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オトーサンの甥(日本の劇戯曲賞2021最終候補作品)

2023.07.12 07:46

戯曲「オトーサンの甥」   広島友好

※「日本の劇」戯曲賞2021最終候補作品……をさらに改稿しています。


 ある日、男と妻の家に甥が来る。

 甥は派遣の仕事をクビになり泊まる所もないという。

 兄と縁を切っていた男は、迷惑に感じながらも甥を泊める。

 一方甥は、ハローワークで仕事を探していると言いながら、男の家に居座る気配。妻はそれを不安に感じる。

 義肢装具士である男は、自分の職場でパートとして働かないかと、甥を誘う。甥もやる気を見せる。

 ある日、男が出張中に、甥は、自分を疎んじる男の妻に、「おじさんは、離婚したばかりのぼくの母に、よく会いに来てたんです」と告げる。

 甥に親身な男に対し、妻の心の中で疑念が膨らむ。

 父に棄てられ、父を棄てる。不条理劇テイストの作品。

 未上演作品(2023年7月現在)。男2・女1。70分。



オトーサンの甥

               作・広島友好


   ○時…現在。

   ○所…男と妻の家。その居間。

   ○登場人物

   男

   妻

   甥



   男と妻の家。その居間。

   居間にカバンがポツンと置いてある。大型のショルダーバッグ。使い古されている。

   いったん溶暗。…………

   明かり入ると、そこに妻。カバンをじっと見ている。…………

   男、来る。仕事帰り。

男  おい、いいことがあったんだ。いや困ったことかな。あした、あさっての、今度の出張。東京の。研修会で急に話をすることになったんだ。ハッ、社長も人が悪いよ。推薦してくれてるなら、そう言ってくれればいいのに。――ん? どうしたんだ?

妻  家に置いてあったんです。カバンが。戻ってみたら。父の所から。

男  おまえのじゃないのか?

妻  これが? なぜ? ちがいますよ。よく匂ってみたけど。

男  よく匂ってみたのか。どんな風に?

妻  どんな風にって。クンクン、クンクンって。クンクン、クンクンって。

男  よく鼻を近づけて?

妻  ええ。警察犬みたいに。クンクン、クンクンって。でもわたしのじゃありません。

男  じゃ、おれのか? クンクン、クンクン。

妻  もちろんあなたのでもありませんでした。

妻  あなたの甥っ子て人が来てるんです。

男  甥? どこに?

妻  荷物置いてちょっと出てったの、その辺に。

男  その辺?

妻  コンビニかなんかに。

男  甥なんていたかなァ。フム。いるにはいたが、ずいぶん会ってない。

妻  お義兄さんの子ども?

男  たぶん。甥っていうんなら。小さいころ会ったっきりだ。え? いくつなの? 年?

妻  さあ。二十代か三十代。

男  兄貴とも付き合いないしなァ。フン。ずいぶん迷惑かけられたもの。

妻  泊めてくれって言ってるんです。

男  だれが?

妻  その人が。あなたの甥っ子が。

男  うちに? 困るなァ。他人みたいなもんなんだよ。

妻  他人でもよく似てるんです、あの人に。

男  兄貴に?

妻  いいえ、お義姉さん。よく似てるあの人に。ドキッてしちゃった。眉の辺りが、そっくり。

男  おまえ……、嫌ってたね、義姉さん。

妻  そんなことないわ。ずいぶん会ってないもの忘れてたわ。どうしてそう思うの?

男  ……。

   甥、来る。

甥  ああ、おじさん。

男  おまえか。

妻  (小声で)やっぱり、あなたの……?

男  フム。そうらしい……。

甥  しばらく置いてもらえませんか? 前の所いられなくなったんです。鍵取り替えられて部屋を追い出されたんです。荷物捨てられてるだろうなァきっと。これ(カバン)がぼくの全財産です。

男  追い出されたって、どうして?

甥  契約が切れたんです。ゴミみたいに寮から追い出されたんです。組立工場で働いてたんだけど、ポイですよ、ポイ。朝八時から夜八時まで、タコの足みたいな、タニシの渦巻きみたいな、パーツとパーツ組み合わせてたんだけど。なにをつくってるのか、ぼくにはさっぱりでした。まじめに働いてたんです、まじめに。でもポイですよ、ポイ。もしよければ次の仕事が決まるまで置いてほしいんです。一晩だけでいいんです。あしたには出ていきますから。ね、おじさん。

妻  あなた。(目配せ)

男  (妻と顔を見合わせ、甥の話を逸らし)しかし大きくなったなァ。他人みたいだ。や、どことなく義姉さんの面影が。

妻  いいえ、そっくりよ。(甥に)ねえ?

甥  ぼくにはわかりません。どうですか? おじさん。似てますか。

男  ああ、そっくりだよ。特に目がね。眉毛かな。

甥  (笑顔)じゃ、そっくりなんだきっと。

男  兄貴は……おとうさんは元気かい?

甥  元気だろうと思います。

男  だろうって……?

甥  どっかで死んでるんじゃないかな……。

男・妻 え?

甥  別々に暮らしてるから。よくわかんないんです。正直なところ。

男  行き来はあるんだろう? あれからも。実の親なんだから。

甥  最近は電話だけです。直接会ってないから。月に一度の電話だけ。それにぼくはあの人に棄てられたんだから。子どものころ。さみしい思いをしたんです。自分のことは自分でやってくれなきゃ……。

男  夕飯ぐらい、どう? (妻に)な、おまえ。

妻  え、ええ……。

男  泊まるって言ってもうちには部屋がないんだよ。残念だけど。ほら、ホテルなら近くにもあるし。

甥  あの奥の部屋は?

妻  え?

甥  奥の部屋、空いてるみたいだったけど。

男  息子の部屋なんだ、大学行ってる。

甥  こっちの?

男  ここは出てるんだがね……。

甥  じゃ、空いてるんでしょ?

男  空いてるには空いてるが。勝手になにしたら、なぁ。

妻  ええ。

男  あいつも怒るだろうから。

甥  ……。

男  そうだったなァ。ぼくがきみぐらいのころ、いやもっと若かったかな、学校通ってたころにきみのおとうさんの所に居候してた。三人で暮らしてたんだ。

妻  あらそうなの?

男  ふと思い出した。懐かしいなァ。

甥  三人って?

男  兄貴が新婚のところにね。転がり込んで。ぼくと、兄貴と、きみのおかあさんと。

甥  ああ……。

男  下宿が決まるまで取りあえずってことでね。でもずいぶん長く住んでたな、三人で。あのころ兄貴は(大型クレーン車を操作する手つきをする)まともに仕事してた。変な健康食品の商売なんかに手を出さないで。酒も飲んでなかった。ホント、きみのおとうさんには世話になってね。学費も出してもらって、学校行かせてもらった。親を早くに亡くしてね、んで、年が離れてるでしょ、兄貴はぼくの親代わりみたいなもんだった。結局、兄貴に子どもができるまでいたんだ。

甥  それが、ぼくですか?

男  そう……なるのかな?

甥  ……。

男  夕飯なにか食べたいものは?

甥  いいんです。気分が悪いんです、さっきから……。それよりなんです、よかったことって?

男  え?

甥  さっきおじさんが。

妻  そうそう。いいことで……困ってるって。

男  ああ。毎年の。例の。今度の全国の研修会。そこで講師やれって。急に。社長、おれを推薦したんだ。

妻  すごいじゃない。

男  すごいんだけど、あした、あさって、しあさってだよ。一時間十分も話すんだよ、大勢の前で。これ、だれかの埋め合わせだよきっと。

妻  でもすごいことなんでしょ?

