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富士の高嶺から見渡せば

脱中華の東南アジア史⑬ ブギス人編①

2018.07.17 04:23

<インド太平洋を縦横に航海した海洋民族>

16世紀から18世紀にかけて、東南アジアの人々が、西洋と本格的に出会った大航海時代から植民地時代にかけて、現在のインドネシアの島々を拠点に、帆船を駆使して東南アジアからインド洋、南太平洋を航海し、幅広く交易・通商活動に従事した海洋民族がいた。

                    (マカッサル市内 © ASEAN Centre)

インドネシア・スラウェシ島を拠点に活躍したブギス人、あるいはブギス・マカッサル人と呼ばれる人々である。スラウェシ島の名前は、戦後、インドネシア独立後につけられた名前で、戦前の日本人には日本海軍も拠点を置いた「セレベス島」の方がなじみは深いかもしれない。ブギス・マカッサル人のマカッサルとは、ブギス人が多く暮らしたスラウェシ島南西部にある中心都市の名前で、16世紀から18世紀にかけて、マカッサルの名は、香辛料の取引を行うアジアの主要な貿易港として知られ、世界有数の商業都市として繁栄していた。

インドネシアには人が暮らす島だけで6000もの島々がある。そのうちスラウェシ島は、フィリピンのミンダナオ島の南、カリマンタン島(ボルネオ島)の東側に位置し、大航海時代が始まる契機となった香辛料の一大産地、香料諸島またはスパイス諸島の名前でも知られたモルッカ諸島、現在のマルク諸島はすぐ東側にある。スラウェシ島の形はアルファベットのKの字に似ていて、険しい山脈の頭の部分だけが海から顔を出したような複雑な地形をしている。面積はスマトラ島やカリマンタン島に次いでインドネシアでは4番目の大きさで、島の最北端から最南端まで西側の屈曲した沿岸をたどるとその距離は1500キロに達する。これは日本の青森県と鹿児島県の突端を結んだ直線距離に匹敵するので、島の大きさも想像できるかもしれない。標高3450メートルの山(ランテコムボラ山)など、島のほとんどは山岳地帯に覆われている。現在の人口は1500万人だが、山脈や半島に隔てられて30にものぼる多様な民族が、ほとんど交流なしに、孤立した状態で暮らしてきた。道路が整備されず陸上の交通手段がないため、移動はもっぱら海上をわたる船に限られた。

この島の南西部、マカッサルを中心に暮らし、巧みな造船技術と航海術を駆使して、積極的に外洋にのりだしたのがブギス・マカッサル人だった。彼らは、アジアに西洋の衝撃をもたらした大航海時代が始める以前から、それこそインド太平洋を股にかけて縦横に移動し、あちこちの港町や島々に足跡をのこし、時には勇猛な海賊としてその名を轟かした人たちだった。

たとえば、インド洋の西端に位置するマダガスカルには、大航海時代のはるか前、10世紀には、今のインドネシア語と同じ言葉を話す海洋民族が移り住み、植民地化したことで知られる。マダガスカルの言葉はインドネシア語と同じオーストロネシア語に属し、数字の発音はほとんど同じで、今でもインドネシア語での会話が成り立つほどだという。スラウェシ島からマダガスカルまで、小さな帆船で航海することができるのか、実証試験の航海が1990年に行われたことがある。ブギス人たちが使っていた昔の帆船をそのまま再現して使用した。途中、嵐に遭遇したが、インド洋を50日かけて横断し、マダガスカルに無事到着したという。

スラウェシ島の漁民たちは、イギリスがオーストラリアの領有を宣言し、流刑地として入植を始めるはるか以前から、オーストラリア北部ダーウィン近くの海岸まで往復し、ナマコなどの採取をしていた。クック船長がシドニー湾に上陸して領有を宣言したのは1770年、イギリス人の入植が始まるのは1788年だった。それより前の1500年代はじめ、ブギス人はオーストラリア北端、アーネムランドにナマコや真珠貝、鼈甲を採取するために、毎年訪れ、半年近くも滞在したという記録が残されている。実際に海に潜りナマコの漁をしたのは現地に暮らすアボリジニの人たちだったが、彼らはブギス人から船の扱い方を教わり、音楽や儀式、言葉などにブギス人と接触した形跡が残っているという。

