練馬区 18 (16/07/23) 上石神井村 (3) 石神井台 石神井公園
上石神井村 石神井台 石神井公園
- 石神井公園
- 石神井池
- ふくろう広場
- くつろぎ広場
- 石神井公園記念庭園 (旧第二豊田園)
- 草地広場
- 中之島、野外ステージ
- けやき広場
- ひょうたん池
- くぬぎ広場、つげの木稲荷跡
- 観世音菩薩御堂
- さくら広場、殿塚
- 姫塚
- 三宝寺池
- 三宝寺池沼沢植物群落
- 厳島神社
- 水神社
- 穴弁天 (宇賀神社)
- 石神井城跡
- 観応の擾乱 (1350 ~1352年)
- 武蔵野合戦 (1352年)
- 平一揆の乱 (1368年)
- 禅秀の乱 (1416年)
- 享徳の乱 (1455 ~ 1483年)
- 長尾景春の乱 (1476 ~ 1480年)
引き続いて、石神井公園を巡る。
石神井公園 訪問ログ
石神井公園
石神井公園には三宝寺池と石神井池の二つの池があり、この二つの池を囲んで公園が整備されている。昔の武蔵野の自然を残しており、池を一周できる遊歩道が何本も作られて気持ちの良い散歩ができる。この公園には何度となくきて、公園内を散歩していた。
まちづくり情報誌「こもれび」- 石神井台
石神井池
まずは石神井池周辺から散策をする。公園に入ったところにはボートハウスがある。戦後にできた施設で、週末には多くの観光客がボートで池を一周している。石神井池は、昔からあった池ではなく、かつては三宝寺池から田んぼに引き込む三宝寺川 (旧弁天川) と呼ばれた水路だった。昭和9年に川を堰き止めボート池として造られたも。石神井池から石神井川までの水路だった三宝寺川 (旧弁天川) も消滅してしまったが、昭和57年に練馬区で水路跡を和田堀緑道として整備している。
ふくろう広場
公園内には幾つもの広場が置かれている。子供向けの遊具が置かれている広場は少なく、散歩で疲れた際にゆったりとした空間で休める様な感じになっている。ボートハウスから石神井池の南の遊歩道の一番初めにはふくろう広場がある。
くつろぎ広場
ふくろう広場の上、階段を登るともう一つの広場がある。くつろぎ広場という。
石神井公園記念庭園 (旧第二豊田園)
くつろぎ広場の南側には石神井公園記念庭園がある。この庭園はかつては第二豊田園と呼ばれた庭園だった。石神井村元収入役で地元の資産家の豊田銀右衛門が大正期に造成したのが豊田園で、この地は第二豊田園だった。1915年 (大正4年)に現在の武蔵野鉄道 (西武池袋線の前身) の池袋駅-飯能駅間が開通し、当時は地域の発展を期して、石神井など沿線各地に観光開発が進められていた。
この中で、豊田氏は1913年 (大正2年) 頃に現在の石神井池 (ボート池) の北畔の台地にツツジを中心に植栽した第一豊田園を開設し、続いで、1916年 (大正5年) 頃に、この地の起伏に富む景観と池を活かした日本庭園として第二豊田園を開設した。
この結果、近隣の住民から文人たちにまで広く親 しまれる石神井の名所となった。戦後、第一豊田園は宅地となり、第二豊田園は東京都が取得して都立石神井公園の一部として再整備され、1978年 (昭和53年) に石神井公園記念庭園として開園している。第二豊田園跡の記念公園には池があるが、これは第二豊田園にあったもので当時は金魚が泳いでいたそうだ。
草地広場
石神井公園記念庭園の西側には野球場があり、そこには長く伸びた草地広場がある。
中之島、野外ステージ
草地広場から石神井池に降りると池の中に中之島があり、橋が架かり池の対岸に渡れる。中之島の前にも広場があり、ここには野外ステージが造られている。音楽コンサートや演劇などで使われている。
けやき広場
