意識のある特殊な次元にあらわれる元型(アーキタイプ)的な形象を、事物の実存する普遍的「本質」として認める一種の象徴主義的「本質」論の立場である。グノーシス、シャマニズム、タントラ、神秘主義、等々、東洋哲学の領域において顕著な位置を占め、その拡がりは大きい。何処からともなく湧き起こって、意識の仄暗い深層にうごめきつつ、そこに異様な心象の絵模様は描き出す元型的「変質」。その世界を、無「本質」主義の禅はまったく知らない。あるいは知っても、全然問題にしない。
『意識と本質』より
若松英輔による井筒本
批評家で詩人の若松英輔氏は、これまで多くの場で井筒論を展開してきた。若松氏の最初の井筒体験は、『神秘哲学』の冒頭の一節「悠ばくたる過去幾千年のの時の彼方より、四周の雑音を高らかに圧しつつ或る巨大なものの声がこの胸に通い来る」に衝撃を受けたときだったという。
井筒は大正3年(1914)に東京で生まれ、旧制青山学院中学でキリスト教にふれた。なかなか好きになれず、礼拝中に嘔吐したという。よほどの感受性だ。西脇順三郎(754夜)のシュルレアリスムの考え方に惹かれ、もっと文学をめざしたかったが、父親の反対にあって慶応の経済に入った。同級に加藤守雄・池田弥三郎がいた。
経済学部の講義はつまらなく、途中から憧れの西脇のいる英文科に転じて、もろに西脇スピリットを浴びた。旧約聖書に興味をおぼえると、神田の語学校で小辻節三からヘブライ語を習い、歴史の中の言語に関心をもった。先輩の関根正雄の感化をうけてアラビア語にもとりくんだ。井筒の語学才能は有名で、このころロシア語・古典ギリシア語・ラテン語の短期習熟も試みた。
昭和2年に卒業のあとは文学部の助手になったが、軍部に駆り出されて中近東の要人の通訳をしたり、昭和14年(1939)には大川周明に頼まれて満鉄系の回教圏研究所で膨大なアラビア語文献を読破して(前嶋信次が同僚にいた)、来日中のイブラヒムやビキエフに語学とイスラム哲学を学び、早々にイスラム知の内奥を覗いた。昭和16年に主にイブン・ルシュド(アヴェロエス)を論じた『アラビア思想史』(興和全書)を刊行した。
戦後になるとにすぐに『アラビア哲学』をまとめた。これを引き受けたのは光の書房を主宰していた上田光雄で、この上田が昭和24年(1949)に『神秘哲学――ギリシアの部』の執筆を依頼した。上田は「科学と哲学」という雑誌を創刊したり、哲学修道院ロゴス自由大学を開いたり、神秘派のハルトマンやフェヒナーに傾倒するような人物で、稲垣足穂(879夜)を居候させたりもした。
慶応の教壇に立つことになり「言語学概論」を講義しつつ、『アラビア語入門』『露西亜文学』『マホメット』などを書いた。昭和28年(1953)の『ロシア的人間』(弘文堂)が斬新だった。井筒はのちに「自分は哲学者ではない。あくまで言語学者なのである」と言っている。それを言うなら言語哲学者であろう。
翌年、教授になり、昭和34年にはレバノンに半年滞在、翌年にはエジプトのカイロ、シリアのアレッポを訪れ、モントリオールではマギル大学のイスラーム研究所でイスラム哲学にとりくんだ。この海外経験はすぐに『コーラン』の新訳作業に投影された。
昭和42年(1967)は53歳。初めてエラノス会議に招聘され、その後、ほぼ毎年参加した。エラノス会議はルドルフ・オットーの呼びかけで始まった滞在型の自由なカンファレンスで、宗教学・神話学・心理学・神秘学などを8日にわたってめぐった。オルガ・フレーベ・カプタインがスイス・アスコナ近くのマッジョーレ湖畔の別荘を提供した。ユング(830夜)、ユダヤ神秘主義研究の力技の泰斗ゲルショム・ショーレム、「意識の歴史」を得意とするエーリッヒ・ノイマン(1120夜)、アナキズムも研究していたハーバート・リード、鈴木大拙(887夜)、世界神話に明るいジョセフ・キャンベル(704夜)、ハイデガーのフランス語訳者でグノーシスっぽい神秘主義に強いアンリ・コルバンなどが参加した。コルバンはユングに気にいられ、24回も発表者になった。
