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自然に任せる

2023.07.19 13:12

Facebook近藤裕子さん投稿記事  🍀🍀川の流れのように🍀🍀

「よしあしの 中を流れて 清水かな」江戸時代の禅僧「仙厓」が残した歌です。

「よしあしの」は「善いこと悪いこと」を、水辺に生えるよし(葦)とあし(葦)にかけて、世の中には善いことも悪いこともある、その中を流れる水のように 人の心も清らかなれ と説きました。

よしもあしも(多分同じ葦)水を清らかにします。悪を嫌うだけでは、清らかな心は生まれません。

フランスの哲学者パスカルは人間を、考える葦と表現しました。

人のうわべばかり見て 良いだの悪いだのと、勝手な判断をしたりされたり。。。 そんな狭い了見を捨てて とうとうと流れて行く水のように 大らかに生きていきたいものです。


Facebook清水 友邦さん投稿記事

医者から肺がんであと3ヶ月の命と宣告された今田さんは八幡平の奥のブナの原生林に入りました。

どうせ死ぬんだからといって着ていたものを全部脱ぎ捨て素っ裸になって 夏から秋にかけて四十日間 森の中で木になる気功をしました。

ある日樹木に成りきって立っていると、体中が「シャワーン」という感じがして痛みがスーッと消えました。

そのまま気功を続けると、末期の肺癌が自然退縮したのです。

長年悩んでいた症状が消えるとき、患部で不思議な音を聞く人がいます。

このシャワーンという音は内なる自然と外なる自然が共響して流れた命の音なのです。

滞った気が通ると、苦しんでいた症状は消えてしまいます。

当然それは耳に聞こえる物理的な音ではなく、体が感じる音なのです。

樹医の山野さんは、何かが起きたときは 肌身離さず持ち歩いている木の葉や木の枝にお願いして治してもらっているそうです。

自然界は、一種類の生き物だけが繁殖しないように 木を枯らす昆虫が増えると、天敵が現れてバランスを保っています。

たくさんのいのちが生きている森が、健康な森です。

障害のある人も 働けない人も、 病人も 元気な人も 老人も 子供も 若者も

多様な人々が助け合って生きている社会が健康な社会なのです。


Facebook岡本 よりたかさん投稿記事· 「自然治癒力」

彼は、穏やかに眠ったまま、静かに心臓が止まったらしい。つらい報告だった。

遠くの知り合いが、知らないうちに亡くなっていた。

彼は昔から良く病院に通っていた。ちょっとした不具合でも、診察を受けるタイプだった。

たくさんの薬を飲み、その薬のおかげなのか、元気でどこも悪くないように見えた。

仕事はバリバリこなし、社会的にもそれなりの地位を得ている"やり手"でもあった。

だからこそ、人一倍健康に気を遣っていたのかもしれない。

しかし、そんな彼は50代という働き盛りの年齢で、この世を去ってしまった。

最近、身近な人の死をよく聞く。それだけ年齢を重ねたという事か。

なんだろう。それにしても違和感がある。

直前まで元気だった人が、ある日突然亡くなる。よくあることと言えばそうだが。

超過死亡数が増えている現状から受ける、単なる思い込みなのか。

大きなため息を吐いていたら、ある方からメッセージが届いた。

"何年も無肥料栽培を学んできたのに、なかなかいい野菜ができない"

