練馬区 19 (17/07/23) 下土支田村 (1) 土支田
下土支田村 土支田
- 土支田農業公園
- 田柄用水跡
- 土支田地蔵尊
- 稲荷大明神 (2023/10/16 訪問)
- 稲荷山憩いの森、豊楽園神社
- 土支田八幡宮
- 馬頭観音 (60番)
- 法音寺
下土支田村
- 三丁目 (さんじょうめ) は、鎌倉時代、新たに補任された地頭の得分として与えられる免田 (給田) を表す三町免の転訛になる。
- 俵久保の地名の起こりは、この辺りは白子川に沿って、早くから水田が拓けた所で、田原と呼ばれていたのが、好字 (こうじ) の俵と変化して呼ばれる様になった。俵に窪地をさす地形・地名である久保が付加された。この地にある支田八幡は村人からは俵久保の天神社と呼ばれていた。
- 八丁堀は、縁起の良い八を用いた八町と表現した新しく開墾された広いところ、つまり、原と同義語だった墾 (はり) で堀になり、新墾地という意。
- 土橋は土でおおった橋が架かっていたところだったが、橋がどこに架かっていたかは不明だそうだ。
1889年 (明治22年)、上土支田村が東京府北豊島郡石神井村土支田村大字下土支田となり、下土支田村は上練馬村と合併し東京府北豊島郡上練馬村下土支田となっている。このとき小字は九つあった。八丁堀の東、現在の光が丘公園の場所に、八丁原 (はっちょうばら)、庚塚 (かのえづか) があった。
- 八丁原は八丁堀と同じ意味
- 庚塚はそこに庚申塚があった。
1891年 (明治24年)、 石神井村上土支田が埼玉県新座郡榑橋村と合併し、東京府北豊島郡大泉村上土支田となる。
1932年 (昭和7年)、大泉村上土支田が東京府東京市板橋区東大泉町に、上練馬村下土支田が板橋区練馬土支田町 (1 ~ 2丁目) となる
1947年 (昭和22年) に板橋区から練馬区が分区した際に、板橋区東大泉町は練馬区東大泉町、板橋区練馬土支田町が練馬区土支田町となり、その後、1949年 (昭和24年) には、練馬土支田町1丁目は旭町、2丁目は土支田町に変更されている。
土支田
1949年 (昭和24年) にできた土支田町 (現在の土支田) は練馬区北部に位置し、東部は旭町と高松に、南部は谷原と三原台に、西部は大泉町に、北部は埼玉県和光市の南と白子に接している。
戦前の土支田は小さな村だった。入手した人口データでは1956年時点で人口は900人足らずだった。戦後人口が増え始め、高度成長期では順調に増加が続き、高度成長期が終わる1973年には7,500人に達し、1956年に比べて8.5倍になっている。その後は、増加率は低下しているも現在に至るまで世帯数、人口とも増加は続いている。
練馬区史 歴史編に記載されている土支田内の寺社仏閣や民間信仰の塔は以下の通り
- 仏教寺院: 法音寺
- 神社: 土支田八幡宮、豊楽園神社、稲荷大明神
- 庚申塔: なし 馬頭観音: 1基
まちづくり情報誌「こもれび」- 土支田
土支田訪問ログ
土支田農業公園
土支田地区の南には土支田農業公園がある。かつてはここには田柄用水が流れ、その水を利用して農業が盛んだった。現在は住宅街になって、畑は少なくなっている。この公園には畑や昔ながらの納屋や水車などが野外展示され、体験農場があり、農業教室も開催されている。土支田村で水田稲作が盛行となるのは明治初年に、上練馬村上野長左衛門、土支田村名主の小島八郎右衛門等の尽力により、田柄川用水が完成してからだった。それ以前の田用水は現在の井頭公園の溜井から湧き出る僅かな流れのみで、細々と畑仕事をしていた。
田柄用水跡
支田農業公園は田柄用水が流れていたのだが、現在ではその面影はなくなっている。光が丘公園の東側から田柄には用水路跡が遊歩道などになっており、そこの沿って自転車を走らせたので、こちらの西側にも同じような遊歩道を期待していたのだが、支田農業公園の北側に小さな公園があるのみだった。
土支田地蔵尊
かつての長久保道に土支田地蔵尊という交差点がある。この道はかつての長久保道になる。この南に交差点の名の通り地蔵尊がある。交差点の名になるぐらい村人に大切にされていた事がわかる。道しるべを兼ねていたようだ。
稲荷大明神 (2023/10/16 訪問)
