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命はいつも生きようとしてる

2023.07.22 08:19

Facebook西岡 範男さん投稿記事

『 ナターシャ・グジー 防人の詩 ・命はいつも生きようとしてる 』

果たして千年後、二千年後、地球に人はいるでしょうか。もしいたとすれば、それは有史以来 戦争史であった人類史が、いつの日か戦争を無くしえた晴れやかな証しとなります。人類が戦争を許容する世界の社会構造や政治構造を根低から変革し得た結果です。今や戦争は地球を壊滅しうる核爆弾や恐るべきAI兵器が凄まじい勢いで破壊力を増し、いざ起きれば人類の存亡に係わります。愚かさと人間性への冒涜の極みである戦争!。『防人の詩』は映画『二百三高地』のテーマ曲です。日露戦争の小山一つの争奪戦で、各々掛け替えのない物語を持つ日・露の庶民3万2千人が死んだ悲劇の舞台で、全ての戦争が持つ不条理から、人間の『生命のきらめき』と『言葉で見えない望み』を守護する。この志の無数の支流は大河となり未来を歩く人々に人類の希望を托します

https://www.youtube.com/watch?v=EaDVwFePUIU

エドワード・バッチ@edwardbach924

本当の喜びとは、日常の単純な物事の中にあります。なぜなら、単純なことこそ、大いなる真理に近いからです。


三宝出版@sampoh_official

昨日も今日も迷うな迷うなと大地は支えてくれる

今日も明日も恐れるな恐れるなと天空(そら)は励ましてくれる


http://www.asahi-net.or.jp/~nu3s-mnm/wa-ku_memenntomori.htm【死のワークショップ】


夏のある日 らん(犬)は階段をあがれなくなりました。どんなに努力しても足に力が入らなくなったからです。悲しい鳴き声を上げましたが 階下にらんの寝る場所を用意すると 黙ってそこで寝ることに決めました。

自分の死期を悟り、受け入れたからだと思います。

それまでは雷が鳴るとぶるぶる震えていたのに 全く動じなくなりました。

何も怖いものが亡くなったという感じです。

それからは散歩に行っても道の真ん中で伏せこんだり・・・・・

何も食べられない日が一日。

次の日、和多志が外出中に命を引き取っていました。

まるで家族の帰りを待ちわびるがごとく、玄関先で遺体となっていました。

「寝ているのか?」と思い、身体に触ると冷たく硬直していました・・・・・

らんの魂は 古い身体を脱ぎ捨て 新し命を得る準備をしているのでしょうか?

「奇跡の脳」の著者ジル・ボルト・ティラーさん(左脳出血から立ち直った神経細胞 学者)は 人間の脳は左脳が鎮まるとき「人生の思い出から切り離され、神の恵みのような感覚に浸り、心が和んでいきました。」「意識は悟りの感覚、 あるいは意識と融合して『ひとつになる』ところまで高まっていきました。」「心地よいのです。」と 語ります。

考えと感情が止まることは 左脳が鎮まることを意味します。

「メメントモリ」は「死を覚えよ」という意味の修道院での挨拶です。

シナイ山の麓のカテリーナ修道院には 頭蓋骨だけが沢山おさめられた部屋があります。 

死を覚えて生きるとは いつ死んでも悔いのない生き方を志向するということです。

人生への未練から切り離されるということでもあり 死の瞬間にも 左脳が鎮まった 『ひとつに戻る』安らぎと心地よさを 失わないということです。


Facebook草場一壽 (Kazuhisa Kusaba OFFICIAL)さん投稿記事

墓碑銘

 日本のお墓に刻まれているのは、多くが「◯◯家代々之墓」とか「南無阿弥陀仏」ですが、神道では「○○家奥都城(おくつき)」と刻まれたものもありますし、最近は、「ありがとう」とか「愛」など、故人への感謝の言葉も見られるようになりました。

 墓碑銘の起源は、古代エジプト時代まで遡るそうで、故人を偲ぶ思いを込めたのですね。

世界最古(紀元前1~紀元前2世紀)の楽曲といわれているものも、トルコで見つかったお墓に彫られたものです。セイキロスの墓碑銘と呼ばれ、墓石には歌詞が刻まれ、歌詞の行間には古代ギリシアの音符による旋律の指示があるそうです。

 生きている間は輝いていてください

思い悩んだりは決してしないでください・

人生はほんの束の間ですから

そして時間は奪っていく物ですから

セイキロスが妻に捧げた歌で、楽曲とともに「わたしは墓石です。セイキロスがここに建てました。決して死ぬことのない、とこしえの思い出の印に」と言葉が添えてあるそうです。

フランスの文豪・スタンダールの「生きた、書いた、愛した」というのは有名な墓碑銘ですね。それにならってか、寂聴さんは生前から自分の墓碑銘を「愛した、書いた、祈った」と決めていると言われていました。

死者への変わらぬ愛を示したい、死者からの贈りもの(まぎれもなく、その人の人生そのものですが)に応えたい・・・。

自分が生きているということは、死によっても分かつことできないものがあることの証明ではないか、そんなことを思ったりします。弔うとか悼むという言葉とともに湧いてきた思いです。お盆が近づくと、この世とあの世が地続きになるのだと言った人がいましたが、そう願うこころがきっと近づけるのでしょう。