男  すごいよ。地方の人間が研修会で話すなんて。社長の推薦なんだけどね。

妻  だったらいいじゃない。

男  いいんだけど。そりゃいいんだけど。だんだん気が重くなってきちゃって。腰が重くなってきちゃったよ。

妻  いつもの?

男  いつもの。

甥  いつものって?

妻  気が重たいことがあると、腰に出ちゃうの、この人。腰が重たくなって、熱まで出てきて。気分のせいでしょ。

男  いやいやそうでも――

   ト甥が突然しゃがみ込む。それはお芝居のように不自然。

甥  ん~~!

妻  あら、どうしたの?

甥  なんでもないんです。ンウッ!

男  大丈夫か。

甥  さっきから我慢してたんだけど。なんだろ。(頭を押さえる)アイタッ、アイタタ……。なんでもないんです。ん~~!(ト額を強くこする) 横になれば治るんです。

男  ひどい熱じゃないか。ン~取りあえず、サトシの部屋に寝るといい。薬飲んで。おい、薬ないか?

妻  でも。

男  仕方ないじゃないか。病気なんだから。

甥  おじさん。いいんですぼくは。すぐ治りますよ。ご迷惑でしょうから。

男  いいよ。泊まってきなさい。

妻  あなた。

甥  でも。

男  いいから。

甥  ホントに? ホントにおじさん? (うれしい)あァッ。あした出ていきますから。あしたにはきっと。仕事決まったら、すぐに。――あぁ、いいです。ひとりで。部屋わかりますから。

   甥、ひとりで奥の部屋へ。カバンはそのまま。

妻  いいんですか? 泊めちゃって。

男  仕方ないだろ。あんなんじゃ。追い出すわけにも。甥っ子なんだから。

妻  あなたほとんど他人だって。

男  ……。

妻  またお義兄さんとの付き合いがぶり返したらどうするの……。

男  ならないよそんなことには。

妻  急に押しかけてきて、酒飲んで。結局お金返してもらってないんでしょ? ホントよく似てるわ。

男  ……。

甥の声 おじさんちょっと。すみません。寒いんです。背中が。とっても。毛布を下さい。毛布を。おじさん。おじさん。

妻  呼んでるわよ。地獄の底からみたいに。

男  よせよ、変な冗談。

妻  ……。

甥の声 おじさん。おじさん。

   男、奥の部屋へ行く。

   妻、それをじっと見送る。…………

   音楽。

妻  (独白)ひとり、旅をしたことがない。戻ってこれない気がして。散歩だって苦手。目的も決めずにブラブラ歩いてるうちに、知らない町にたどり着いていそうで。同じように見える町だけど、どこかがちがってしまっている町に。例えば駅前のベンチのそばに。例えば薬屋の軒下に。例えば岬の端に。ポツンと立っているわたし……。

   男、来る。仕事帰り。(一日経過)

男  やっぱりやめようかな、おれ。講義なんて。メーカーの人間がやればいいんだよ。結局は新製品の宣伝みたいなもんなんだから。そりゃ何度か使わせてもらったよ。感謝してるよ。勉強にもなった。でもそれはそれだよ。おれなんかが話しなくても。

妻  置いてあるんです。荷物が。

男  え? 置いてあるだろうさ。だれも動かしてないんだから。

妻  でもきょう出ていくって言ったんですよ、あの人。今朝うちを出るとき、さよならしたんです。あなたもしたでしょ、さよなら。

男  ああ。

妻  わたしてっきりそれっきりだと。これっきり荷物持って出ていったもんだと、あの人。

男  あの人なんて言い方よせよ。

妻  また戻ってくる気よ。これ。

男  仕事見つけるまでって言ってたからな。

妻  そんな悠長なこと。

男  悠長って。

妻  あした? あさって? 人が好いんだから。

男  ……。

妻  これじゃ出るに出られない。

男  え?

妻  家空けて出られないって言ったんです。また騒ぎを起こしたの、父が。

男  お義父さん? またなにか?

妻  ゴミ出しを間違ってたのよ、また。

男  ……。

妻  プラスチックの日に生ゴミ出して。それほっぱらかしにして。前にも注意されてたのに。

男  ……。

妻  なんだって、顔した。

男  え?

妻  なんだそのぐらいって。ゴミぐらいなんだって。

男  してないよ。

妻  それだけじゃないんです。回覧板は回さないし。町内会費は溜め込むし。溝普請の日は忘れてるし。磁気マットレスだって買わされてたでしょ!

男  行けばいいじゃないか、お義父さんのとこ。一日家にいなくても。そんなに心配なら。

妻  タンス覗いてたんです。

男  え?

妻  わたしの下着を。アアッいやらしい。

男  え? なに突然。

妻  あの人、タンスを覗いてたんです。わたしの下着を。

男  あの子が? (半ば笑って)ハ。おまえの下着を? 気のせいじゃないのか?

妻  下着の段なんですよ、引き出し。

男  間違いじゃないのか。いくらなんでも……

妻  だったらお金かしら?

男  まさか。あの子がそんなことするはずない。

妻  ……かばうんですね。他人みたいだって言ってたのに。フン。それとも他人じゃないのかしら。

男  なに言ってんだよ。人を疑うのは良くないって話だよ。

妻  不審者が出たんです。

男  え?

妻  事件があったんですきょう。ちょっとした。防犯メールが来たんです。小三の女の子が通りすがりの男に変なことされそうになったって。公衆トイレに引っ張り込まれそうになったって。

男  それが、なにか関係あるの?

妻  似てるの、容貌が。容姿が。その不審者と。中肉中背で、二十代から三十代の男。どこにでもある顔形だと。

男  そんな人間いっぱいいるよ。

妻  特徴のないのが、特徴なのよ。こういう事件の。

男  バカらしい。

妻  じゃ、あなた開けてみて。

男  え? なにを?

妻  カバン。

男  え?

妻  なにもなければ、わたし謝るわ。でもわたしの下着が入ってるかも。あるいはお金が。

男  んなバカな。できないよ。

妻  チェックしてあるの。諭吉に。

男  諭吉?

妻  福沢諭吉の顔にホクロ入れてあるの。わたし、自分のお金に。

男  (ハッとして自分の財布から一万円札を出し、確かめる)おまえいつもこんなことしてるの?

妻  なんにもなければそれでいいんだから。開けてみて。

男  でも。

妻  いいから。

男  おまえが開けてみろよ。

妻  イヤですよ。他人なんだからわたしは。血が繋がってないんだから。もしバレたら大変なことになります。あなたは血が繋がってるんだから、もし見つかっても、ちょっとな、なにしてたんだ。てなこと言えばいいんだから。ちょっとな、なにしてたんだ、って。それでも心配なら、その一万円札をカバンに入れてやる振りをすればいいんですから。ね。

男  ね、って。

妻  いいから。

男  ……。

妻  さ。帰ってくるかもよ。グズグズしてると。

   男、甥のカバンを開けてみる。中から輪ゴムに止められた大量の薬の束が出てくる。

男  なんだこりゃ。

妻  薬? なんの薬?

   甥、外から戻ってくる。

   男、慌てて薬をカバンに戻す。

甥  一日中探し回りましたよ、仕事を。足が棒です。ぼくはダメな人間だなァ。学歴がない。特別な技術もない。失業保険もない。貯金もない。午前中はハローワークへ行ってたんです。相談に乗ってもらえましたよ。五分かそこらでしたけど。でも住所がないとダメなんだなァ。ヒットしないんです、全然。パソコンで検索しても。まるでヒットしないんです。最低大卒。有資格者。条件が当てはまらない。正規の求人がないんです。タコタコタコタコタコタコタコタコ。二十四打数レイ安打――。夕ご飯はなんですか。それだけが楽しみなんです。それだけが。ねえ、おばさん、夕ご飯はなんですか。

妻  一応、サバの味噌煮だけど。

甥  ぼくはカレイが好きなんだけどな。端の、ほら、骨がいっぱい並んでる所をほぐして食べるのが好きなんです。

妻  きょうはサバの味噌煮……。

甥  あぁ、そうですか……。

男  あのね、うちで働かないか?