10月16日に大泉町に向かう途中、土支田地蔵尊の近くで見つけた祠。鳥居には稲荷大明神と書かれている。この祠の情報は見つからなかった。練馬区では個人宅に屋敷神を祀った祠を多く見ることができる。そのほとんどは稲荷神社になっている。江戸時代には農家では稲荷を地の神にみたてて屋敷神にしているのも多い。これは江戸時代に稲荷社と八幡社のほかは建立がうるさかったことによるそうだ。ただ、個人宅の屋敷神にしては立派な造りになっている。地域の有力者の屋敷神がご利益があるということで、地域住民から信仰されて地域の守り神として祀られていることもあるので、ここの稲荷大明神もその部類ではないかと思う。
稲荷山憩いの森、豊楽園神社
道を北に進むと白子川の南東の小高い丘に森が残されており、稲荷山憩いの森という公園になっている。この森には樹々の中にカタクリの群生地があるそうだ。その季節は終わっているので、カタクリの花は見られなかった。公園内には遊歩道があり、散歩すると至る所に四角く固めたコンクリートの石造物がある。何かの施設がここにあったのだろう。
北の住宅地へ降りていく遊歩道沿いに神社が置かれている。豊楽園と書かれた石碑と溶岩塚の祠が置かれている。稲荷山憩いの森は、昭和初期には行楽地として「豊楽園」があったそうだ。先程のコンクリートの建造物は豊楽園の名残りなのだろう。碑文にその経緯が記されている。村人の鎮守の森への想いが表れている。稲荷山の森の東側の一角に1846年 (弘化三年) の題目塔など三基の石造物がある。ここはかつて三十番神のお堂があったところになる。
豊楽園園は古来から、稲荷神社の鎮座地で稲荷山と呼んでいたが、明治維新の際に、村人は相談して稲荷神社を北野神社に合祀し、跡地は官有林となった。それ以降、この森の払い下げに尽力し、ようやく昭和7年に村人の私有地土との交換でこの地を取り戻す事が叶った。行楽地にしようと桜楓樹を植樹し、稲荷神社を守護神としてここに移転し、豊楽園と命名している。
土支田八幡宮
稲荷山憩いの森の遊歩道の一本が土支田八幡宮の参道入口前に通じている。この神社の草創時期は不詳だが、1192年 (建久3年) の創建と伝わっている。1874年 (明治7年) に土支田村 (字俵久保) 内にあった八幡社、神明社、稲荷社を合祀し、北野神社と称し、地元では「俵久保の天神さま」と呼ばれていた。以前は主神に菅原道真命を祀っていたが、1947年 (昭和22年) に主祭神を誉田別尊に改め、相殿神に菅原道真命、天照皇大神を祀り、土支田八幡宮と改称している。
境内社には八雲神社 (祭神:素盞男命)、御嶽神社 (祭神:少彦名命)、祓戸社 (祭神:伊吹戸主命) が置かれている。
境内には神楽殿 (写真上)、奥には稲荷社 (祭神:稲倉魂命) もある。
参道口には南極井戸 (写真左上) と呼ばれる井戸がある。明治44年に宮司が白瀬中尉の南極探検隊に事務長として加わり南極から持ち帰った氷を納めた事からこう呼ばれている。参道沿いには1932年 (昭和7年) の手水舎、参道の途中に1932年 (昭和7年) の燈籠、幣殿前に1816年 (文化13年) の燈籠が置かれている。
境内には幾つもの板碑が建てられている。官有林払下げと社殿改築を示す昭和7年の記念碑 (左下)、御嶽山大々紀念碑(明治44年、下土支田講 左上)、土支田土地改良白子川改修記念碑 (昭和37年 右上)、日清・日露戦役の表忠碑 (昭和7年 右下)、太平洋戦碑 (昭和43年 中下)、明治百年長寿記念碑 (昭和43年) がある。
馬頭観音 (60番)
境内奥の林の中に1810年 (文化7年) 造立の方形塔文字型で道しるべをかねた馬頭観音が置かれている。
法音寺
土支田八幡宮のすぐ東側には曹洞宗寺院の花岳山法音寺がある。高輪泉岳寺の第四世門解蘆関和尚が隠居寺として1631年 (寛永8年) に麻布今井谷に創建している。太平洋戦争で被災し、講堂、本尊、過去帳ともに焼失している。その後、1961年 (昭和36年) に、当地に移転している。移転当時の檀家数は20戸程であったが、現在は200戸以上になっている。
参考文献
- 練馬を往く (1983 練馬区教育委員会)
- 練馬区史跡散歩 (1993 江幡潤)
- 練馬区の文化財 指定文化財編 (2016 練馬区地域文化部)
- 練馬区史 歴史編 (1982 練馬区)
- 練馬区史 現勢編 (1981 練馬区)
- 練馬の寺院 三訂版 [郷土史シリーズ 3-4] (2004 練馬区教育委員会)
- 練馬の神社 三訂版 [郷土史シリーズ 5] (2006 練馬区教育委員会生涯学習部)