<優れた造船技術と航海技能をもった海の民>

このスラウェシ島の海洋民族ブギス・マカッサル人について研究しているのが、『スラウェシ島の海と船~ブギス・マカッサル・マンダールの航海と造船』という著書がある脇田清之氏だ。以上の話も、その著書から学んだ。脇田氏は東京商船大学を卒業後、日本鋼管(現JFE)に入社し、長年、造船部門に勤務したあと、1997年から2005年にかけて計3回のべ5年間にわたってJICA国際協力機構のシニア海外ボランティアとしてスラウェシ島マカッサルの国営造船所に赴任し、技術移転に携わった。そのかたわら、スラウェシ島各地を訪れて現地調査を行い、現地で発掘・蒐集したさまざまな情報は、脇田氏が主宰するウェブサイト「スラウェシ島情報マガジン」(http://www5d.biglobe.ne.jp/makassar/)で見ることができる。

脇田氏によると、マカッサル市内から車で3時間、スラウェシ島の最南端にあるタナベルという海辺の村には、海岸の椰子の林の中に木造船の工場が延々と2キロにわたって続く造船産業の村がある。この近くには、船大工や船乗りを多く輩出する村もあり、人口1万人あまりのうち90%が何らかの形で木造船の建造や操船に関わっているそうだ。ここでは毎年、中小型の漁船や客船、貨物船、豪華ヨットまで各種の木造船がいまでも毎年70隻前後、建造されているという(同書p65)。彼らの造船作業に設計図はなく、船の底部を支える竜骨(キール)となる一本の木を森から伐りだすことに始まり、すべて先祖代々受け継いできた技術と経験に頼って船づくりは行われる。スラウェシ島の木造船の建造技術は、17世紀には欧州にも知られていて、1607年マカッサルを初めて訪れたオランダ人はスラウェシ島の帆船を見て、その建造技術の高さに驚いたといわれる。太平洋戦争中、インドネシアに進出した日本軍は、ジャワ島やスマトラ島は陸軍による軍政を敷いたが、スラウェシ島(当時のセレベス島)は海軍が統治し、1942(昭和17)年、マカッサルにその行政機構「民政府」を置いた。その海軍の要請を受けて日本の造船会社4社がセレベス島に進出し、日本の技術者200人と現地の造船労働者5000人が軍発注の木造船の建造に従事した。昭和18年には73隻が発注され、完成したのは18隻だったという記録があるという。

時代は下って1997年、スラウェシ島タナベルの造船業者が、長崎の民間団体から受注し、巨大木造船「ナガサキ・ドリーム号」の建造に取りかかったことがあった。全長60メートル、幅11・5メートル、排水量1000トンという大きさで、オランダ東インド会社設立から400年となる2000年の完成を目指して建造が進められ、船底部分はほぼ完成したが、あまりにも巨大であったことと長崎の民間団体の資金が続かなかったことなどでプロジェクト自体が途中で中止となった。しかし、これほど大規模な船の発注があったということは、タナベルの造船業者の技術の高さが世界に知られ、スラウェシ島の海洋民族の伝統と文化が高く評価されていた証拠でもある。

ブギス人たちが造船技術に優れ、巧みに木造船をあやつり、大海原の危険な航海に果敢に立ち向かった背景には、山ばかりで農業に適さず、海に乗り出すしかなかったスラウェシ島の事情もあったが、東南アジアやインド洋一帯に吹き渡る季節性のモンスーンの風を利用できたことも大きな条件だった。ブギス人は季節によって方向を変えるモンスーンの風を巧みに利用し、帆船を思い通りに操ることができた。たとえば東南アジアの群島部一帯の海域では5月から10月ごろにかけての乾季には東風、東からの風が吹き、11月から4月にかけての雨季は西風が吹いた。ブギス・マカッサル人は、香辛料の買い付けのため東のマルク諸島に向かうときは雨季の西風を利用し、逆に乾季には東風に乗ってマカッサルにもどり、さらにマレー半島などの西を目指した。