甥・妻 え?

男  うちの会社で。社長にそれとなく話してみたんだ。人いらないかって。

妻  社長さんに?

甥  なにしてるんです、おじさん? 仕事は?

男  PO(ピーオー)。義肢装具士さ。

甥  ギシソーグシ。ギシソーグシ? なんですそれ?

男  ん~、ほら、事故やなんかで手足のなくなった人に義手や義足を作ったり、コルセットやなんかの装具を作ったり。

甥  手足を作る仕事ですか。

男  手足を……作る……ん~まあ、そんなもんだ。

甥  素晴らしい仕事ですね。うん。手足がなきゃ働けないもの。

男  ああ……。

甥  そんな仕事があるんですね。ヘ~~。ン。そりゃそうだ。だれかがそれをやらなきゃ。手足のない人、困るもの。そうですか。おじさんが、そんな仕事を。

男  おまえは器用だったし、兄貴に似て。初めは取りあえず見習いだけど。装具を作るだけだけど。

甥  なんです、作るだけって?

男  資格がいるんだよ、本格的にやるには。義足の型取りしたり、ドクターと打ち合わせたり。経験もいるし。でも、まあ、取りあえずは。

甥  ……。

男  ちょうどパートが辞めたんだ。どう? やってみるか?

甥  ……やってみようかな。ええ。よろしくお願いします。

男  そうか。

妻  よかったわね。

甥  じゃ、ちょっと出てきます。

男  え? どこへ?

甥  どこって。本屋へ。福祉の本を買ってきます。ぼく全然知らないんです。福祉のこと。ギシソーグシのこと。なんにも。そんなんじゃ面接しても。

男  ああ……。

甥  じゃ、ちょっと。

男  あ。福祉じゃないんだ。医療になるんだ。義肢装具士は。

甥  医療に? 福祉じゃなくて。

男  福祉でもあるんだけど。それに、本ならうちにも。

甥  ああ、でも。

妻  なに?

甥  専門的な本なんでしょ?

男  そりゃあ。

甥  ん~~。

男  まぁ……、うん。いいけど。

甥  ……じゃ。

   甥、出かけようとする。が、踵を返し、

甥  あ、おじさん。

男  なんだ?

甥  言いにくいんですけど。

男  なに?

甥  その……

男  なに?

甥  手持ちが……ちょっと……

男  手持ち……? ああ、お金か。

妻  だったら、本はうちで……

男  いいよ。うん。やる気が出たんだから。ね。(財布から一万円札…ホクロ入りの諭吉…を取り出して渡して)よく選んで。

甥  ありがとうございます。必ず返しますから。

   甥、出ていく。口笛を吹いて。

男  盗ってないよ、あの子は。

妻  え?

男  タンスから、お金なんて。

妻  ……。

男  だって持ってないんだもの。本を買うお金も。

妻  持ってるのよ。

男  え?

妻  持ってるけど、くれって言ったのかも。

男  人が悪いね、おまえも。いつまでも疑うなんて。

妻  わたしはなにも。

男  ああ、ごめんごめん。

妻  ……。

男  そうだ。準備しなくちゃ、あしたの。やれやれだ。

妻  あの講師? 東京の? 断ったんじゃ?

男  是非にって言うんでね。(腰をグリグリ回しながら)仕方なくだよ。社長もいろいろ考えててくれてるのさ、おれのこと。二泊したら戻ってくるから。……なかなか本当のところなんて話せるもんじゃないさ。オーダーメイドなんだから、義足ってやつは。その人ひとりひとりちがうんだから。一期一会なんだから。東京にはおれより話がうまいやつ、いっぱいいるだろうに。ハぁァ、最先端のやつが。なんか田舎者が恥じさらすようで。

妻  ……。

男  まあ、いいさ。おまえに話してもわからんだろうし。もう寝るよ、準備したら。

妻  あした、何時? 起きるの。

男  ん〜、五時半。六時。

妻  はい……。

   男、奥の部屋に引っ込む。

   妻、独り残る。…………

   妻、じっと立ち尽くしている。

   電話の呼び出し音が……何回も鳴る……。入れ替わるようにゲームセンターの騒がしい賑わいの音……。時が経過する……。

妻  (独白)なんにも手に着かないことがある。急いで大事な用を済ませなきゃいけないのに。町をさまよったり、決断を先延ばししたり。いらない買い物してみたり。(首をコキコキさせ)どこかゴムが伸びきってるみたい。古いパンストのように。あるいは澱(おり)のように疲れがたまって、それがもう体のあちこちを作ってるみたいで。まるでオリ人間。まるでゴム人間。

   甥、来る。

甥  ぼくの部屋、覗きましたね? でしょ、おばさん? 足が棒なんです。早くベッドに横になりたいのに。おちおち眠ってもいられない。

妻  あなたの部屋じゃないわ。あれはサトシの部屋。

甥  サトシ?

妻  ええ、サトシの部屋よ。

甥  サトシとサトル。一字違いだ、ぼくの名前と。おじさん、なんでそんな似たような名前付けたのかな?

妻  たまたまでしょ。

甥  たまたまなのかなァ……。

妻  ……。

甥  あァ、足が棒だ。クタクタなんです。ボロ雑巾。ドロ饅頭。早くベッドに横になりたい。

   甥、部屋に行こうとする。

妻  本当にハローワークへ行ってたの?

甥  え?

妻  御影町(みかげちょう)のゲームセンターじゃないの?

甥  え?

妻  見かけたの。UFOキャッチャーやってるところ。熱心に。一時間ぐらいかしら。ホクロ付きの諭吉を両替して。百円玉いっぱい積み上げて。なにが楽しいのかしら。ドラえもん一つ取れないで。

甥  なんで知ってるんです?

妻  え? なに?

甥  フン。だって。

妻  た、たまたま通りかかったのよ。ゲームセンターの前を。用事があって。

甥  たまたま……一時間もぼくを見張ってたんですか。

妻  そろそろ荷物どけてもらえないかしら? 邪魔で邪魔で。掃除するにも。

甥  動かしたくないんです。

妻  どうして?

甥  骨が入ってるんです。動かすとカラコロと音がするんです。カラコロ、カラコロ。

妻  そんな。骨なんて入ってないじゃない。

甥  そうか。見たんでしたね……。

妻  ……。

甥  だったら絶望が入ってるんです。いや空っぽなんですよ。ぼくとおんなじ。空っぽの絶望なんです。

妻  思わせぶりなこと言って、煙に巻こうとして……。

甥  じゃ、ちがうこと言います。

妻  なに?

甥  おばさん。ぼくのこと疑ってるでしょ?

妻  え?

甥  あの女の子を襲った通り魔事件、ぼくじゃないかって。

妻  そんなこと……ないわよ。

甥  ぼくはおじさんを心配してるんです。

妻  え?

甥  やったのは、おじさんじゃないですか?

妻  なに言ってるの。

甥  昔聞いたことがあるんです。

妻  なにを? あの人から?

甥  いえ、ぼくの父から。おじさんが若いころ、その……、やっぱりちょっと言いにくいな。

妻  いいから言って。

甥  ショック受けません?