エラノス会議は多方面からスピリチュアリズムを論じたヘルメティックな知的会議である。オカルティズムにも正面きった。当初のユングの仕切りが大きかったのであろう。井筒没後、『東洋哲学の構造:エラノス会議講演集』(慶応義塾大学出版会)が刊行されている。
従来の言語学が、ともすれば平板な「意味」の見方に満足してしまいがちなのは、この学問が、コトバの「意味」機能を論述の対象として取り上げる時、コトバそのものを、主としてそれが社会慣習的にコード化され、システム化されてはたらく次元に限定して考察する性向をもつからである。「シニフィエ」「シニフィアン」などという、より厳密な記号学的述語を導入してみても、事態はこの点に関するかぎり、少しも変わらない。(中略)コンヴェンショナルな「意味」だけが考察の中心となる。コンヴェンショナルな意味の枠をはみ出すものは、「ニュアンス」である。(中略)パロールの次元における話し手のその場その場の個人的「意味」である。(中略)ようするに、表層的「意味」しか考えないのだ。この表層主義が私には不満だった。
『意味の深みへ』あとがきより
エラノス会議参加者の顔ぶれ
左上から、時計まわりにルドルフ・オットー、ゲルショム・ショーレム、エーリッヒ・ノイマン、ハーバード・リード、鈴木大拙、ジョセフ・キャンベル、アンリ・コルバン、ミルチャ・エリアーデ
エラノス会議
(左)円卓を囲むエラノス会議参加者。「エラノス」は古典ギリシャ語で「晩餐会」の意。8日間にわたる大会では、参加者らが寝食をともにし、各々が持ち寄ったテーマについて2時間の講義を行った。1933年から1988年まで開かれた。
(右)第10講演「イマージュとイマージュ不在のあいだ」の時の井筒俊彦。53歳でエラノス会議会員となり、老荘思想から禅仏教、華厳、儒教、水墨画、俳句、シャーマニズムに至るまで東洋の思想を縦横無尽に全12回講演し、世界に井筒の名を知らしめた。
エラノス会議の母・カプスタイン
1933年から亡くなる1961年までエラノス会議を主催したオルガ・フレーべ・カプスタイン。1920年にアスコナのサナトリウムに入院したとき、風光明媚な当地を気に入り、のちに「カサ・エラノス」と呼ばれる別荘を購入した。当地でインド哲学や瞑想に開眼した上、ドイツの著作家ルートヴィヒ・ダーレスや神秘主義者アルフレート・シューラーらと交流して神秘主義に傾倒した。リチャード・ウィルヘルムにより翻訳されたばかりの「易経」や、ユングの「元型思想」に触れ、東洋と西洋を繋げる場を構想した。1930年頃アメリカ・ロードアイランドを尋ねた際に神秘主義の著作家アリス・ベイレーの知己を得て、1930-32年に共同開催した神秘主義者らの交流会がエラノス会議の前身となった。
カサ・エラノスの壁に掛かっていた絵の秘密
人生における最も深いものはイメージによってしか語りえないと信じたカプスタインが1926-1934年ころに、神秘的直感や幻覚、啓示を重視して描いた瞑想絵画群の一部。当初エラノス会議の会議室に飾られ、参加者から賛否両論を招き、神智学への盲目的な傾倒がみられる画法をユングから痛烈に批判され、取り外された。1934-38年頃からはユングから助言をもらいつつ画風を転換し、ユング派の分析心理学の影響を強く受けながら内的真実と外的世界、それから心理的過程と創造的な次元の融合をめざしていった。
ユング心酔者の聖地となった別荘
(左)カール・ユング。ユングの神話の元型の概念はエラノスの基礎理論となるなど、実質的なエラノス会議のコンセプトであった。(右)ユングが地元の石工の協力を得てチューリッヒ湖畔のボーリンゲン村に自ら建設した隠棲の館<ボーリンゲンの塔>。エラノス会議出席者だったアメリカの実業家ポール&メアリー・メロン夫妻が人文学的な研究の支援をするボーリンゲン基金を創設するきっかけとなった、ユングとの会合も当地で持たれた。基金をもとに出版された叢書には、『易経』、ユング『心理学と錬金術』、鈴木大拙『禅と日本文化』やジョージ・ルーカスが『スター・ウォーズ』を構想するきっかけとなったジョゼフ・キャンベル『千の顔を持つ英雄』が含まれる。フィランソロピーによる大型パトロネージュの代表事例として語られる偉業だ。
