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練馬区 20 (13/10/23) 下土支田村 (2) 旭町

2023.10.13 14:20

下土支田村 旭町



下土支田村 旭町

旭町は練馬区北辺部に位置し、北は板橋区成増、北東は板橋区赤塚新町、東は光が丘、南は高松、南西は土支田、西は埼玉県和光市白子と隣接している。

昔は土支田村にあり、江戸時代の土支田村は現在の旭町、土支田、東大泉の全部と、光が丘、三原台の一部を含む大きな村だった。村は幅1km余、全長約6km、上組と下組に分かれ、旭町は下組に属していた。明治時代に入り、上・下両組は別々の村となり、今の旭町と土支田は下土支田村に、東大泉は上土支田村となった。1889年 (明治22年) の町村制で、下土支田村は上練馬村と合併し東京府北豊島郡上練馬村下土支田となっている。1932年 (昭和7年)、板橋区が成立した際には上練馬村下土支田が練馬土支田町1丁目となった(2丁目は今の土支田) 1947年 (昭和22年) に板橋区から練馬区が分区した際に、板橋区東大泉町は練馬区東大泉町、板橋区練馬土支田町が練馬区土支田町となり、その後、1949年 (昭和24年) には、練馬土支田町1丁目は旭町、2丁目は土支田町に変更されている。

この旭町は下土支田村の中でも、人口の少ない地域だった。明治時代から戦前までは北の端の安端と南端の八丁堀に小さな集落が見られるだけだ。八丁堀は江戸時代に新規開墾された地域なので、それ以前は北の安端にしか人が住んでいなかった様だ。民家は戦後に北地域から増え、現在では地域全土に民間が密集している。

旭町は北に川越街道が走り交通の便が良かった。その影響で、北部の後安 (安端) 地域は戦前までに開け、人口も戦前には既に増加がみられる。戦後、隣の地区の光ヶ丘団地が開発されたことで、この団地を囲む旭町も人口は増加している。人口増加は高度成長期には加速し、その後は横ばいとなり、再度、1980年から90年代に増加、2000年以降は現在に至るまで横ばい状態となっている。人口が増加した高度成長期半ばの1968年に住所表示が実施され、旭町は一丁目 ~ 三丁目に分割されている。


練馬区史 歴史編に記載されている旭町内の寺社仏閣や民間信仰の塔は以下の通り

  • 仏教寺院: 妙安寺、本覚寺、仲台寺
  • 神社: 出世稲荷、北野神社
  • 庚申塔: 2基  馬頭観音: 0+ 2基

まちづくり情報誌「こもれび」- 旭町


旭町 訪問ログ


一昨日に三ヶ月毎の定期検査で東京に入り、昨日は預けてある自転車を取りに行った。長い間使用していなかったので、タイヤが劣化し、部分的に裂けていたので、タイヤとチューブを交換し、今日から、練馬区内の史跡巡りを再開する。今日は旭町から始める。


出世稲荷

旭町の北の端、成増駅近くに出世稲荷神社がある。創建年代は不詳だが、川越藩主が参勤交代の折に出世祈願をした事から出世稲荷と称されるようになったと伝わっている。松平信綱 (1596 - 1662年) や柳沢吉保 (1658 -1714年) も出世祈願をして老中、大老の要職についたという。昔は小さな祠が建っていたが、1982年 (昭和43年) に、この祠を後ろに移転して本殿とし、深川神明宮の改築で旧本殿を貰い受けて移築し、幣殿、拝殿として現在のような社殿の形になり、祭神として稲倉魂命、相殿として厳島姫命を祀っている。階段になっている参道には稲荷神社としては珍しい白い鳥居があり、狛犬ならぬ狛狐が鎮座している。階段の上に社殿が置かれている。

1982年 (昭和57年) には境内地模様替えを施工し、裏参道も付け替えられている。こちらは狛犬が鎮座。この狛犬はかつての兎月園の中にあった神社にあった1918年 (大正7年) 造立のもので、この裏参道に移設されている。

鳥居の右手に、境内社の大鳥神社が祀られている。


妙安寺

川越街道から白子道を少し南に入った白子川の谷地に妙安寺がある。日蓮宗の長久山妙安寺の開山は駿河蓮永寺の日雄上人、開基は板倉伊賀守勝重と伝えられている。徳川家康の江戸入府以前からの重臣だった板倉伊賀守勝重は、1586年 (天正14年)  に駿府町奉行を命じられ、この辺りを知行していた。勝重は親交も厚く、その学徳を深く尊崇していた日雄上人を招き、八町の土地を寺領として寄進して、この妙安寺を創建した。徳川家の武運長久を祈願して長久山と名付けたという。五代日達上人の時に寺領が没収されたのだが、六代目住上人が東奔西走してその大半を取り戻している。