当時、ブギス人の船乗りは、島伝いに島影をみながら船を走らせることが多かったが、浅瀬や岩礁、各地の岬の位置など海岸線に関する知識をもとに精密な航路図を作っていた。また風や潮流に関する知識が豊富で、月の満ち欠けや星座の位置から船の針路を判断し、海面の光や色、臭いなどで浅瀬の位置や天候の変化を予測できた。また星の見え方から嵐や季節の変化を予想することもできた。たとえば「スロ・バウィ星と呼ばれる星が東に出て夜早く沈むと東風が吹く兆候」、「ワラ・ワラ星が天空中央に明るく輝いて見えると熱暑が近い兆候」など、先祖伝来の星の見方に関する言い伝えが数多く残っているという。(同書p55)

<国際商業都市として歩んだマカッサル王国>

スマトラ島やジャワ島、カリマンタン島やスラウェシ島などに取り囲まれたジャワ海は、13世紀末から16世紀初めころには、ジャワ島の東部を中心に栄えたヒンドゥー国家マジャパヒト(マジャパイト)王国が海の覇権を握っていた。しかし、16世紀の後半になるとスラウェシ島のイスラム国家マカッサル王国が勢力を伸ばし、ジャワ島北岸の港町にも影響が及んだ。17世紀半ば、マカッサル王国の最盛期には、その勢力圏は、西は対岸のカリマンタン島東部、北はフィリピン・ミンダナオ島近くのスールー諸島、東はマルク諸島やニューギニア、南はオーストラリアの北端にまで及んでいた。

マカッサル王国は、実は二つの王国が同盟してできた都市国家だった。スラウェシ島南西部には、互いに10キロほど離れた別の川の河口にそれぞれゴワ王国とタロ王国があった。ともにブギス人が作った王国だが、ゴワ王国は好戦的な海賊国家として知られ、1420年には200隻の艦隊を率いてマラッカ海峡の港町マラッカを襲い、その後、対岸のパサイ・アチェ国を長期にわたって占領したという記録が残っている。16世紀初頭にマラッカに滞在したポルトガル人商館員トメ・ピレスの記録『東方諸国記』(大航海時代叢書Ⅴ 岩波書店)によれば「スラウェシ島の人々は世界中の誰よりも強い盗賊であり、自分の国からジャワ島などあらゆる島へ航海し、掠奪を働く」と書かかれている。

一方、タロ王国は商業港として早くから栄え、周辺の島々との交易を得意とした。1490年代には国王自ら船に乗り、ジャワ、モルッカ(マルク)諸島、バンダ諸島などを航海し通商関係を築いた。1525年、ゴア王国の第9代国王は、それまで内陸部にあった王宮を現在のマカッサルの沿岸部に移し、それと同時に、海洋交易を得意とするタロ王国と同盟を結んで「マカッサル王国」をつくった。これによって国際的商業都市として歩むことになったマカッサル王国は、マレー商人の定住を奨励し、香辛料などの海洋貿易の中継基地として発展していくことになる。やがて周辺の島の人々だけではなく、インド系イスラム教徒や華人など、さまざまな地域の交易商人が来航するようになった。1559年にはポルトガル人が、1607年にはオランダ人がやってきたのをはじめ、イギリスやスペイン、デンマークなどの商館が置かれた。彼らのための外国人居留地も作られた。日本の貿易船も来航し、カンボジア(クメール)在住の日本人、宗右衛門の船が1634年から1638年にかけて毎年のようにマカッサルまで渡航したという記録があり、何人かの日本人もマカッサルに駐在していたらしい。(岩生成一『南洋日本町の研究』)

マカッサルは、すべての国の交易商人に開かれた自由港だった。しかし、これをこころよく思わない勢力があった。東インド会社という国策貿易会社を使ってアジアの植民地侵略を進めていたオランダだった。当時、マルク諸島の香辛料を独り占めにし、莫大な利益を独占していたのはポルトガルとスペインだったが、オランダはこの二つの国をこの地域から追い出し、ヨーロッパとアジアの間の香辛料貿易を独占することを狙っていた。そのオランダにとって、すべての国の商人との自由貿易を標榜し、交易を通じてマルク諸島をはじめ周辺の島々に影響力を及ぼすマカッサル王国は、目障りな存在だった。オランダ側は、自分の思い通りにならないマカッサル王国に対して、17世紀を通じて圧力をかけ続け、ついには4年越しの戦争を仕掛け、激しい砲撃でマカッサルの街を壊滅させることになる。

詳しくはのちにもう一度触れることになるが、次回は、「東インド会社」の成立とその性格について、ざっとおさらいしておきたい。