妻  いいから。

甥  ……おじさんが若いころ、うちの父と一緒に住んでたころ、女の子にイタズラして、ちょっとした事件になったって。父が先方に頭を下げてウヤムヤに終わったそうですけど、ウヤムヤに……。あいつのことが心配だ心配だって、父はよくムヤウヤムヤウヤ……

妻  ウソよ。あの人……、そんなこと……、ないわ絶対……。そんな趣味……。

甥  ウン。そうですよね。そうでしたそうでした。

妻  なによ、変な言い方。

甥  思い出したんです。おじさんよくぼくのうちに来てたんです。ぼくの母が好きだったんです。大人の女性が。だからそんな、女の子にイタズラするような、変な趣味は……

妻  なによ、それ?

甥  毎週水曜の午後に母に会いに来てたんです。おじさんはぼくにもとってもやさしかった。実の子どもみたいによくしてくれた。子ども好きなだけなんですよ。だから、ちょっと女の子に声をかけた……んで、親しく口きくうちに、ちょっと魔が差して、女の子にムヤウヤムヤウヤ……あれ?

妻  あの人、あなたの家にちょくちょく行ってたの?

甥  ええ。ちょくちょく。うれしかったなァ。母と二人っきりだったから。おじさんに親切にしてもらって。

妻  あなたのおかあさんに会いに?

甥  母とぼくに。母も楽しみにしてました。薄化粧してたもんな。ぼくもおじさんに――、そうそう。ザリガニ捕りに連れてってもらった。おじさん、ザリガニ捕るの上手なんです。ザリガニ捕りの名人なんです。――あれ、待って。それって、おじさんだったかなァ。おとうさんだったかなァ……。

   遠く、ボチャンとザリガニが水をはねる音…………

妻  いつごろのこと?

甥  え?

妻  あの人が、あなたのうちへ行ってたのは?

甥  母と父が離婚した後、しばらく。きっと離婚してどうなったか心配だったんでしょ、ぼくのことが。――ン。安心して下さい。

妻  え?

甥  おじさんは犯人じゃない。勘違いだぼくの。

妻  あの人、あなたのおかあさんに……

甥  ……。

妻  今、どうしてらっしゃるの?

甥  やだな。死にましたよ。もう、何年になるだろ。

妻  そうだったわね……。綺麗な人だった。笑顔の素敵な。

甥  知ってるんですか、母を?

妻  もちろんよ。写真見たことあるの。あなたに眉がよく似てる。

甥  写真を? 母の?

妻  あの人の手帖に挟んであった。まるでセピア色の宝物のように。大事に。そっと。

甥  似てないな。全然。おばさんは。

妻  え?

甥  ぼくの母に。

妻  当たり前じゃない。ちがう人間なんだもの。

甥  でも。男って、同じようなタイプの女性を選ぶもんでしょ。

妻  ……。

甥  だから。

妻  ……。

   「ただいま」。男、帰ってくる。出張から。お土産を持って。

男  (無理してなんだか笑いつつ)ハハハ。なんだか羽田が込んじゃっててね。霧の関係で。もうびっくりしたよ。空港がモヤってるんだもの。(甥に)ああ、いたのか。お土産だよ。東京バナナ。ハハ。(お土産の箱をひっくり返して)バナナ東京、なんちゃって。ハハハハ。

妻  ……。

男  (妻に)あ。おまえは甘いのダメだったな。どうしてだろ、小さい女の子が喜びそうな物買ってきちゃって。ホントどうしてだろ。ハハハ。

妻  小さい女の子……。

   妻、男をじっと見てしまう。

男  なに? (顔に)なにか付いてる?

妻  遅かったですね、予定より。ずっと待ってたのに。昼前には帰ってくるって。

男  だからそれが、羽田がね。

妻  連絡ぐらい入れてくれたら。

男  そうだったんだけど。

妻  なにかあったんですか?

男  だから羽田が……

妻  顔見ればわかりますよ、わたしは。夫婦なんだから。たいした夫婦じゃなくても。

男  ……あんましうまくいかなかったんだ。

妻  研修会?

男  他になにがあるっての。機械の、プロジェクターの調子は悪いし、会場も冷たい雰囲気だし。話、下手なんだよおれ。そりゃ、一対一はいいよ。自分でもソツなくやるよ。でも大勢の前だと、アワアワしちゃって。アワアワ、アワアワ。ひとりひとりなんだから、こういう仕事は。ひとりひとりに対してなんだから。

妻  資料用意してたんでしょ?

男  レジメも資料も揃えたよ。目の前に持ってたよ。でもなァ、頭真っ白くなっちゃって。ダメなのかな人間が、ここ一番ってときに。

妻  そんなことないわよ。

男  飯にしてくれよ。

妻  あなた、悪いんだけど、ちょっと話が――

男  こうしちゃいられないんだった。オヤジさんのとこへ行かなきゃ。

妻  今から、報告?

男  それもあるけど、サトルのことさ。

妻  サトル?

甥  ぼくですか?

男  社長に話したんだ、サトルのこと。したら、すぐ連れて来いって。だから、飯食ったらすぐ。人を見て決めるって言うんだ、社長。ああ見えて、慎重だからね。ま、おまえの親類なら大丈夫だろうって。

妻  あなた。

男  飯の用意してくれよ。ペコペコなんだ。羽田で食べてくりゃよかったかな。

妻  あなた。

男  なんだよ。

妻  きょうは早く帰ってくるからって、待ってたんです。

男  だから、羽田が。

妻  それはわかりました。

男  だったら。

妻  ボヤを、出したんです。

男  え?

妻  ボケが、ボヤを。

男  なに言ってるの?

妻  ボケた父が、火事を起こしたんです。

男  お義父さんが?

妻  幸い大事には至らなかったんですけど。

男  その、怪我は? 家燃えたの?

妻  火傷を少し。煙も吸って。心臓悪いのに。家も、寝室の天井と畳が。

男  そう……。お義父さんは、今……?

妻  取り合えず病院に。

男  ……。

妻  わたし何度も帰ろうって言いましたよね。帰りたいって。父と一緒に暮らしたいって。

男  ……。

妻  待ってたのに。あなたの帰りを。

男  待ってないで、行けばいいじゃないか。火事なんだから。

妻  行きますよ、今から。言われなくても。今行こう、今行こうって、ずっと待ってたんじゃないですか、あなたを!

男  ……。

妻  ご飯は……

男  いいよ。なんとかするから。

妻  じゃ、すみません……。サバの味噌煮を……残り物で……

男  いいから。……気をつけて、な。

   妻、出ていく。

甥  更年期ですかね。なんだかキリキリして。

男  ……。早速で悪いけど、社長に会いに行こう。

甥  今から?

男  自宅の方へ。待ってるだろうから。

甥  疲れてるでしょ。出張から帰ったばかりで。

男  いいんだよ。いつでも疲れてるんだから。おまえのことなんだから。

甥  おじさん――。おじさんはぼくの母が好きだったんでしょ?

男  え?

甥  だからぼくのこと、こんなに面倒見てくれる。

男  そんなんじゃないよ。

甥  ぼくが、母と似てるから。そうでしょ? おばさんがそう言ってた。ぼくは母に似てるって。生き写しだって。

男  ……。

甥  でも、ぼくは思うんです。ぼくは、おじさんと似てるんじゃないかって。

   間。

男  謝らなきゃ――、謝らなきゃいけないことがあったんだ。きみの……おとうさんに。

甥  どんな……?

男  ……。(固く沈黙する)

甥  迷惑かけたんでしょうね。

男  え?

甥  父は。おじさんも保証人になってたんでしょ、借金の? 聞きました。

男  ああ……。フッ。勝手に連帯保証人の判押されててね。

甥  仕事クビになって体壊してからは、おかしな商売ばかり。水売ったり。健康食品売ったり。高麗人参茶。猿の腰掛け。レイシ。そもそもなにがきっかけだったんだろ、あんなになった?