野外ステージのすぐ西側にも広場があり、けやき広場と名がついている。ここが石神井池の西の端になり、1984年に設置されたモニュメント「聖衣」が池の中にある。
石神井池から道路を渡った所から三宝池が西に広がっている。この三宝池周辺には石神井城落城に関連するスポットが幾つかある。
ひょうたん池
三宝池の東にはひょうたん池があり、ここはいつ来ても、子供たちが池の魚や蛙、昆虫取りをして遊んでいる。
くぬぎ広場、つげの木稲荷跡
ひょうたん池の北にはくぬぎ広場がありここには子供向けの遊具が置かれ、側には売店もあり家族連れで賑わっている。かつて、ここの林の中には石神井城落城の際の双方の戦死者を祀った塚があり、その塚の上につげの木を植え稲荷の小祠とされる「つげの木稲荷」があったのだが、いつの頃か無くなっている。
観世音菩薩御堂
さくら広場、殿塚
姫塚
ある日、太田道灌が鷹狩りの途中で雨に降られ、近くの農家で蓑を借りようとしたところ、照日という美女から山吹の和歌を差し出され、蓑がなくて貸せないことを知らされた。照日の教養に魅かれた道灌が、姫を妻にしようと再訪したところ、彼女はすでに石神井城主の豊島泰経の弟で平塚城主 豊島泰明と婚約していた。 道灌は平塚城に攻めこみ、 この戦いの中で泰明は命を落とす。勢いを得た道灌は、さらに石神井城にも攻め入り、落城させる。城主 泰経は敵味方が見守る中、切腹して三宝寺池に身を投げる。 そして、照日も、後を追って三宝寺池に身を投げた。
この姫塚は照日塚ともいう。三宝寺に照日上人伝説が残っており、三宝寺の六世住職・定宥が京の月夜の歌会で天皇から照日上人の称号を賜わった。現在の姫塚は元々はこの上人の墓でだったとも伝わっている。
三宝寺池
三宝寺池に降りて行き、池を一周する。三宝寺池は、石神井川の源流のひとつで、井の頭池、善福寺池とともに武蔵野三大湧水池のひとつになる。池に置かれたこの弁才天の別当でもあった三宝寺に由来し、三宝寺池と呼ばれている。昔はこの池から石神井川が始まっていた。江戸時代には、干魃の際にも涸れる事が無かった。当時は貴重な農業用水の水源ではあったが、それでも水不足の土地柄だったため、練馬大根と呼ばれる大根の栽培が行なわれていた。湧水が豊富だった昭和30年代頃までは三宝寺池、石神井池下流では水田があり、この周辺は真冬でも池面が凍らない不凍池だった。しかし、近年の周辺の都市化により年々湧水が減少し、現在地下水を汲み上げて池に水を補給している状況になっている。
三宝寺池沼沢植物群落
厳島神社
ここを流れていた川 (現在の三宝寺池) も弁天川と呼ばれていた。明治期の神仏分離令で厳島神社となった。明治41年には、観音山の稲荷神社、沼辺愛宕神社、西村の御嶽神社を合祀し、1915年 (大正4年) には小関の稲荷神社を合祀し、相殿として香具槌命、倉稲魂命、国常立命を祀っている。現在の社殿は昭和58年に建てられたもの。境内社として水神社 (水波能売神)、穴弁天社 (市杵嶋姫命) がある。
水神社
厳島神社より東へ30mほどのところに厳島神社の末社の水神社が鎮座している。水神を祀っているが、詳細は不明。
穴弁天 (宇賀神社)
厳島神社の南の丘の下に洞穴の祠がある。この洞窟の奥には三宝寺池 (弁天川) の底から出現した蛇体の女神弁財天 (市杵嶋姫命) を池霊の御神体として祀っている。創建の詳細は不明だが、石神井城城主豊島氏全盛期と思われる。別の資料では厳島神社御祭神である狭依姫命 (さよりひめのみこ) の配下神の宇賀神 (うがじん、市杵嶋姫命と同一視されている) を祀り、芸術・学問全般向上、五穀豊穣及び財産をもたらす神様といわれている。人頭蛇身の姿の宇賀神を祀っている事から宇賀神社とも呼ばれている。言い伝えでは雨乞いに際し、本殿に祀り祈願すると必ず雨が降ったという。別の言い伝えでは豊島氏の石神井城の秘密の逃げ道とか豊島氏の財宝の隠し場所だったとも。年に一度の例大祭の日だけ、鍵のかかった鉄扉を開け洞窟内に参拝ができるそうだ。