道路から参道が山門に伸びている。参道脇、山門前には1811年 (文化8年) の題目碑、1827年 (文政10年) の宝篋印塔などが残っている。

明治時代半ばには、火災により堂宇ことごとく焼失したが、1905年 (明治38年) には山門も再建されている。

本堂も火災により1900年 (明治33年)にを再建されている。本堂横には客殿、寺のとなりの道路沿いには本師堂が建てられている。

境内は綺麗に整備された庭園になっているその中に本堂手前には享保年間に造られた板碑形題目碑が建っている。

寺の隣は墓地になっており、妙安寺歴代墓所、畜生界供養塔などがあった。


兎月園通り

前回 (7月16日) に石神井台の三宝寺を訪れた際に勝海舟の屋敷にあったという長屋門が移設されていたが、この長屋門はまずはここのにあった兎月園に移設され正門として使われていた。この正門はこの兎月園通りに面しており、通りはサクラ並木で、春になると花見の人で賑わっていたという。昔はもっと賑やかで商店があったのだろうが、現在では商店はほとんどなく、住宅街になっている。


兎月園跡

兎月園通りに面して西側に兎月園があったという。大正10年に貿易商の花岡知爾 (ともちか) が、妙安寺の寺領1万坪を借りて華族や富裕層向けの会員制施設の成増農園という貸農場を始め、区画に分け貸していた。成増農園は盛況だったので来園者に食事を取る料亭を造り兎月園となった。その他、浴場、ラグビー早明戦も行われたグラウンド、映画館、動物舎などの行楽施設を増設していった。相撲やボクシング、芝居の興行も行われ、当時は豊島園と張り合っていたそうで、桜、つつじ、菖蒲、藤等の花見や、遠足や行楽客でにぎわっていたそうだ。

太平洋戦争が激しくなり、兎月園は客足が遠のき、経営困難となり、1943年 (昭和18年) に閉園してしまった。池があった付近の谷間は明電舎の成増アパートなどが建設され、運動場や農園は1947年 (昭22年) に豊渓中学校となっている。


どんぶり坂

兎月園があった西側に北から南に下る急勾配の坂道がある。どんぶり坂と呼ばれる。豊島園の外側にもどんぶり坂があった。兎月園と豊島園はライバル関係だったので、対抗して双方にどんぶり坂があるのか? どちらも降って登るどんぶり状の坂道で、こちらの方が距離が長い。

このあたりは起伏があり、兎月園はその起伏を利用して造られていた。下の図の様に兎月園には白子川の支流を利用して池が造られていた。この池からこの水路を通り、湧水は現在の光が丘公園にかつてあったお玉ケ池に流れ込んでいたそうだが、1943年に陸軍成増飛行場建設により、於玉ヶ池は谷ごと埋め立てられてしまった。


水路敷

兎月園通りを南に進み、豊渓中学校のあたりで、兎月園通りの東に一本並行して走る細い道がある。ここは板橋区との境界線になる。ここは先に触れた、かつての白子川の支流の水路跡で湧水が流れていた。現在は暗渠化されており、当時の面影は失われている。この水路敷はかつての兎月園の池 (写真右下) からはじまり、兎月園通りと交差 (左下) して、現在は細い暗渠化された遊歩道 (右上、右中) になっている川筋を流れ、光が丘公園 (左上) にあった池に流れ込んでいた。水路は谷間を流れていたようで、道の両側は登り坂 (左中) になっている。


上練馬公園

水路敷の西、妙安寺のすぐ南に上練馬公園がある。兎月園の谷筋にあたる。

公園の中に丸彫聖観音像立像廻国供養塔が置かれていた。1728年 (享保13年) に現在の光が丘公園内のはんの木緑地あたりにあった稲荷神社敷地内に土支田八丁堀村の村民により造立され、成増飛行場建設の際に移設されている。角柱型の石塔の蓮台に丸彫りの観音像が立っている。石塔の正面中央には「六十六部供養佛」と刻まれているので六十六部供養塔として建てられたものだろう。資料では供養塔の脇に1728年 (享保13年) に造られた稲荷神社の小祠があるとなっていたが、そのようなものは見当たらなかった。どこかに移設されたのが、取り壊されたにだろうか?この後に、はんの木緑地近くにあった庚申塔と馬頭観音を探しに行った。庚申塔は既に池淵史跡公園に移設されており馬頭観音を探したが見つからず。情報を探していると、庚申塔の奥に稲荷神社があったという記述が見つかった。この稲荷神社も見当たらなかった。この上練馬公園にあったという稲荷神社の小さな祠の事かも知れない。