若いころから語学の天才だった井筒には、言葉は表層的にはどのようにも入れ替え可能なものだと感じられていたから、むしろ古代語や宗教言語や詩歌文芸の言葉づかいに内在する多様な分節力や隠れた含意に着目するべきだという考え方があった。
昭和43年(1968)に慶応を退官し、マギル大学のイラン支部開設にともなってテヘランに移住した井筒は、10年ほど彼の地にいて昭和54年に勃発したイラン革命のあおりをうけて帰国するのだが、そのころからこうした「言語的に掘り下げる」という考えを磨きあげると、これをイスラム哲学・キリスト教・カバラ・東洋哲学・仏教・老荘哲学・儒教などの思考言語群にあてはめ、次々に著作にとりくむようになった。老子の英訳なども試みた。エラノス会議の刺激は大きかった。
かくて帰国後の『イスラーム生誕』(人文書院)を皮切りに、『イスラーム哲学の原像』『イスラーム文化』『意識と本質』『意味の深みへ』『コスモスとアンチコスモス』『超越のことば』(いずれも岩波書店)が次々にものされた。そして最後にとりくんだのが、大乗起信論に切りこんだ『意識の形而上学』だったのである。
これらはその後、論文・単行本・翻訳ものを含めて『井筒俊彦著作集』全11巻および別巻の対談・鼎談集になっている。
ぼくはこれらをまんべんなく読んだわけでもなく、また精読したわけでもないが(井筒の文章は味がなく、読みにくい)、著作集第9巻「東洋哲学」に以前から気になってきた「スーフィズムと言語哲学」という論文があるので、今夜はそれを紹介して井筒神秘哲学の真骨頂へのオマージュとしたい。
1983年に日本学士院で研究報告したもので、翌年「思想」に掲載された。特異なスーフィー思想家アイヌ・ハマダーニーの深層意味論を扱っている。ぼくはこれを読んだとき、井筒の言葉についての掴まえ方は編集工学といくつかの部分で重なっていると感じたものだった。
聖典のコトバの流れのリズムに、おのれの内的生命のリズムを合わせながら、スーフィーは『コーラン』を読み続ける。しだいに『コーラン』の魂ともいうべき神的掲示の息吹きが彼の「魂」の名から染みこんでいく。元来、アラビア語では「魂」(ナッス)は「息吹き」(ナファス)と密接な意味論的なつながりをもつ。(中略)すなわち、観想者の内的な状態が、神の「気息」と合致して、変質していくのだ。そして、彼の内的状態が変質するにつれて今度は逆に『コーラン』のコトバ自体が内的に変質していく。『コーラン』は普通の信者の読む『コーラン』とは似ても似つかないものになってしまう。
「創造不断」より
イスラム宗教社会では一定の修行して得られる意識のことをバシーラという。バシーラは一般のアラビア語では「視覚」を意味するが、スーフィズムの述語としては「精神的な目」とか「内観」を意味する。ときに水墨山水の画論にいう「骨法」などの意味ももつ。
スーフィーたちはこのバシーラの説明を求められると、まっすぐには答えない。ずらすか、そらすか、ひねる。しかし、そのようにずらしたりひねったりしている言葉づかいには、井筒の見るところ、「言語以前」の体験がもたらす大事な言葉が飛沫になっていることが多い。この飛沫のありようは、イスラム哲学ではアリストテレス型の知をファルサファと呼ぶのに対して、イルファーンあるいはヒクマットと言う。ヒクマットは叡知(wisdom)のことである。大乗仏教でいえばプラジュニャー(般若=智慧)にあたる。
バシーラは、根源の意識にかかわる非ロゴス的あるいは超ロゴス的なるものなのだ。しかし、そのような根源の意識は実際の修行体験や神秘体験が先行していたから洩れてきたわけで、そこ以外からは発出しない。スーフィーとは、まさにそこに迸(ほとばし)っているものなのである。
