氣づき
Facebook清水 友邦さん投稿記事
過去の失敗を引きずっている自分と、今ここにいる自分の二種類の自分がいます。
過去を引きずっている自分は認めてもらえなかったり、誉めてもらえなかったり物事が思い通りにならない事にイライラしたり怒ったり、悲しんだりしています。
ほとんどの人が自我の壁を厚くして過去の記憶に触れないようにしています。
そして、何事もないと、自分は幸せだと思い暮らします。
しかし、誰かに、自尊心を傷つけられたり、物事が思い通りに行かないと、とたちまち奈落の底に落ちてしまうのです。
ほとんどの人が過去を引きずっている偽りの自分を自分だと信じ込んでいます。
今ここにいる自分は海の底のように常に静かです。今ここには時間と空間がありません。
無限の広がりと永遠だけがあります。そこには深い沈黙があります。
全てを許して包み込む愛があります。
過去を引きずっている自分をちょっと静かにしてもらえればいいのです。
沈黙した瞬間、たちまち、いまここの自分に気がつきます。今ここの呼吸に集中することで沈黙が起きます。複数の人々に沈黙が起きると、その場に沈黙のスペースがおきます。
集団の中で沈黙が発生するとその場にいた個人にも沈黙が起きます。
グループ・ダイナミクスで起きる沈黙はレゾナンスという共鳴現象です。
炎から炎へイグニッション(点火)が起きるようなものです。
沈黙が起きると、考えたその瞬間に、思考を観察する気づきが突然現れます。
禅の修行も瞑想もした事も無い普通の主婦に気づきが起きるので、誰でもそれは起きると言う事です。
思考に気づいている意識は、目覚めた意識と呼ばれています。
透明な知性をそなえた大いなる自己のことで、観照者、目撃者、真我と呼ばれています。
目が醒めると、今まで眠っていたことに気がつきます。
そして意識的に、目覚めたまま眠りに入ることが、できるようになると、夢を見ているものだけが夢ではない事を、理解します。
それ以外の全ては、夢のように現れては消え去る実体がないものです。
全ては現れては変化し消えてゆくのが、この物質世界であり、現象世界です。
自己の本質は、肉体でも感情でも思考でもありません。
悲しみも喜びも、雑念も静けさも気づきのスペースで、ただ、あるがままに起きています。
それらは、来ては去って行きますが、自己の本質は、それに関わることなく、常にかわらず、いまここにあります。
光があたってもあたらなくとも、実際の月の形はかわらないように、思考があってもなくとも、瞑想をしてもしなくとも、あなたの本質は全く変わらずに、常に存在しています。
しかし思考が作り出している虚像に振り回されているために、その事に気がつきません。
悲しみや絶望に陥っても、本当の自分は変わることなく、常に今ここにあるのです。
それを確認するのが呼吸の道です。
https://lifeskills.amebaownd.com/posts/6673192/ 【アウェアネス】
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http://www.asahi-net.or.jp/~nu3s-mnm/ko-su_ri-da-yousei.html【リーダー養成コース】
http://www.asahi-net.or.jp/~nu3s-mnm/fasirite-ta-youseiko-su.htm【ライフスキルプログラ ファシリテーター養成プログラム】
卑屈やコンプレックスは 自分と他人を区別し、無智ゆえに「自分だと誤解している自分」だけを愛する自我執着によると言われます。
縁起の法ではすべては相互に依存し 他から独立した固定した実態は無いと教えられ、観音菩薩の教えでは 全てのものは仏の胎児であり、仏になる存在だと教えられました。
これが本来の自己イメージのはずです。
宇宙の有機的な相互作用はよく 小宇宙といわれる人体に譬えられます。
目には目の役割があり 排泄物には排泄物の役割があり 善悪を超えて 優劣を超えて 全体のバランスを保ちます。
然し排泄物にはなりたくないと思っている方は多いのではないでしょうか?
それでも自業自得、カルマの法則に従えば 顕在意識の願いを超えて自らの願いが 自らを排泄物に仕立て上げているといえます。
昔 結婚式に参列した時 新カップルへのはなむけの言葉として「胸のオシャレなハンカチではなく 足元の雑巾になる喜び」という話を聞いたことがあります。
雑巾は一見汚く、胸の飾りには決してなりません。然し穢れをふき取り、全てを浄化してゆきます。黙って耐える奉仕の心を象徴します。
言いかえれば愛するものの幸せを自らの幸せとする 喜びを生きる姿とも言えます。
ハンカチも雑巾も自らが選択する役割です。
唯識論では 全てのものは心の現れであると説きます。
排泄物であることもハンカチであることも 心の現れであるということです。
言いかえれば自分だと信じている通りに 自分が現れてくるとも言えます。
「自分だと信じている自分」は「自己イメージ」とも言いかえられます。
イメージがどれほど 自分の存在そのものを規定しているか見てみましょう。
アメリカで死刑囚に対してした実験があります。
被験者として応募した全員に目隠しをし 手首に刃物で切ったような刺激を与えます。(もちろん実際はきっていません)まるで手首から血のしずくが滴り落ちることを連想させるように 水滴が落ちる音を聞かせると 全員死んでしまったという報告です。
また薬のプラシーボ効果はあまりにもよく知られていることです。
全てのものは心の現れであると言われる以上 100% 望めば叶わないことはないとも言えるわけです。
逆に望まないのに 現象として 生じていると見えることは 潜在意識が望んでいることが形になったと考えられるわけです。
潜在意識、マナ識には自覚できない信じ込み 色眼鏡、仮面がひそみ続けます。
パーソナリティという言葉をご存じですね。その語源はペルソナ、仮面、役割という意味です。
社会に生きる以上 役割を負い、仮面をつけ続ける必然性があるわけです。乳児として、子どもとして、大人として、男として、女として、日本人として、、、、、、数えあげるときりがありません。
ですから潜在意識と顕在意識が真反対の願いを持っていたら 顕在意識の願いは決して決して叶わないということです。
潜在意識と顕在意識が乖離していて 顕在意識で頑張れば頑張るほど 心のアクセルとブレーキは同時に踏まれ続け 卑屈コンプレックスから 無気力にさらに自責の念、自己嫌悪、自殺と行きついてしまいます。
卑屈コンプレックスを超えるには 優劣に対する視点変更、マナ識の浄化、カルマの清算、自業自得の知恵が大切だと言えます。
それにより 誤った自己イメージから解放されるとも言えます。
優劣に対する視点変更は 「競争原理に従えば劣って見える人」が 「共生原理に従うと優れて見える人になる」そんな視点変更ともいえます。
自己一致、自分を愛すること(足るを知る=自分の役割個性を知り 利他のために生かす道を歩むこと)がベースにあれば 卑屈コンプレックスの罠にはまらずに済むのではないでしょうか?