はんの木緑地、花岡養護学校跡

上練馬公園から南に進み光が丘公園の北西端の入口外側にはんの木緑地がある。ここは白子川に向かって開けた谷戸地形になっていて、古来、湧水による湿地帯だった。公園内には金木犀の甘い香りが漂っている。まだまだ、東京は暑いのだが、秋に入ったのだろう。

この辺りには、昭和初期に神田で病院を経営していた花岡和雄 (兎月園を開設した花岡知爾氏の兄) が妙安寺から土地を借り、小学校1年~6年生の虚弱児童の保養と教育を兼ねた定員30名の全寮制施設の花岡学院を開校している。校舎には学習室、娯楽室、診察室、食堂、寝室などが完備されていた。自然環境の良いこの地で子どもたちは健康の回復を図りながら、池のほとりに机を並べて勉強をしたり、林を歩き、近隣に社会見学に出かけ、畑で作物の実習なども行っていた。

太平洋戦争の始まる昭和16年頃には、様々な統制から個人経営が大変困難になり、神田での養護学校建設計画が持ち上がり施設すべてを昭和18年に寄付することになり武蔵健児学園と改称された。戦争が激しくなると、疎開する子どもが増え、事実上閉校となった。戦後は、校舎の建物のあった所は除いて、米軍に接収され、運動場があった一帯はグラントハイツの排水処理場になってしまった。花岡学院の記念碑が昭和18年に立てられたのだが、昭和23年に校舎は競売にかけられ売却された際に、出世稲荷の東にある花岡医院に移されているそうだ。


 

庚申塔 (94番)、馬頭観音塔 (未登録) 旭町2-9

はんの木緑地の西側に建つマンションの一画に小堂があり、そこに庚申塔と馬頭観音が置かれているとの情報があったが、庚申塔 (94番) は先に訪れた石神井町の池淵史跡公園に移設されていた。移設されたという事で、小堂が取り払われた可能性が高い。馬頭観音がどこかに移設されたのかは不明だ。馬頭観音は残っているかと思い、情報の写真を頼りに探すがやはり見つからなかった。

庚申塔は1696年 (元禄9年) に造立された唐破風笠付角柱に日月雲と邪鬼を踏みつけた合掌型六臂の青面金剛像が浮き彫りされている。馬頭観音は1881年 (明治14年) に造られた方形文字型だそうだ。写真左が情報にあった小堂の庚申塔と馬頭観音で、右が池淵史跡公園に移設された庚申塔。


牛房新宅

これで今日の旭町の予定していた史跡やスポットは訪問を終えた。これから東大泉に移動する。その道の途中に古い立派な屋敷があった。牛房 (ごぼう) 新宅と書かれていた。この古民家の前の道は牛蒡通りという。先程訪れたはんの木公園の入り口が「牛蒡口」交差点だった。この辺りは牛蒡地区と呼ばれていた。中心地は和光市にあり、ここは和光市との境なので、牛蒡地区が旭町まで伸びていたのだ。



以下の史跡は2023年1月18日と7月17日に訪問している。写真はその際に撮ったもので、木々の葉は落ちている。


仲台寺

旭町の南の端、光が丘公園の西側には浄土宗の称念山一心院仲台寺がある。仲台寺は室町時代の末期、天文年間 (1532〜54) の初期、称念上人 (三蓮社縁譽上人吟翁称念大和尚) によって武蔵国豊島郡田端村 (現在の北区田端) に開創された。称念上人は1513年 (永正10年) に江戸品川に生まれ、8歳の時増上寺で剃髪し、宗戒両脈を相承、16歳で岩付浄安寺 (岩槻市) の住職となり、俗塵をさけ、仏利を守って、念仏修行に徹した高僧。1536年 (天文5年) に天智庵を法弟に譲り、1544年 (天文13年) に西国へ巡錫に旅立ち、1554年 (天文23年) に京都の一心院で逝去している。仲台寺が草創されたのは、天智庵を辞した1536年 (天文5年) 頃と考えられている。まだこの頃は

寺周辺は、樹々が鬱蒼と茂る武蔵野特有の丘陵地帯の緑濃い閑寂の地だった。周囲が次第に開拓されていくのは、約100年後の寛永年間 (1624〜43年) 以降になる。江戸時代になり、

堂宇を建立して寺容を整え、称念山一心院と号している。1615年 (元和元年) の宗教統制策である諸宗諸本山諸法度により、仲台寺は増上寺の末寺となっている。1868年 (慶応4年) に幕府崩壊で明治新政府が樹立された後、神仏分離令により、境内地を上地されている。その後、一時期は衰退していたが、日露戦争 (1905年) の後は庶民信仰が隆昌し、仲台寺は「田端のおえんまさま」と呼ばれ、毎年1月と盆の16日の閻魔の斎日には、門前に市がたつほど賑わっていたという。1945年 (昭和20年) の空襲により、仲台寺は本堂をはじめ諸堂宇のことごとくを焼失し、1961年 (昭和36年) に旧地を滝野川第七小学校の校地として提供し、現在地へ移転している。