石神井城跡
三宝寺池の南の丘には豊島氏の居城だったが石神井城跡がある。城の築城時期は定かではないが、室町中期頃と推測されている。鎌倉期以降に宇多氏や宮城氏の館が構えられていた場所とも考えられており、彼らと婚姻関係を結んだ豊島氏が築いたという。石神井城の最終形は太田道灌との緊張関係が高まった15世紀半ばに完成したと思われ、江戸城への「対の城」として大掛かりな増改築が行われいた可能性が高い。石神井城中心の内郭は生活の場ではなく、非常時の籠城用施設とする見方が有力で、城主の平時の居館は三宝寺裏山付近の可能性が高い (下の図の中郭か?)。
石神井城跡はかつての姿は失われている。北は三宝寺池、南東は石神井川で天然の水堀によって守られていた。城は西から東へ延びる約1キロの舌状台地の西端から中央部にかけて築かれており、全体像は未だ不明だが、土塁と空堀を廻らせた内郭が僅かに残っている。
1957年、1998年から2003年にかけても発掘調査が行われ、内郭には箱堀の空堀、建築物の柱穴、食料貯蔵庫の跡と推定される深さ約3メートルの巨大な地下式坑が検出されている。内郭への出入り口には、西側に折 (おり、真横から矢を射掛けるための構造) も見つかっている。また、土塁によって城内が複数の郭に区画されていたことが判っている。遺物としては、12世紀以降の陶磁器、かわらけ、瓦、小刀、砥石、灯明皿、石臼片、焼米、鉄釘、墨等が出土している。三宝寺池西南端付近に空堀の痕跡、その南側住宅地内に物櫓跡の痕跡も確認されている。現在、内郭は遺構保護のためフェンスが設けられて立ち入り禁止になっているが、解放されて見学ができる期間も設けられている。
豊島氏滅亡から時代を200年程遡り、その時代から豊島氏の動きを見ていく。
観応の擾乱 (1350 ~1352年)
- 1350年 (観応元年) ~1352年 (観応3年) 足利政権に内紛の観応の擾乱が起こり、足利直義の派閥と、高師直等の尊氏の派閥が争い、師直も直義も死亡し、生き残った尊氏が擾乱に勝利した。この観応の擾乱には豊島氏も武蔵平一揆として尊氏側についていた。
武蔵野合戦 (1352年)
- 1352年 (観応3年) 観応の擾乱終了後には、足利尊氏方 (北朝方) と反尊氏方 (新田義興・新田義宗ら南朝方) の間の大規模な戦闘の武蔵野合戦が起こり、秩父氏の河越氏や豊島氏らを中核とした武蔵平一揆は足利尊氏、基氏 (後の鎌倉公方) 軍に参戦し勝利に終わり、豊島氏は居城の平塚城を中心として第一期最盛期を迎える。
平一揆の乱 (1368年)
- 1368年 (応安元年) - 足利尊氏の死後、関東執事 (後の管領) の上杉憲顕は、河越直重は相模国守護職から解任し、武蔵平一揆の勢力の一掃を狙い、上杉憲顕と平一揆間で対立が生じ、河越直重率いる平一揆 (高坂信重、豊島氏、江戸氏、高山氏、古屋谷氏、村山党の仙波氏、山口高清、金子家祐など) が蜂起し、下野国では宇都宮氏綱が、越後国では南朝方の新田義宗や脇屋義治も挙兵し、戦闘状態 (平一揆の乱) に突入。相模国の平一揆、武田氏、葛山氏らの動員もあり、上杉方がの河越における合戦で反乱は鎮圧され、上杉方が勝利となった。この結果、河越直重らは南朝の北畠顕能を頼って伊勢国へと敗走、領地はすべて没収された。他の参加者も領地を減らされ失脚、武蔵平一揆は歴史上から姿を消すことになる。豊島氏も武蔵野合戦の敗北で獲得した所領を没収されている。豊島氏は関東管領上杉氏の傘下となった。上杉氏は、室町期の関東において圧倒的な力を持つようになった。
