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自然が放つエネルギーを感じる

2023.07.20 07:43

三宝出版@sampoh_official

耳を傾けよう 心にはあなたがあなたでなければならない所以(ゆえん)を明かす声が響いている 内を見つめよう 心にはあなたがあなたになるためのただひとつの道が開かれている


Facebook一指 李承憲(イルチ イ・スンホン)·さん投稿記事

森や小川などの自然の中で焦点を合わせずに周りを眺めてみましょう。

すると、自然が放つエネルギーを感じることができます。

空気に浮かぶ小さな光の粒が見えたり鳥の声や水の音が聞こえます。

一本の木、一輪の花ではなく森全体が感じられます。

出あうものをただ「そのまま」感じてみてください。

無心に、見えるもの聞こえるものをすべて受け入れてみましょう。


https://minamiyoko3734.amebaownd.com/posts/13972434/【半目だと寝やすい。仏の顔も、半眼半口】

https://ranyokohama.amebaownd.com/posts/3983612/ 【言霊学・十字真言】

https://ranyokohama.amebaownd.com/posts/2966906/ 【阿吽の呼吸】

https://lifeskills.amebaownd.com/posts/3674709/【阿字観(あじかん)2】


https://www.sakigake.jp/special/2020/haiku/article_21.jsp 【全集中」で情景描写】 より

 映画『鬼滅(きめつ)の刃(やいば)』が大評判です(秋田では「鬼滅」より『泣く子はいねぇが』ですね)。「鬼滅」に「全集中の呼吸」という、肉体強化のための呼吸法が出て来ます。我田引水ですが、この「全集中」という考え方は俳句にも使えそうです。たとえば眼前の情景を見て一歩踏み込んだ句を作るには、情景の要諦を捉える集中力が必要です。たとえば次の句のように。

 夏草に延びてからまる牛の舌 高浜虚子

 草を食う牛の姿。ちょっと見にはただ無造作に詠んだだけのようですが、「からまる」とまで見届けるには集中力が必要です

 夏草に黄色き魚を釣り上げし 虚子

 釣り上げた魚がドサリと草に落ちた。「釣り上げし」から大きな魚が想像されます。てらてらと濡(ぬ)れた「黄色」が生々しい。ぼんやりと眺めていただけでは「おや魚が釣れた」で終ってしまう情景ですが、そこに集中力を向けると「黄色き魚を釣り上げし」という発見が生れます。

 今回は投稿作品の中から、情景を詠(うた)った句を取り上げます。

景の要所を捉える

アスファルト黒し雪掻き止められぬ

 高畠佳代子さん(50歳、石川県白山市)の作。掻き続ける雪の下にアスファルトの黒っぽい色が見えて来た。もうひと頑張りです。「アスファルト黒し」が発見です。舗装の色など当り前のこととして見逃してしまいそうですが、そこに意識を集中させると「黒し」という景の要所が見えて来ます。句の形の上では「黒し」という句中の切れが歯切れ良い。より客観的な書き方にするならば、

アスファルト黒し雪掻き続けをり

ですが、やや淡泊な感じになります。

あえて力を抜く

雪下ろし湯気が上がるや友の髪

雪催もよい行き交う人の襟高し

 高橋洸貴さん(30歳、大仙市)の作。屋根の雪下ろしをする友の髪から湯気が上がっている。汗をかいているのでしょう。二句目は寒々と行き交う人々の襟に着目しました。何か特徴的なことはないかと、情景に意識を集中した結果、友の髪や襟が目に飛び込んで来たのです。より平坦(へいたん)な書き方をするならば、

雪下ろす友の髪より湯気上がる

襟高く人の行き交う雪催もよい

 となります。ズバっと言い切った元の句のほうが良いと思う人のほうが多いと思いますが、肩の力を抜いた平坦な詠み方も捨てがたいものです。

細部に集中する

子の頬のうぶ毛輝く小春空

 安田有紀さん(34歳、潟上市)の作。この句も子供の姿を詠うのに、頬という細部に集中し、さらに微細な「うぶ毛」に着目しました。微細な対象を詠った中七から、下五の「小春空」の広がりに転じたところが巧みです。

ふゆすずめぬかをたべてるぬかだけを

 丹野千鶴さん(高清水小1年)の作。大人なら〈糠(ぬか)を食ふただ糠を食ふ冬雀(すずめ)〉とでもするところでしょう。この句、冬の雀をじっと観察しました。「全集中」して見ているうちに、その雀が糠ばかりを食べていることに気がついた。精米所のそばなのでしょうか。俳人は雀に集中し、雀は糠に集中している。その結果「ぬかをたべてるぬかだけを」というフレーズが生れました。十七音のうち、Uの音が六音(フ、ユ、ス、ズ、ヌ、ヌ)もあって、音読したときの音の響きも「集中」した感じがあります。