そのメッセージもため息のような内容だった。

"隣の畑の人は肥料を使いながらたくさん収穫している。そちらの方が幸せなんじゃないだろうか"よくあることと言えばそうだろう。

それは…と返事を書き始めていたら、ふと閃くことがあった。

先に書いた友人の死の話と、この相談は一見全く関係ないようにみえる。だが、ある点で共通していた。どう生きるか。選択肢がある。

長く生きるためにできるだけ人間ドッグで不具合を見つけ、病に先手を打ちながら生きる。

いや、できるだけ医療や薬に頼らず、多少の不具合でも自力で治しながら生きる。

一見、前者の方が健康に見えるかもしれない。不安もなく、元気に生きているように見える。

しかし、自然治癒力という視点で考えた時、大きな病に打ち勝てるのは、後者の方ではなかろうか。

共通すると思ったのは、その自然治癒力という点である。

肥料を使えば確かに良く育ち、たくさん食べれる。それはそれで幸せだろう。

だが、野菜が持つ力、土が持つ力は無肥料の方が強い。

もし長生きしたいなら、僕はたくさん収穫できなくても、無肥料にこだわる方がいいと思う。

自然治癒力の高い土と野菜は、それを食べる人の自然治癒力を高めることになる。

だから、僕は彼女にそう返事した。

"今を見るか、先を見るか。その違いだと思う"

彼が病院通いが好きだったことを責めているわけではない。

だが、今の現状を見た時、僕は医療というものが、むしろ人々の寿命を縮めているように思えてならないのだ。

それにしても、この国はいったいどうなってしまうのか。

いや、決して諦めているわけではない。自分は自分の思うままに生きる。

この先どのようになろうが、僕の無肥料という生き方は変わらない。

それは、自然に任せる生き方とも言えるのかもしれない。

#本人の許可いただいて書いています


Facebook長堀 優さん投稿記事

その方は、九十歳近いご高齢の男性でした。  

 10年以上前に受けたがんの手術で声帯を失い、筆談を必要としたものの、認知機能も保たれ、とてもしっかりされた方でした。

 三人の娘さんは離れて暮らしていたため、普段は高齢の奥様との二人暮らしでした。

 しかし、誤嚥性肺炎を繰り返して体力がめっきり落ち、寝たきりとなったため、自宅への退院が難しくなり、急性期病院から当院に転院されてきました。

 自宅への退院希望が強かっただけに、コロナで家族との面会すら厳しくなった状況に落ち込む一方でした。

 しかし、自粛も解除され状況が改善してきたため、離れて住む娘さんたちにも協力をお願いし、一度思い切って外泊してもらいました。

 本人の喜びも大きく、とても元気になったので、先日もう一度外泊を予定しました。しかし直前に呼吸状態が悪化し、外泊は中止とせざるを得ませんでした。

 本人の落胆はいかばかりかと私は心配しましたが、娘さんが本人に伝えると、あに図らんや、もう理解していたのか、筆談で一言、「もう終わりにする」と伝えてきたそうです。

 あまりにもキッパリとされていたので、娘さんは思わず、「人生のこと?」と聞いたそうです。

 すると御本人は、しっかりとうなづいたと言います。

 その瞬間、娘さんは、本人が死を受け入れたことに気づき、覚悟が定まったそうです。

 その後に行われた私との面談では、奥さんも三人の娘さんも意見は同じでした。

 「後はもう苦しまないようにしていただけたらもう充分です。私たちも受け入れる準備ができました。」

 「前の病院からは追い出されるように退院させられたのに、このように受け入れてくれる病院があるなんて、ここにこられて本当に良かったです。」

 涙を拭きながら、皆それぞれに同じ思いを伝えてくれました。

 「このお年まで、重い病気をいくつも乗り越え、本当によく頑張ってこられましたね。お父様の最後の態度はじつにお見事です。

 ここまできたら、もう苦しみを感じることはありません。大丈夫ですよ。ねぎらいと感謝でお送りしましょう」

 私は、もう病気について語る必要はありませんでした。

 「聴力は最後まで保たれています。ご家族の御言葉は間違いなく届いてます。面会の時はしっかり話しかけて感謝を伝えてくださいね。」

 それから一週間、いつ訪室しても、必ずどなたかが面会にきていました。家族を愛されていたことがよく分かります。

 逝きかたは、その方の人生そのもの、家族を愛していた方は、愛の中で旅立って行かれるのです。

 お見事な逝きかた、そしてお見事なお見送りでした。

 死亡診断書の死因は「老衰」でした。病気で亡くなったのではありません。最後まで力強い意志とともに生き切ったのです。

 診断書の最後の欄に、私は迷わず「ご立派な大往生でした」と書き添えました。

 死は敗北ではない、治すことだけが医療の役割ではない、あらためてその思いを強くしました。