男  ――。

甥  (底の抜けたような溜息)ハぁァァ。保証人になってるんですぼくも。連帯保証人。押しかけて来るんです、ぼくの所へも。借金取りが。ハぁァ。父に一万二万貸したのが、今度は五万十万貸してくれ。こうですからね。縁でも切らなきゃやってけませんよ。おじさんは縁を切って清々でしょうね。ホントいいよな。ぼくは縁を切れないもの。親子は縁を切れないもの。アぁア、バカみたいだ。

男  おれだってまだ払いが残ってるよ。

甥  ああ、すみません……。

男  とにかく。今はいいから。出かけよう。

甥  そうですね。まず仕事見つけなきゃ。ぼくも立ち直らなきゃ。

男  そうだよ。……兄貴のことはまた兄貴のこととして……。

甥  ……。

   男と甥、出かけようとする。

甥  あれ、おじさんでしたっけ?

男  え?

甥  どっちだったんです? ザリガニ捕りの名人は?

男  なに、急に?

甥  ヤ、どっちだったのかなと思って……。父ですか? おじさんですか? ザリガニ捕りの名人は?

男  なんでまた?

甥  父にもいいところがあったのかなって……。

男  ……。

甥  ……いいんですけど。

男  どっちもだよ……。

   男と甥、出かけてゆく。…………

   妻、帰ってくる。茫然自失。(時が経過している)

妻  (独白)父とは遊んだ記憶がない。たったひとつ、動物園に行った思い出があるだけ。小学校の低学年のころだった。父と二人で、動物園に。象もキリンも覚えてない。トラもライオンも覚えてない。ただ、クジャクだけが頭に残ってる。白いクジャクがなにかに腹立てて、噴水のように羽を広げてわたしに迫ってきた。威嚇するみたいに。覆い被さるみたいに。わたしは綺麗なのと怖いのとで泣き出してしまった。「やれやれ」……父はそうつぶやいてわたしをだっこしてくれた。「やれやれ」。父の腕は強くて、痛かった。ワキガが少し臭かった。「やれやれ」……「やれやれ」。……まだ置いてある。

   妻、カバンをじっと見る。

   甥、部屋から出てくる。ポテトチップスを食べながら……

甥  おばさん、疲れてますね。もっとゆっくりしてくればいいのに。

妻  なに? あなた仕事は? 一緒に働くことになったって。

甥  ええ。おじさんと一緒に、手足を、作ってるんです。すごいですよ。作業場の中に義足がずらりと並んでるんです。腿から下の、膝から下の。右足に左足。子どもの、大人の。大きいの、小さいの。女性用、男性用。骨格だけのも並んでました。サイボーグみたいな、金属の足です。――ハハ、なんだか気持ち悪くなっちゃって。

妻  まだ昼間よ。

甥  きょうはちょっと。早退けしたんです。それだけです。

妻  そう……。

甥  ぼく、嫌いだな動物園。臭いし。なんか物哀しくなって。

妻  え?

甥  クジャクが羽広げたとこなんて見たことないなァ。

妻  なに言ってるの?

甥  あ、いけない。おばさんの独白を勝手に聞いちゃいけないんだった。

妻  ……。

甥  食べます?

妻  いらない。

甥  じゃ。

   甥、奥の部屋に引っ込む。…………

   男、仕事場から急いで帰ってくる。作業着のまま。

男  ハァハァ……。(息が荒れている)

妻  あなた。父は施設に入院させました。それしかなかったんです。気力がなくなって。ボケも進んで。もうそれしかなかったんです。わたしは父を棄てたのかしら――。

男  あのね……あとで話そう……。

妻  わたし田舎へ戻ろうと思います。父の家に。

男  もうちょっと……病院にいればよかったのに……。

妻  そういうことじゃなくて。

男  途中で帰ったんだ。

妻  なに?

男  途中で帰ったんだサトルが。

妻  え?

男  仕事ほっぱらかして。引きこもってるんだ。

妻  出てたんじゃ、仕事に?

男  出てたんだけど。三日続けて早退けしやがって。おれの顔つぶしてくれた。そのたんびに引っ張り出して。

妻  まあ。

男  それになんか言ったらしいんだあいつ、社長に。カンカンだよ、オヤジさん。

   男、甥のいる奥の部屋へゆく。

男の声 サトル。サトル!

   男、甥を引っ張り出してくる。シャツの襟首と腕をつかみ、乱暴に。

甥  痛い。痛い。イタタタ! おじさん、引っ張らないで!

男  せっかく社長が雇ってくれたのに! もう一回謝って――詫び入れて。

甥  イヤだ、イヤだ。ぼくには勤まりません。

男  まだ一週間も経ってないじゃないか。

甥  一週間もいれば十分です。もう無理ですよ。無理なんだ。

男  だったら最初っから――

甥  断ってたら、追い出してたでしょ。おじさんもおばさんも、ぼくを嫌ってる。

男  嫌ってなんかないだろ。だから仕事の世話したんじゃ――

甥  今、どうかしなくちゃいけないんですぼくは。今! ギシソーグシになるには国の資格がいるんじゃないですか。授業料も入学金もバカ高いじゃないですか。三年間学校通って、そのあいだお金どうすればいいんです? この年で、三年間? 生活どうしたら? 第一この町にはギシソーグシの学校ないんでしょ? どっか遠くの町に行かないとないんでしょ? ――無理だよ。

男  あきらめるなよ、簡単に。

甥  おじさんの言いたいことはわかりますよ。石の上にも三年でしょ。この世界は十年やってなんぼだって、そう社長も言ってましたぼくに。だから辛抱するんだよって。

男  その通りだよ。

甥  ダメだぼくには。

男  ……。

甥  ぼくがこうなったのは社会が悪いんです。そういう社会なんです。父に棄てられ、家が貧しくて、まともに高校大学いけなくて。まともに就職したことないんです。だれでもできる仕事ばかり。単純労働ばっか。使い捨て人間です。百円ライター。ホッカイロ。ぼくだって技術身につけたかった。どうにかしたかった。でも学校に行く暇も金もない。技術は身につかないし、学歴もない。父親もいない。いても飲んだくれの借金まみれ。

男  でも――

甥  言いたいことはわかりますよ。がんばればなんとかなる。自分ががんばらなきゃって。夢なんて言ってるときじゃないって。仕事があるだけありがたく思えって。ハッ。そこまで言ってないか。――ぼくにも夢があったんです。犬が好きだったんです。犬のお医者になりたかった。子どものころ、犬飼っててね。野良犬ですよ、ブチのある。そこら辺の。拾ってきて、大事にしてた。でもなんだかわけのわからない病気になって、アワ吹いて死んだんです。毛がまだらに抜け落ちちゃって。お金がなかったもんだから、医者に診せられないで。――おかあさん、ダッグが死んじゃうよ。ダッグが死んじゃうよ。おかあさん、おかあさん、ダッグが……

男  ……。

甥  フン。底が抜けてるんです、ぼくは。人間としての底が。気力が湧いてこない。薬が手放せない。前はこんなじゃなかったけどなァ……。とにかくわかったんです、向いてないのが。ギシソーグシなんて。

男  どうわかったんだ。どう向いてないんだ。おまえ社長になんてったんだ?

甥  だから、……向いてないって……

男  それだけじゃないだろ、おまえ。社長があんなに。えぇ?

甥  ん~~言いにくいなァ、おじさんには。

男  なんだ。いいから言ってみろ。

甥  でも、怒るでしょ。

男  いいから。

妻  怒らないわよ、この人は。

甥  ……人の手足を作る仕事で、お金なんてもらっちゃいけないと思うんです。そう言ったんです、社長に。福祉なんだから、金儲けなんてしちゃ。

男  なにぃ!