ここで井筒はジャック・デリダがロゴス中心主義世界像をデコンストラクションしようとしている試みを横目で見ながら、そこにニーチェやローデが指摘したように古代ギリシアに非ロゴス的超ロゴス的な思考が芽生えていたこと、また初めから神のロゴスなどを立てなかった大乗仏教や禅などの例を引っぱってきながら、スーフィーがもつ神秘主義の独壇場を、ハッラージを通して紹介するのである。
9世紀のバグダードに活躍したハッラージは、ペルシア生まれのスーフィーで、異端の罪で処刑された。そのハッラージが「我」の本質について、次のようなことを言い残した。神秘主義の体験の中では私の「我」はたしかに「我」にはちがいないけれど、それが「汝」にあまりに近く引き寄せられているので、「汝の我」なのか「我の我」なのかはわからなくなると。
この奇妙なシチュエーションは、スーフィズムではムナージャート(しめやかな男女の睦言)とも、ときにシャタハート(泥酔妄言)とも呼ばれているもので、よくおこるらしい。ふつうなら異様な心境を示す言葉になりかねないのだが、つまりオルギアっぽいものなんだが、井筒はそこにスーフィー独特の多層的多義性が出入りしているとみなした。
これは、仏教でいえば『般若心経』の「色即是空・空即是色」のようなもので、「空」と「色」とを分けないで同時に見ているということにあたる。一方の「空」を見ることが他方の「色」を見ることになり、「色」を見つつも「空」を見る。そんなふうに見ると何がいいのか。何か大事なことがわかるのか。
そのことの意義を12世紀のスーフィーであるアイヌ・ル・コザート・ハマダーニーが解明していると、井筒は説明する。何かがわかるのではなく、何かを多義的なままに捉えることができるのである。ハマダーニーはそのことをスーフィズム特有の意味多層のしくみとして取り出し、理性の領域にとどまるコトバに対して、理性の向こう側の領域に躍動するコトバこそが、バシーラの暗示する神秘の多義性をほじするのだと解いたのだった。
ハマダーニーはこのことをタシャーブフと名付けたようだ。垂直にゆらぐ不定性、不安定性、不決定性、曖昧性、動揺性ということらしい。
ぼくは編集工学をエピクロスの原子がタテに逸れて落下していくという発想にヒントを得て組み立てはじめたのだけれど、それはスーフィーによって、また井筒俊彦によって、うんと確固たるものとして縦横自在に感知されていたのである。その後、このようなイスラム的な神秘の多義性は、むしろ多神多仏の日本の「見立て」でこそ解明するのがおもしろいと、思うようになった。
井筒が讃嘆するイスラーム神秘家
12世紀前半に活躍したイランの神秘家アイヌ=ル=クザート・ハマダーニ。理性的な知による学問に疑問を抱き、アフマド・ガザーリーに弟子入り。ガザーリから神秘の超理性的領域を会得したハマダーニは、のちに独自の意見を主張した。しかし保守的な正統派神学者や法学者たちに恨まれた結果、イラク・セルジューク朝宰相の手により、若干33歳にして、異端者として処刑された。
スーフィの神秘建築「シャー・ルクネ・アーラム」
パキスタン・ムルタンにあるスーフィーの聖人シャー・ルクヌッディーンの霊廟(12世紀初頭)。名称はルクヌッディーンの称号「世界の柱」を意味する。高さ33メートルのドームの外壁は、青色のガラスをはめ込んだ象嵌(ぞうがん)による装飾が施されている。ムルタンは、多くのスーフィーの祠があることで知られ、別名「聖者の街」とも呼ばれている。
神との合一を目指すスーフィズム
スーフィズムはスンナ派・世俗から離れて禁欲と苦行を重ねる少数の運動としてはじまり、12~13世紀の社会的混乱期にイスラーム世界の全域に広まった。神と一体になる無我の恍惚を目指す修行として、神の名を繰り返し唱え集中する「ズィクル」や、音楽に合わせて回転を繰り返し神との合一を目指す「サマー」がある。
(図版構成:寺平賢司・西村俊克・八田英子・衣笠純子・牧野越叢・梅澤光由 校正:八田英子・井田昌彦、キーエディット:吉村堅樹)