境界性パーソナリティ障害(境界例)
医学部を卒業して勤務した精神科病棟には境界性パーソナリティ障害の患者さんが大勢いた。私が「心の父」と慕っていた故岩崎徹也教授が境界性パーソナリティ障害(境界例)の治療と研究の第一人者だったからだ。
医者になった最初から、大量服薬、リストカット、時には逃亡といった行動化を引き起こせる患者さん達に、何もわからない研修医が関わることになった。彼らの言動、態度、行動は私の心を動かし、秋には落ち込むくらい辛かったが、かなり勉強もした。
境界性パーソナリティ障害は行動化(リストカット、大量服薬、異性との乱脈など)があり、私はうつ病や統合失調症に比べると、ただ薬を出すだけという治療では意味がなく、精神科医の中には対応できない人も未だにいるし、それどころか診療を嫌がる人さえいる。以前、某病院で「境界例はお断り」と看板が出たことには憤りを感じた。
境界例の「感情」を理解できれば、その苦悩に多少なりとも共感できると私は思う。彼らを追い詰めるのは「突然の凹み」(専門用語では突然の気分変調)だ。それは突然やってくる、その凹みは「生きている価値などない」「死んだほうが楽になる」といった「どん底」まで、自己価値を引き下げる。この凹みをコントロールするための薬が効く人もあれば、効かない人もいる。
今でも忙しい外来の中で境界例に可能な限り関わろうとしているのは「突然の凹み」が多少なりとも解るからだ(そう思っているだけかもしれないが)。それは、自分が大学生時代、午後になると「闇の感情」(当時はそう命名していた)空虚、虚無、寂寥、孤独など、よくわからない感情の襲われいたからだ。今は自己分析してその理由はわかるが、あの頃は、闇の感情が出ると、夕方から飲み始め、パチンコにいき、帰ってまた飲むような自堕落な生活だった。高額の授業料の医学部授業もサボってばかり、罪悪感でまた飲んで悪循環となった。いわゆる「退廃ベルトコンベア」の発動である。
あの体験が、多少なりとも治療に生かされている(と思う)。
境界例の治療と研究での二大巨頭は米国にいる。一人は岩崎徹也教授の恩師である、O.カーンバーグ博士、もう一人はJ.G.マスターソン博士である。私は二人の著作で勉強したが、いまでも心を打つのはマスターソンの「見捨てられ感情」の記載である。
精神医学における六人の黙示録の騎手――抑うつ、怒り、恐れ、罪責感、孤立無援感、そして空しさと空虚感――は、感情的影響力と破壊性という点で、もともとの四人の騎手――飢餓、戦争、洪水、疫病――のもたらす社会的混乱と破壊性に匹敵している。
彼らの見捨てられ感情(抑うつ、怒り、孤立無援感、恐れ、空しさ)は、ウクライナで砲弾怯える少年や少女、敵国から拷問や侮蔑をうける苦通、それくらい過酷な体験であるがゆえ、見捨てられ感情を体験するなら死んだ方がましだと思ってしまう。ただ、理解すすめば、その感情は「待つ」ことで改善する。
彼らは、この感情が「靴紐がほどけたから」くらいで、やってくるから辛いのだ。