- 1372年 (応安5年) - 石神井に菩提寺となる道場寺を建立
- 1394年 (応永元年) - 三宝寺を建立
- 1395年 (応永2年) - 豊島泰宗が没収されていた石神井郷を還補。本拠を荘園経営の拠点であった平塚城を半ば放棄する形で石神井城に移す。石神井川下流には支城として練馬城を築く。
禅秀の乱 (1416年)
- 1416年 (応永23年) - 鎌倉公方の足利持氏と、それを補佐する立場の関東管領の犬懸上杉家の上杉氏憲の対立が深まり、遂には持氏が氏憲を罷免し山内上杉家の上杉憲基を新関東管領を任命した。これがきっかけとなり、氏憲は足利満隆、持仲、岩松満純、那須資之、千葉兼胤、長尾氏春、大掾満幹、山入与義、小田持家、三浦高明、武田信満、結城満朝、蘆名盛政や地方の国人衆などと共に持氏への反乱を起こす。禅秀 (上杉氏憲) の乱と呼ばれる。一時期は氏憲軍により鎌倉を制圧。足利幕府の命で今川範政、上杉房方、小笠原政康、佐竹氏、宇都宮氏に満隆・氏憲の討伐に向かい、江戸氏、豊島氏ら武蔵の武士団が呼応して武蔵から氏憲勢力を排除した。翌1417年 (応永24年) の世谷原の戦いで氏憲軍が江戸、豊島連合軍を破り押し返すが、その間隙を突いて今川軍が相模に侵攻し、満隆、持仲らが鎌倉雪ノ下で自害。これで反乱は収束となり、これ以降、犬懸上杉家は関東での勢力を失っている。足利持氏側に立った豊島氏は第二期最盛期を迎える。
享徳の乱 (1455 ~ 1483年)
- 1455年1月15日 (享徳3年12月27日)足利成氏が上杉憲忠を鎌倉の西御門邸に招き謀殺。扇谷上杉顕房、長尾実景・憲景父子も殺害。上杉房顕が関東管領に就任、越後守護上杉房定と合流して上野平井城に拠り、享徳の乱が勃発。
- 1455年1月21日 長尾景仲は武蔵分倍河原の戦いで成氏軍に大敗常陸小栗城に逃走。幕府は成氏討伐を駿河守護今川範忠に出陣を命じるが、小栗城は成氏により落とされた。成氏は宇都宮等綱を降すなど各地を転戦していたが、北関東の上杉方の攻略に手間取っている間に本拠地鎌倉を今川範忠により占拠され、下総古河に入り、以後成氏は古河城を本拠地とし古河公方と呼ばれた。これ以降、1483年に和解がされるまで戦いが続くのだが、関東の豪族の家督争いが絡み、一族が敵味方となり、戦争が拡大した。
- 1455年 (康正元年)、千葉氏では分家の馬加康胤と重臣の原胤房が成氏に呼応挙兵し本家の千葉胤直、胤宣父子を倒して家督を奪っている。1456年 (康正2年) には上杉派の宇都宮等綱が成氏に居城の宇都宮城を包囲され、成氏に寝返った重臣達に追放され流浪、息子の明綱は降伏して成氏に従った。一連の戦いの結果、関東地方は利根川を境界に東側を古河公方 (足利成氏) が、西側を関東管領 (上杉氏) が支配する事となる。
- 1457年 (長禄元年)、将軍義政は成氏への対抗策として、政知を鎌倉公方とするが、関東地方在住の武士たちの支持・協力も得る事ができず、鎌倉に入ることが出来ず、手前の伊豆の堀越に入り、堀越公方と称した。
- 1459年 (長禄3年)、上杉房顕は太田荘、海老瀬口、羽継原での戦いで大敗。以後、両陣営は付近の五十子陣を挟んで長期にわたって睨み合った。房顕は1466年 (寛正7年) に五十子で病に倒れて陣没。
- 1461年 (寛正2年)、上杉側に寝返った岩松持国・次郎父子が従兄の岩松家純に謀殺される。1468年 (応仁2年)、上野で綱取原合戦が勃発、徐々に上杉側は反撃に打って出た。
- 1471年 (文明3年)、成氏方の千葉氏、小山氏、結城氏らが伊豆へ侵攻し、政知は三島で敗退。顕定ら上杉方は成氏方の主力が伊豆に出陣している留守を狙い、古河に出陣、小山持政を離反させて古河城も含め、下野国内の諸城を降し、成氏は千葉孝胤の領内にとどまった。1472年 (文明4年) には成氏は千葉孝胤、結城氏広、那須資実らの援助を受け古河城を奪還して勢力の巻き返しに出た。