甥  ほら、怒るでしょ。だから言うのイヤだったんだ。

男  いいに決まってるからさ。仕事なんだから! これは仕事なんだ。困った人を助ける。

甥  おじさんのこと言ってるんじゃありませんよ。ただぼくは自分の気持ちとして、それが納得できないっていうか。「あなたの足どうしたんですぅ?」、なんて聞けませんよ、ぼくには。人の不幸に向き合うのがつらいんです。強くないし。そんな使命感もない。

男  そんなの、製作だけなら、人に会わなくてもいいんだから。患者さんの型はこっちが取るんだから。

甥  ちがうんです。右の脳で人の役に立つと言いながら、左の脳で利益のこと考えてる。そんなおかしな感じなんです。わかりますぅ? この感覚?

男  (キレて)グダグダ言うなおまえが! 偉っそうに! 甘ったれやがって。出てけ。出てってくれ!

甥  帰るとこがないんですぼくには!

   と妻が甥をかばう。

妻  もう少しだけいいじゃない、ここにいても。

男  (予想外)なんだおまえ、急に。

妻  まだ若くて、世間の仕組みがわからないのよ。それだけなのよ。続けてれば、仕事の大切さもわかってくるわ。

甥  ……。

妻  行く所がないのはつらいものよ。居場所がないのは。身内に見棄てられるのは。父を見ててつくづく思ったの。そうよ、今見放すと、この人は……

甥  ……。

男  居場所はあるよ。

甥  え?

男  兄貴の所へ帰ったらいい。頼ればいいよ、親なんだから。

甥  でも。借金もあるし。

男  知らん、もうおれは。知らん。荷物持って出てってくれ。ほら。ほら!(甥にカバンを押しつける)

   しかし甥はカバンを振り捨てる。

甥  棄ててきました、ぼくは――あの人を。

男  え? 棄ててきた?

甥  今ごろきっと腐ってる。腐り始めてる。そう思うと――居たたまれなくて。

男  なに言ってるんだ……、おい?

甥  ヤミ金って知ってますか? 怖いですよぉぅ、取り立て取り立てで。「借りたもん返すのが当たり前だろ、てめえ、それでも人間か!」。――借りたのはぼくじゃないってッ。……ぼくは父に近づくのもイヤだったんだ。会えば金貸してくれ。金貸してくれ。目が血走って、濁って。自分でなんとかすればいいのに。酒飲んで、クダ巻いて。ぼくだって借金があるんだ。ほとんど父に貸すためですよ。ぼくだって生活があるんだ。ぼくだって未来があるんです。よっほど縁切ってやろうかと。……でもね、あの日、虫の知らせがして、気になって気になって。弁当やカップうどん持って出かけたんです。食べる物ぐらいは、息子のぼくがなんとかしてやらないとと思って。「おかけになった電話番号は、現在使われておりません……」。電話も通じなくなってたから、なんとかしないとって……。

男  ……。

甥  フン。行ったらあの人、死にかけてました。眉間に、ほら、なんてったっけ? 死相が出てた。サトル。サトルって。死神の声だよ。(急に両手で顔を覆って)――ほうって出てしまった。ほうって!

男  ほうって出たって……。

甥  次の日も仕事があったんだ。日雇いの仕事が……。

妻  それっていつの話?

甥  四十九日前……。

妻  ……。

甥  父は、売れ残りの健康食品に囲まれて寝てました。敷きっぱなしの布団の上で。散乱したレイシや高麗人参茶と、コンビニ弁当の空き箱に囲まれて。あの人腐ってるんです、きっと。だれにも看取られず、死んで腐って。……いや、ぼくの代わりにウジ虫たちが父の体を撫でてますよ、きっと。頬を、額を。ウジ虫たちが。やさしく、やさしく。身をくねらせて……。そして耳の穴から、鼻の穴から、穴という穴からハエたちが飛び出してくる。死人に載せる白い布みたいに父の顔にたかるんです。そうしてぼくの代わりにハエたちが手をすり合わせてくれてるんだ。ナンマンダ、ナンマンダと。ナンマンダ、ナンマンダ。ナンマンダ、ナンマンダ。手をすり合わせてる、ぼくの代わりに……。

男・妻 ……。

甥  あれからずっと。セイイッパイだったんです。ぼくは……!

男  滅茶苦茶だよ。おまえは。

甥  どうしようもなかったんですオトーサン。

男  え?

甥  (男にむしゃぶりつく)オトーサンオトーサン、オトーサン!

男  (甥を突き飛ばす)よせ! よせよ!

甥  オトーサン! またぼくを棄てるんですね、オトーサン。

男  なに言ってるんだ。

甥  おばさんはとっくの昔に気づいてたでしょ。この人ぼくのオトーサンなんです。ぼくの本当のオトーサン!

男  (笑って)ウソだよ。

甥  おばさん気づいてたでしょ! おじさんは昔、ぼくの母と過ちを犯して、そうしてぼくが生まれたんです。それが父にバレて、父と母は離婚した。父は人生を狂わしてしまった。あなたの本当のオトーサンはおじさんよって。そう母が教えてくれたんです。サトルと名付けたのはおじさんよって。(男に)そうでしょ? ね?

男  それは――頼まれて……名前は……

甥  でもぼくを棄てたんです、ギシソーグシになるために。ギシソーグシになるために。

男  意味がわからん。

甥  ぼくは出ていきませんよ。帰る所がないんだ。帰る家がないんだ。棄てられるのは、もうごめんだ。(奥の部屋の方へ後ずさる)

男  おい、こら。

甥  今度はぼくがオトーサンを棄てるんです。

   甥、奥の部屋に引きこもる。

男  どうかしてるよ。頭が狂ってる。デタラメ言ってるんだ、こっちを困らせるために。

   妻、男をじっと見据えている……。

男  なんだよ。

妻  行かないの?

男  今声をかけても。

妻  いえ、あの人の所へ。あの人の――

男  (ビックリして)おれが? どうして?

妻  あの子に構うからこんなことに。親子揃って、疫病神。

男  兄貴に――、兄貴に謝らなきゃいけないことがあったんだ。そういう負い目が。だからあの子のことを……

妻  どういう? 謝らなきゃいけないことって?

男  それは……

妻  言えないの?

男  ……。

妻  言えないの? あなたとわたしのお芝居が終わろうとしてるのに!

男  なんだそれ? おれとおまえのお芝居って?

妻  ……。

男  おまえは幸せだよ。

妻  なによ、それ?

男  おれの親父ってどんなだったかなァ……ちっとも思い出せない。物心ついたころには兄貴が親父代わりで。……あのころ、手足がちぎれるぐらい働いてくれたよ、兄貴は。来る日も来る日も真っ黒になって、クレーン操って。頼もしかったよなァ。途中で義肢装具士の学校がつらくなって、製作実習が大変で、辞めようかなって弱気になったときも、励ましてくれて。学費出してくれて。フラフラふらついてたおれを、叱り飛ばしてくれて――。その兄貴を棄てちゃった……。フッ。兄貴じゃなくて、おれだったのかもな、棄てられたのは。……どこからすれちがっちゃったんだろ、兄貴とおれは?

妻  わたし……行きます。

男  おまえが? おまえが行ってくれるのか。ウン。そりゃ確かめなくちゃ、だれかが。ウン。

妻  いいえ、ちがいます。父の所へ。わたし実家へ帰ります。出ていきますこの家を。退院させて、父と暮らします。わたし、オトーサンを拾いに行くんです。

   妻、出ていこうとする。

男  死んだんだ、お義父さんは。

妻  え?

男  ごめん。さっき病院から連絡があったんだ。お義父さんが……心肺停止で亡くなったって。

妻  え? ウソ。――ウソよ。

男  ごめん。どうやって伝えようかと。

妻  ウソよ。ウソよ!

男  (静かに首を横に振る)おれの職場を緊急連絡先にしといただろ、おまえ?