現在の本堂は昭和62年に建てられ、伝教大師 (最澄、日本天台宗の祖) の作と伝えられる阿弥陀如来像を本尊として祀っている。この阿弥陀如来像は、田端に寺があった時代、仲台寺には一度も落雷することが無かったことから雷除阿弥陀と呼ばれるようになったそうだ。


庚申塔 (93番) 

仲台寺の参道に入ってすぐの左脇に1779年 (安永8年) の宝篋印塔、横には二基の舟形光背型の石仏、さらに奥には三基の石塔が立っている。その内の一つが1668年 (寛文8年) 造立された舟形庚申塔 (93番) になる。庚申塔の多くは青面金剛像が浮き彫りされているのだが、この庚申塔には二臂如意輪観音が浮き彫りされているもので、珍しい。塔の台座に三猿が浮き彫りされ、庚申と刻まれていなければ庚申塔とは分からない。通常、庚申塔には青面金剛は病魔・病鬼を払い除くといわれるので、シュケラ (悪鬼) を踏みつけた像が彫られているのはわかるのだが、何故、如意輪観音になったのかに興味が湧いたが、その理由は不明。調べると天帝、猿田彦や馬頭観音が彫られているものもあるそうだが、まだお目にかかった事はない。

境内の壁沿いには地蔵尊、観音像などの石仏が何基も並べられている。


本覚寺

仲台寺の道を挟んだ所にも寺がある。日蓮宗寺院の雑司谷法明寺末の法光山本覚寺で、創建の時代は詳かではないが、江戸時代初期、日円上人 (1617年 元和3年没) が開山 (寺では日栄上人 1642年 寛永19年没と伝わる)、法光院常蓮 (小島兵庫、1597年 慶長元年没)が開基となり創建したと伝わっている。江戸時代には北野神社の別当寺だった。練馬にあるのだが、浅草方面の人達を中心とした講中があり、当時は江戸市民の厚い信仰を集めていた。門前には1773年 (安永2年) に江戸下町の講中と土支田村の人びとによって建立された日蓮聖人五百遠忌題目碑 (写真右下) が建てられ、寄進者の中に御殿女中らしい名も見られ、信仰の層の広さがうかがえる。本堂内には室町時代の作と伝えられる天眼願満日蓮大菩薩像 (右中) が安置され、江戸市中から信仰をあつめていた。


北野神社

本覚寺本堂の隣には北野神社 (天満宮) の社殿が建っている。この北野神社の創立年代不詳だが、康平年間 (1058-1065年) 頃に始まったと伝えられている。その後、本覚寺の開基であった旧土支田村下組名主の小島家が本覚寺創建と同じ頃に鬼門除けとして建立したと伝わり、後に村人から上田柄の氏神として「八丁堀の天神様」と呼ばれ崇敬をあつめていた。幕末までは本覚寺が別当の天神社だったが、明治の神仏分離で北野神社と称するようになった。今でも神仏習合時代の名残で本覚寺の境内に祀られている。社殿は1965年 (昭和40年) に改築されたもの。境内への参道の鳥居の横には1846年 (弘化3年) の題目塔 (写真右上、右下) があり、安政大地震で倒れたのをこの場所に移転したものだそうだ。社殿内には菅原道真像 (写真下中) が祀られている。

境内には末社として法光稲荷神社、東照大権現、鬼子母神を祀る祠があり、稲荷社前には力石が残っている。

境内には1901年 (明治34年) 造の水盤、1910年 (明治43年) の征露記念碑が置かれていた。


馬頭観音 (未登録)

環八、笹目通りに出た際に馬頭観音を偶然見つけた。駐車場の一画に石を敷き詰めて大切に保存されている。方形文字型で馬頭観世音と刻まれている。資料にはこの馬頭観音は登録されていなかった。



参考文献

  • 練馬を往く (1983 練馬区教育委員会)
  • 練馬区史跡散歩 (1993 江幡潤)
  • 練馬区の文化財 指定文化財編 (2016 練馬区地域文化部)
  • 練馬区史 歴史編 (1982 練馬区)
  • 練馬区史 現勢編 (1981 練馬区)
  • 練馬の寺院 三訂版 [郷土史シリーズ 3-4] (2004 練馬区教育委員会)
  • 練馬の神社 三訂版 [郷土史シリーズ 5] (2006 練馬区教育委員会生涯学習部)