長尾景春の乱 (1476 ~ 1480年)
- 1476年 (文明8年)、上杉家家臣の長尾景春が関東管領家の執事 (家宰) になれなかった不満のため、鉢形城にて挙兵し1477年 (文明9年) には五十子を陥落させた(長尾景春の乱)。豊島泰経は長尾景春に呼応して、扇谷上杉の江戸城の太田道灌と川越城の分断の役割を担った。
- 1477年 (文明9年) 3月、道灌は溝呂木城と小磯城を落とし、さらに小沢城を攻めるが、景春が援兵を送ったため一旦兵を引いた。小机城の矢野兵庫が出陣して河越城攻撃を図るが、太田資忠と上田上野介がこれを撃退。
- 1477年 (文明9年)、豊島氏は当主の泰経が石神井城、弟の泰明が練馬城に拠り道灌と対峙。
- 4月13日 練馬城を攻撃された後、江古田原の戦いで惨敗を喫し、泰明は戦死、泰経は石神井城に敗走している(なお、以前は道灌が最初に攻めた城は練馬城が新たな通説となっている)。
- 4月14日 道灌は石神井城近くの愛宕山に陣を張り石神井城と対峙
- 4月18日 一旦和平交渉が結ばれた。しかし、豊島氏側が条件であった「城の破却」で濠を埋め始めたが、遅々として進まず、道灌は豊島側が援軍を期待した時間稼ぎと判断した。
- 4月21日 道灌は攻撃を再開、外城が攻め落とされたため、泰経はその夜城を捨て逃亡した。
- 1478年 (文明10年) 1月 泰経は平塚城で再起を図るが、再び道灌が攻撃に向かったため、道灌が膝折宿に着陣したところで泰経は足立方面に逃亡し、以後は行方不明となっている(以前の通説では「丸子城(神奈川県川崎市)から更に小机城(神奈川県横浜市)へと落ち延びた」とされていたが、現在は多数の史家により、ほぼこれは否定されている)
- 1478年 (文明10年) 1月 危機感を抱いた顕定は、成氏と和睦交渉を開始する。
- 1478年 (文明10年) 3月 景春が河越城へ攻め寄せるが定正と道真がこれを撃退した。
- 1478年 (文明10年) 3月 道灌軍は小沢城を攻め、二宮城の大石憲仲が降伏し、続いて溝呂木城、磯部城、小沢城が落城。
- 1478年 (文明10年) 4月 小机城の矢野兵庫助が長尾景春と示し合わせて河越城攻撃。太田資忠と上田上野介の軍勢が河越城から出撃してやぶる。4月には小机城も攻略。
- 1478年 (文明10年) 4月 景春は五十子を出陣して利根川を渡り、顕定と定正の軍を鉢谷原で攻めるが撃退される。
- 1478年 (文明10年) 5月 道灌は顕定・定正と合流して五十子を奪回。用土原の戦いで景春を撃破。鉢形城を囲むが、成氏が出陣したため撤兵。
- 1478年 (文明10年) 10月 道灌は景春の本拠である上野へ侵攻。塩売原で1カ月間対陣するが決着がつかず、11月に双方撤兵した。
- 1478年 (文明10年) 12月 道灌は和議に反対してなお反抗をつづける千葉孝胤を境根原合戦で破る。
- 1479年 (文明11年) 成氏は幕府とも和議を申し出、1483年 (文明14年) に幕府と成氏との和睦 (都鄙合体) が成立し、成氏が関東を統治、伊豆の支配権については政知に譲ることになり、古河公方と幕府公認堀越公方が並存する状態が続くこととなった。
参考文献
- 練馬を往く (1983 練馬区教育委員会)
- 練馬区史跡散歩 (1993 江幡潤)
- 練馬区の文化財 指定文化財編 (2016 練馬区地域文化部)
- 練馬区史 歴史編 (1982 練馬区)
- 練馬区史 現勢編 (1981 練馬区)
- 決戦 豊島一族と太田道灌の闘い (2021 葛城明彦)
- 豊島氏千年の憂鬱 (2005 難波江進)