妻  行きますわたしは。(カバンを持つ)父を見棄てるわけには……

男  それはおまえ、あの子の荷物じゃ――

妻  いいえ、わたしのです。わたしのなんです。空っぽなわたしの荷物です。空っぽなわたしの絶望なんです。

   妻、荷物を持って出ていこうとする。

男  おい、おれはどうなるよ。

妻  ――。

   ト甥のカバンの中のケータイが鳴る。

   妻、カバンからケータイを取り出し……

妻  ――はい。はい……。(男に)警察から。

男  警察? なんで?

妻  (男にケータイを渡し)あなたが……フ、棄てられてるそうよ。

男  おれが?

妻  さよなら。さようなら。

   妻、カバンを持って出ていく。

男  (妻の背に)おい……。

   男、仕方なくケータイに出る。

男  はい。はい。そうです……。はい、――サトルはわたしの……。アぁ――、そうですか! 死体が――

   間。

男  あの――。もしもし。すみません。つかぬことを伺いますが、それは――その死体は――、わたしじゃないですか? ねぇ! わたしじゃないですか? 頬の所にホクロがありませんか? 福沢諭吉みたいな。諭吉のホクロが――。――え? 腐ってる? 腐ってわからない? よっく顔を見て下さい。よっく顔を! ア――(通話が切れる)

   甥、奥の部屋から出てくる。

甥  ねぇ、おばさんは? 玄関で音がしたけど。

男  出てったよ。オトーサンを拾いに。

甥  オトーサンを……拾いに。

男  ああ……。オトーサンを。

甥  でも、よかったね。

男  なにが?

甥  だって、おばさんなんて、もともとこの家に要らないんだから……

男  ――

甥  ぼくとオト―サンがいれば十分だし。親子水入らず。親子おば要らず。

男  ……。

甥  ね、オトーサン?

男  ……。

甥  どっか行くの?

男  ――行かないよ。どこにも。どこにも。

甥  居てもいい? ここに? ずっと? ねえ、オトーサン。

男  いや、だめだ。警察が来るよ、今から。ここに。おまえに……会いに。

甥  ぼくに――なぜ? 捕まえるの?

男  たぶん――今、電話があったんだ。死体遺棄。

甥  (錯乱して)アぁッ! アあァッ! どうしようもなかったんだ、オトーサン。ぼくは、オトーサン――あなたを棄てたんです。あなたを――オトーサン、棄てたんです。ぼくはあなたに棄てられる。あなたはぼくに棄てられる。ナンマンダ、ナンマンダ。ナンマンダ、ナンマンダ…………(唱え続ける)

男  聞いてくれ。おれは働くよ、手足のちぎれるまで。手足のちぎれるまで、おれは働くよ。働いて働いて。たとえ世間の片隅でも、作業場の明かりが乏しくても、働いて働いて。たとえ自分が無になろうとチリになろうと、手足のちぎれるまで、手足のちぎれるまで働くよ。もちろんときにはちょっぴり休んで、ときにはちょっぴりパチンコ行って。気晴らしにはお酒も飲んで。でもまた朝日が昇れば、働くよ、手足のちぎれるまで、手足のちぎれるまで。たまにはお客に笑顔をもらって。やっぱりちょっぴりお金ももらって。オトーサンは働くよ、働くよ。おまえのために――

   妻が舞台の別空間に現れる。甥の嘆きと妻の嘆きが唱和する……

甥・妻 オトーサン、オトーサン、サムかったでしょうね! ツラかったでしょうね! ナンマンダ、ナンマンダ。ごめんなさい、ナンマンダ………

男  手足のちぎれるまで働くよ。手足のちぎれるまで働くよ。手足のちぎれるほど、手足を作るよ………

甥・妻 ナンマンダ、ナンマンダ。ごめんなさい、ナンマンダ………

男  今度こそは。今度こそは。おまえのために――おまえのために………

甥・妻 ナンマンダ、ナンマンダ。ごめんなさい、ナンマンダ………

男  手足のちぎれるまで。手足のちぎれるまで………

   ――と突然、玄関を叩くノックの音。

男  来た――。

甥  ――来た。

   ノック! ノック! ノック!

男  警察だ。

甥  ちがう。

男  え?

甥  ちがうよ。きっと。あれは――あの叩き方は……

男  まさか――!

   ノック! ノック! ノック!

妻  ナンマンダ、ナンマンダ。ナンマンダ。ナンマンダ………(激しく手をすり合わせる、ハエのように……姿が消える)

   男と甥、固く抱き合い、震える。

   鳴り止まぬノックの音が響く中――

男  ……行くよ。行ってくるよ。

甥  どこへ?

男  兄貴の所へ……オトーサンの所へ。

甥  でも……

男  仕方ない。仕方ないよ。

   男、ひとり行きかけて、振り返る。

男  おまえも一緒に行くかい?

甥  ぼくは行かない、行かないよ!

   男、出ていく。甥、ひとり残る。…………(時が経過する)

甥  (落ち着きなく部屋を歩き回る)オトーサンってバカだなァ。行くことないのに。どうせ死んでるのに。……なんであんなにバカなんだろ、オトーサンって。息子に迷惑ばっかかけやがる。……中学のころ、知らないうちに声変りがして、だんだんオトーサンとおんなじ声になって、近所のおばさんから、そっくりねえなんて言われて、いやだったなァ。ああ、ぼくも将来はオトーサンみたいに、どうしようもない大人になって、いつか自分の子どもにバカにされるのかなァって……。

   妻、戻ってくる。中にお骨の入ったカバンを持っている。

甥  なんで戻ってきたんです? 実家で暮らすんじゃ……?

妻  ここがわたしの家だもの。荷物もあるし、思い出もあるし。ひとりじゃ暮らせないでしょ、あの人だって? 多少のほころびを含めて夫婦なのよ、あなたにはわからないだろうけど。

甥  出ていきましたよ、オトーサン。

妻  あなたのオトーサンじゃないわ。

甥  (強調して)「オトーサン」は出ていきました。「オトーサン」をこの家に引き取るつもりなんです、お骨になった「オトーサン」をこの家に。

妻  人間、お骨になっちゃ、しょうがないわね……。(カバンを見て)これがわたしのオトーサン。

甥  え?

妻  (お骨の入ったカバンを甥に近づけて)ここにわたしのオトーサンが入ってるの。カラコロ、カラコロ。カラコロ、カラコロ。

甥  やめろ! やめろ! こっち来るな。ぼくはオトーサンとはいられない、一緒にはいられないよ!

   甥、逃げるように外へ出ていく。

   妻、ひとり残る。カバンを置く。…………(時が経過する)

妻  (独白)夫と初めてキスしたのは、車の中。夜の市役所の駐車場。車のフロントガラス越しに見上げると、丘の上に教会があって、二つの塔がガランゴロンと鐘を鳴らしてた。ガランゴロン。ガランゴロン。でも、そんなにロマンチックでもなくて、勢いあまってわたしの前歯があの人の唇に食い込んで。あの人、流れる血を舌でペロペロ、ペロペロなめてた。ペロペロ、ペロペロ。……今じゃ、どうだろ、あの人が唇を近づけると、さっとよけてしまう。反射的に。自己防衛本能。ボクシングのフェイントみたいに。(体を素早く動かして)シュッ、シュッ。シュッ、シュッ。……

   男、戻ってくる。

男  なに楽しそうにしゃべってる?

妻  (男の言葉をよけるように)シュッ、シュッ……。

   男、カバンを抱えている。甥のカバンによく似ている。いや、まったく同じ物に見える。

妻  ……お墓、どうしましょう?