Facebook北條 毅さん投稿記事

神社が好きです。

これまで、いくつもの有名な、そして無名の神社にも足を運んできました。

こう言うと、「どんなお願い事をしたんですか?「どんなご利益がありましたか?」

そう聞かれることがあります。

または、「御朱印を集めてるんですか?」そう言われたりもします。

でも、そのいずれでもないんですよね。

ご利益があるからつまり、現実的な見返りがあるからそこに行くわけじゃない。

何か形のあるものがほしいからわざわざ足を運ぶわけじゃない。

神社に行くと「ご由緒書」というその神社の成り立ちを記したもの目にすることがあります。

もちろん、それには目を通します。

けれど、そこに書かれた一字一句が事実だとは思いません。

例えば、同じ映画を見てもその感想の言葉は、人によって全く異なるように

誰かが言語化した言葉は必ず、その人の意識のフィルターを通したものになる。

同じ世界を見ていてもその世界をどう見ているかその世界をどう表現するかは人によって、立場によってバラバラに異なっていく。

陰謀論とかじゃなく 誰が仕組んだとかじゃなく それがこの世界の当たり前の「構造」なんですよね。

良いとか悪いとかじゃなくただ、そういうものなんです。

だから、ご由緒書の言葉がすべてだとは思っていません。

僕が見ているのは僕が見たいのは、その言葉そのものじゃない。

本当に見るべきものは形になっているものの、その周辺にこそある。

真実は、形になっていない部分にこそあると思っています。

神社という建物を見ることが目的なんじゃない。

現実的な利益を求めることが目的なんじゃないし

御朱印という形あるものを得ることが目的なんでもない。

神社という「場」に触れること。形あるものの、その周囲に見えないけれど、確かに「在る」

様々な力場に触れることご由緒書の、その背景にある「書かれていない事実」に思いを馳せることその、形にならずだからこそ本質的な「体験」を求めて僕は神社という「場」へと足を運ぶんです。

3次元というこの現実を生きているからこそ形あるものは、とても重要なものです。

けれど、だからこそ 同時に、その「形あるもの」がすべてではないことを「形あるもの」の、「具体的なもの」のその奥に、あるいはその周りにある「形ないもの」にこそ

真実が隠されているということを感じる取ろうとすることが大切だと思うのです。

いま、この時代だからこそ特にね。

形あるもの、具体的でわかりやすいものを信じすぎないこと。

それはあくまでも、ひとつの見方であって世界はもっと大きく複雑なものだということを

受け入れること。

形あるのも、わかりやすいもののその外側にこそ、本当の世界の姿はある。

何を信じ、どんな世界を見ているのかがいま様々な出来事によってそれぞれの世界で

誤魔化しようもなくあらわになってる。

世界はきっと、あなたも、僕も想像しているよりずっとずっと大きくて、複雑で多様性に満ちあふれながらそのすべてが大いなる流れの中にある そんなものなんだと思うから。

すべてが想像の範囲内のわかりきった世界なんてつまらない。

想像を超えた世界にこそ僕らは生まれ、生きているんだと思うんだ。

そう思ったほうが、楽しいよね?

この世界を閉塞した息苦しいものだと思うのかそれとも想像を超えた、可能性にあふれたものだと思うのかどう思おうと、それは自分次第だ。

それなら、楽しい方を面白そうな方を選んだほうがいいよね。

僕は、そちらを選んでいきたい。


エドワード・バッチ@edwardbach924

真理とは、分析したり、言い争ったり、多くの言葉に覆い隠される必要のないものです。一瞬にしてそれとわかる、人間の重要な一部です。


Facebookさん相田 公弘投稿記事

「捨の修行①」 坂村真民

 年をとると、どうして駄目になるのか。

 これだけはじぶんが年をとらねばわからぬことである。

 どんな英雄でも、年をとって駄目になり、その栄光の歴史を、晩年で汚している。

 そのわけは一言でいえば、自分を捨てきれないからである。

 捨てるということが、どんなに大事であるか、そしてどんなに難しいことであるか、

 かつての柔軟な魂を喪失し、頑固さだけが残り、一切の判断が齟齬(そご)してゆくのである。

「捨の修行②」

 仏典も聖書も捨を言う。

 だから究極はここにこなくてはならぬ。

 でも、ここにくることの何と至難なことであろう。

 大変な行を積んだ人でも、その行からきた名声地位を捨てきらずに駄目になってゆく。

 (中略)

 人間は修行を怠ると一ぺんに駄目になる。捨にも修行が大事である。


坂村真民bot@shinminbot

本当の愛はタンポポの根のように強く タンポポの花のように美しい そしてタンポポの種のように四方に幸せの輪を広げてゆく