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兜の下

2023.07.27 04:38

https://yeahscars.com/kuhi/muzanyana/ 【むざんやな甲の下のきりぎりす】より

むざんやな かぶとのしたの きりぎりす

むざんやな きりぎりすになった英雄

むざんやな甲の下のきりぎりす松尾芭蕉、1689年(元禄2年)の「おくのほそ道」の「小松」に現れる句。曾良旅日記では、7月25日(新暦9月8日)に、多田八幡に詣でて斎藤実盛の甲冑と、木曾義仲願書を拝んだとある。この日は快晴も、夕方に雨が降っている。

斎藤実盛とは、「平家物語」に「実盛最期」として一章を成す越前出身の武将で、木曾義仲を育てた。しかし平氏に仕え、木曾義仲追討のため北陸に出陣し、加賀国の篠原の戦いで討ち取られた。最後の戦いと覚悟していた実盛は白髪を黒く染めており、はじめはその正体が分からなかったが、首実検で実盛と知った義仲は涙を流したという。この時、部下の樋口次郎が「あな無慙。長井斎藤別当にて候ひけり」とつぶやいている。謡曲「実盛」では、「あな無残やな。斎藤別当にて候ひけるぞや」。

ところで、ここに現れる「きりぎりす」は、今にいうキリギリスではなく、コオロギのこと。このコオロギが、実盛に同情して泣いていると解釈され、この句の意味は、「無残な歴史があったものだな、なあ、甲の下で鳴く蟋蟀よ」というような感じで解釈されることが多い。

けれども、実盛は稲を食い荒らす害虫になったとの伝承があり、コオロギに形が似ているイナゴを実盛に見立てて詠んだ句だと考えると、時の流れが英傑を害虫に貶めた無残が浮き上がる。

はじめは「あなむざんや甲の下のきりぎりす」だったと考えられており、「卯辰集」には以下のように載る。

多田の神社にまふでゝ、木曾義仲の願書並実盛がよろひかぶとを拝ス。三句。

 あなむざんや甲の下のきりぎりす 翁

 幾秋か甲にきへぬ鬢の霜 曾良

 くさずりのうら珍しさ秋の風 北枝

また、猿蓑には「むざんやな甲の下のきりぎりす」で載るが、「加賀の小松と云処、多田の神社の宝物として、実盛が菊から草のかぶと、同じく錦のきれ有。遠き事ながらまのあたり憐におぼえて」の詞書がある。

以下は「おくのほそ道」より。

  小松と云所にて

 しほらしき名や小松吹萩すゝき

此所、太田の神社に詣。実盛4が甲、錦の切あり。往昔、源氏に属せし時、義朝公より給はらせ給とかや。げにも平士のものにあらず。目庇より吹返しまで、菊から草のほりもの金をちりばめ、竜頭に鍬形打たり。実盛討死の後、木曾義仲願状にそへて、此社にこめられ侍よし、樋口の次郎が使せし事共、まのあたり縁起にみえたり。

 むざんやな甲の下のきりぎりす


Facebook相田 公弘さん投稿記事 「神様がくれたさつまいも」海老名香葉子

昭和二十年三月十日、東京が米軍による大空襲に遭い、たった二時間のうちに十万人が亡くなりました。

早いものであれから六十年。当時十一歳だった私も七十歳になり、これ以上齢を重ねては、戦火の恐ろしさと平和の大切さを後世に伝えることができなくなる。

私は戦火を逃れるため、昭和十九年に静岡県沼津市のおばの家に一人で縁故疎開しました。

出発当日、私は大好きなおばさんの家に行けるとわくわくしていましたが、母は涙をぼろぼろこぼしながら、お守りを首からかけてくれると、「かよちゃんは明るくて元気で強い子だから大丈夫よ」と何度も、何度も言うのです。

母があまりにも悲しい顔をしているので、だんだんと心細くなってきました。

「母ちゃん、友達ができなかったらどうしよう」と呟くと、母は私の心細さを取り払ってくれるかのように、「大丈夫よ。あなたは人に好かれるから大丈夫よ。明るくて元気で強い子だから大丈夫よ」と何度も何度も繰り返しました。

それが最後の言葉となりました。

空襲後、生き残ったのは疎開していた私と、すぐ上の兄・喜三郎だけでした。

兄は家族五人が亡くなったことを伝えるため沼津までやってきましたが、きっと焼け爛れた死体の山をまたいで、汽車にぶら下がるようにして東京からきてくれたのでしょう。

その夜、私は兄にしがみ付きながら、いつまでも泣いていました。

戦中戦後の動乱で誰もが生きていくのに精一杯の時代、二人もおばに世話になるのは悪いと、

兄はあてもなく東京へ戻り、私は引き続き沼津のおばの家に残りました。

そのあとは東京・中野のおばのもとへ身を寄せました。どうにか置いてもらおうと一所懸命お手伝いをしましたが、ある冬の日、瓶に水を張っていないという理由で、おばにものすごく叱られました。

それまでは「いい子でいなくちゃ、好かれる子でいなくちゃ」と思っていましたが、その日はひどく悲しくなって家を飛び出しました。

向かったのは、昔家族で住んでいた本所の家の焼け跡でした。

焼け残った石段に腰を下ろし、ヒラヒラと雪が舞い散る中、目を閉じると家族の皆と過ごした平和な日々が蘇ってきました。

「どうしてみんな私を一人にしたの?もうこのままでいいや……」

その時、一人の復員兵が通りかかりました。

私の前で立ち止まり、鞄の中から一本のさつまいもを取り出したかと思うと、半分に割って差し出しました。

「姉ちゃん、これ食べな。頑張らなくちゃダメだよ!」

物が食べられない時代、見ず知らずの人が食糧を分けてくれることなど考えられないことです。

私は夢中になって頬張りましたが、ふとお礼を言うのを忘れたと気づき、振り返りましたが、

もうそこには誰もいませんでした。

いまにして思うと、あれは神様だったのかもしれません。

神は私に「生きよ」と告げたのだと思っています。

さつまいもを食べて元気になった私は、走っておばの家に戻りましたが、しばらくするとその家にもいられなくなりました。

伝手で転々とする中で、つらいことはたくさんありました。

でも拗ねたり、挫けたり、横道に逸れるようなことはしませんでした。

それは両親に愛された記憶があるからです。

悪さをしたら父ちゃんが悲しむ、こんなことで泣いたら、別れ際に「かよちゃんは強い子よ」

と言ってくれた母ちゃんが悲しむ。

それが生きる支えとなり、いつも笑顔で生きてきました。

平和な時代に生きるいまの人たちには、子どもをいっぱいいっぱい愛してやってほしいと思います。

親に心底愛された子どもは、苦境に遭っても絶対に乗り越えていけます。

そしてもう二度と戦争によって私のような悲しい思いを、地球上のすべての子どもたちにさせられません。

それが戦後六十年の節目に願うことであり、私のすべての活動の原動力になっています。

致知2005年8月号より