男  (カバンの上から中のお骨をさわって)まだ早いよ。しばらくこうしておくさ。カラコロ、カラコロ。一緒にいるのも悪くないさ……。カラコロ、カラコロ。……

妻  父の墓に一緒だなんて、そんなの無理よ。……あなたなら、ま、いいだろうけど。

男  ああ、そんなつもりないよ。

男、カバンを、妻のカバンの隣に置く。

妻  死んだら、だれが看取ってくれるのかしら……?

男  そりゃ、おまえ。

妻  あなた、わたしのお葬式してくださいね。わたしはあなたより早く死ぬと思うの。

男  それはどうだろ?

妻  死ぬに決まってます。

男  ……じゃ、そのあとおれはどうなる? おれの葬式は……?

妻  死んだあとのことまで知りませんよ……。

男  あの子、どうした?

妻  外へ出ていきましたよ、オトーサンとは一緒にはいられないって。

男  だってもう、お骨なんだよ。

妻  わたしもそう言いましたよ。しょうがないじゃない、お骨なんだからって。お骨に文句言ったって、しょうがないじゃないのって。

男  どうせ、その辺をブラブラ一周してるんだろ?

妻  家の周りを? ブラブラ、ブラブラ?

男  たいていそうさ。ブラブラ、ブラブラ。子どもが腹を立てて出ていったときは、その辺をブラブラして、腹が減ったら戻ってくるのさ。なんでもない顔してさ、ただいまって。

妻  あの子が戻ってくるのは、あなたが死んだときじゃないかしら。

男  さみしいなァ、それは。

妻  男の子なんて、そんなもんよ。あなたもそうだったでしょ?

男  おれはちがうよ。ちがうと思う……ちがうんじゃないかな……。

妻  そうよ絶対。

男  ねえ、ずっと考えてたことがあるんだ。

妻  なに?

男  あの子と三人で暮さないか?

   間。

妻  ……お腹すいたわね。どっか外へ食べに行きましょうよ。

男  ねえ、どうだい?

妻  ……。

男  肉は食べないよ。

妻  え?

男  喪中なんだから。なんだかんだ言っても。

妻  肉を食べるわけないじゃない。野菜をしゃぶしゃぶして食べましょうよ。それがいいわ。健康にもいいし、ダイエットにも。もちろん喪中にも。

男  喪中とダイエットは……

妻  そうと決まったら、食べに行きましょう。戸締りお願いね。

男  カギは開けておこうよ。

妻  なんで? 不用心でしょ?

男  あの子がふいと戻ってくるといけないから。

妻  あの子が? まさか?

男  ブラブラ、ブラブラして、さ。

妻  ブラブラ、ブラブラ……。好きなようにして。

男  行こう。しゃぶしゃぶしたら、楽しいだろうなァ。水菜をしゃぶしゃぶ。タマネギをしゃぶしゃぶ。アスパラガスをしゃぶしゃぶ。しゃぶしゃぶ、しゃぶしゃぶ。……

   男と妻、出ていく。部屋に二つのカバンだけが残る。

甥  ただいま。

   甥、戻ってくる。男や妻がいないので、部屋を探す。二つのカバンに目が留まる。恐る恐るカバンに近づくと、二つのカバンを静かに静かに開ける。中にあるらしいお骨をじっと見る。突然、二つのカバンに代わるがわる鼻を突っ込み、クンクンと二つのお骨の匂いを嗅ぐ。

甥  クンクン、クンクン。クンクン、クンクン。(今度は自分の襟元やわきの下を匂ってみる)クンクン、クンクン。クンクン、クンクン。(そしてまたお骨の匂いを嗅ぎ、自分の匂いを嗅ぐ)クンクン、クンクン。クンクン、クンクン。……おんなじ匂いだ。

男  ほら、戻ってきた。

妻  あなたの勝ちね。

   男と妻、戻ってくる。

男  待ってたんだ。おまえも一緒に食べに行くか?

妻  しゃぶしゃぶよ、野菜の。トマトにニンジン、レタスにピーマン。好き嫌いある?

甥  待ちぶせしてたの?

妻  人聞きの悪い。

男  落ち着かなくてさ。カギを開けたまま、お骨を置いて出ちゃ。盗まれでもしたら事だからね。

妻  (薄く笑って)お骨を盗む人なんていないわよ。

男  いるさ。いるんだよ世の中には。どんなやつだっているんだよ。

妻  (甥に)食べに行かない? 言うなれば……おとむらいよ。

男  ああ、おとむらい。いい日本語だね。おとむらい。「朝焼け小焼けだ、大漁だ。オオバイワシの大漁だ。浜は祭りのようだけど、海のなかでは何万の、イワシのとむらいするだろう」、なんて。

妻  なに急に。似合わない。みすゞ?

甥  だったらぼくは、釣りに行きたいな。

妻  釣りに? 今から?

甥  ザリガニ捕りに。ね、オトーサン?

男  ザリガニ捕りに?

甥  ザリガニ捕りに行きたいな。その、なんてったっけ、そう……おとむらい。

男  いいね。いいよ。(妻に)いいだろ?

妻  ザリガニっておいしいの? くさくない?

男  バカだなおまえ、食べないよ。

甥  バカですね、おばさん。

男  バカなところがあるんだよ。

妻  (ムッとする)……。

男  あ、ごめんごめん。

甥  スルメを餌にして捕るんですよ。いっぱい捕れるんだ。

妻  ザリガニなんて気持ち悪い。かわいそうじゃないの?

甥  捕まえたら、逃がしてやるんです。捕まってくれてありがとうって。

男  そうだよ。そうなんだ。いつも兄貴がそうしてた。捕まってくれてありがとう、今度は用心しろよ。

妻  (甥に)あなた、ザリガニ捕るの上手なの?

甥  オトーサン譲りなんです。それが、ぼくの唯一の自慢なんです。

妻  うちの父も、ザリガニ捕るの上手だったわ、そう言えば。

甥  へええ!

男  初耳だ。

妻  初めて話すもの。そんなの自慢でもなんでもない。

男  じゃ、留守番頼むよ。

妻  ザリガニ捕ったら、(カバンをあごでしゃくって示して)何匹か持って帰ってオトーサンに見せてあげたら。

甥  みんな逃がしてやりますよ、ありがとうって。捕まってくれてありがとうって。そのほうが、たぶん……喜ぶだろうから。

男  うん、ありがとうってな。捕まってくれてありがとうってな。

妻  そう……。だったら、そうしなさいよ。

男  じゃ、行ってくるよ。

甥  (熱く込み上げるものがあって)ザリガニが捕れるまで、帰ってきませんから。ずっと帰ってきませんから。たくさんたくさん捕って、たくさん逃がしてやるんだ。おとむらいなんだから。おとむらいなんだから……。

男  (優しく)さ、行こう。

   男と甥、出ていく。妻、ひとり残る。

妻  やれやれ。

   妻、二つのカバンのチャックが開いているのに気づく。ふと、中にあるお骨に近づいて、じっと見る。突然、二つのカバンに代わるがわる鼻を突っ込み、クンクンと二つのお骨の匂いを嗅ぐ。

妻  クンクン、クンクン。クンクン、クンクン。(今度は自分の襟元やわきの下を匂ってみる)クンクン、クンクン。クンクン、クンクン。(そしてまたお骨の匂いを嗅ぎ、自分の匂いを嗅ぐ)クンクン、クンクン。クンクン、クンクン。……ああ、おんなじ匂いだ……、ザリガニと。

   風が渡る。日が暮れかけてくる。

妻  晩ご飯の支度しなくちゃ。やれやれ。サバの味噌煮を……

   行きかけて、ふと立ち止まって。

妻  きょうは、カレイの煮つけにするか……。

   妻、台所へ出ていく。

   二つのカバンだけがポツンと居間に残される。

                             (幕)