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サポーターズ企画~子どもの頃読んだ本③~

2023.07.23 04:20

 こんにちは。あひるです。

 先日旅先にて、今日から夏休みぃと高らかに叫ぶお子さまをお見かけしました。皆さんに夏休みは来ておりますでしょうか。来ておりませんという方、どうかお身体に鞭をうたないようにほどほどにいきましょう。夏はまだ長いですから。

 さて4週連続と予告した、「子どもの頃に読んだ本」も3回目でございます。

 幼少から中学生までに読んだ本をテーマにした文章を、ポラン堂古書店サポーターズの友人たちから集めました、はねずあかねさん発案のこの企画。今回は梅子さん、です。

 学生時代に出会った当時からものすごい読書量を誇り、このブログにおいても何度も読書超人として協力してもらっていました。そんな彼女の子どもの頃の読書とは。

 ということで、梅子さんです。よろしくお願いします。





ラルフ・イーザウ『ネシャン・サーガ』 ~梅子さん~

 小、中学生のころに夢中になった本でで初めに浮かんだものは「ハリー・ポッター」シリーズでした。親という大人が子供と同じ本を読むのか、という衝撃とともに記憶に刻まれた偉大な書物なのですが、お小遣いでは中々手が出せず、当初は図書室という聖域から借りて読んでいました。

 あまりにも同じ本ばかり借りる我が子を哀れんだのか、親が突然炎のゴブレットを買ってくれまして、まぁ味を占めるのが子供ですよね。とにかく新刊新刊と毎年叫び、二巻や三巻を持たないままにいくつか学校を卒業したことは、笑って欲しい話です。

 「ハリー・ポッター」と長く付き合ううちに、様々な遊びや経験を見つけました。意味もなく文章をノートに写してみたし、ロナルドがロンになる謎を解き明かそうと必死になったし、ヴォルデモートの名前を読み間違えて覚えていて恥ずかしかったし、とにかく一冊ずつを長く楽しもうとしていました。

 どんなに翻訳時差が苦しくとも、もはや絵にしか見えない原書を買う勇気はなく、多感な時期に焦がれた時間は他の書物を圧倒していたと言っても間違っていないと思います。

 今も次々と思い出が溢れるシリーズでしたが、私にはどうしても不思議な事がありました。中学生で芽生えた疑問は、いまだに深く根付いています。

「どうしてみんな、ハリー・ポッターは知っているのに、ネシャン・サーガは知らないの?」

 中学校の図書室、窓下の太陽を避けて置かれた背の低い棚、ハリー・ポッターやダレン・シャンが並ぶ一番下の段に「ネシャン・サーガ」はあった。


 ジャンルで表すなら、ハイとローの間ファンタジーになるかもしれなくもない。限りなくハイファンタジーだと思っていたが、イギリスにつながっているので、ローになるかもしれないというあれだ。ファンタジーのややこしいところ。

 完全な異世界で世界を救うために裁き司の杖を持って冒険するヨナタンと、イギリスに住む車椅子の少年ジョナサン。二人の主人公と言いつつも、どうしたってヨナタン側のページ数が多い。

 片や、裁き司の杖を正しい場所に届けるための運び手に選ばれ、森を海を国を超えて世界の果てから果てへ旅をする。船乗りや、王子、優しく聡明なディン=ミキト達、頼りになる仲間と、素晴らしいマジックアイテムを駆使して使命を果たそうと前に出すヨナタンの一歩一歩から、目を離すことが出来なくなる緊張感や共有する喜び。何度も立ち塞がる強大な敵をすり抜け、時に打ち倒す。まさに王道。

 片や、小さい頃に患った病気の後遺症で車椅子生活をしているジョナサンは、病弱ではあったが聡明な少年で、祖父に愛されながらスコットランドの寄宿学校に通っていた。夢に出てくるヨナタンという少年と双子のように同じ時間をかけて成長したこと以外は、魔法も冒険も無い日々をおくっていた。だが徐々に、夢が現実を蝕み始める。ヨナタンが夢で過ごした時間分、ジョナサンは記憶を失うようになるのだ。だんだんと酷くなる記憶喪失は医学的な原因が分からないまま、ジョナサンから時間や生命力を奪っていく。ジョナサンを愛する者達の嘆きの中、ベットから起き上がる事もなくなった彼は未来に対する一つの選択を迫られる。まとめてみると、なんだか暗い。ジョナサンが明るい少年だからあまり悲観的に、ならなくもなかった。なった、悲観的に。本当になんでこの二人を並べて書くのか、はもちろん読めば分かる。読んでない人には言えない。だから私は誰にも言ったことがない。読んだ人に会ったことが無いもので。


 「ハリー・ポッター」の事はたくさんの人と話した。魔法について、生き物について、授業について、ありとあらゆる事を中学生の行動範囲内でも共有できた。だけど「ネシャン・サーガ」を知っている人に、中学生の私は出会えなかった。

 誰かと共有したい物語を一人で抱え込む制服姿の彼女が、今回のお題を知って「ハリー・ポッター」を振り返る私に叫んだ。

「こんなに面白いのに。ハリー・ポッターはみんな知っているのに、どうしてネシャン・サーガは知らないの?」

 あぁ、全くその通り。どうしてだ。


 「ネシャン・サーガ」には、選ばれたもの以外は触れない凄い杖や、動物と意思疎通ができるベーミッシュの核、切れ味が思いのままのナイフ等、ゲームやアニメでよく聞くようなマジックアイテムがたくさん登場する。

 私が一番心惹かれたのは、美しい薔薇だ。なんて書いてしまうと、初々しい十代の乙女心が発現した様に見えるだろうか。いや、違うのです。凄い薔薇なんです。

 この薔薇は、何も出来ない。鞭にもならないし、癒しの雫をこぼす事もない。毒も無いし、たぶん食べても美味しくない。薔薇はただ、相手に与える事しかできない。あなたにあげると言うことしかできない。ゲームに出て来たら、お金を稼ぐために売るか家に飾るかしかないアイテムだと思うだろう。だが「ネシャン・サーガ」の何も出来ない薔薇は、ただ与えることで相手に光をもたらし、持ち主の命あるかぎり色あせることはない。

 キリスト教色の強いこの物語において、薔薇は愛を指しているのだろう。唯一神が持つような絶対の愛を。受け取らなくとも与えられ、消すことが出来ない愛の恐ろしさを唯一神の側に立たない影達に示すため。

 受け取り手によっては、ものすごい嫌がらせが具現化した薔薇。嫌いな人から「あなたのことが好きです。この薔薇がある限り私の愛は無くならないよ」とか言われて渡された薔薇、枯れないのめちゃくちゃ嫌だ。読んだ時も感動した。


 あれほど血潮たぎる、手に汗握る、一体感のある冒険はない。少なくとも、中学生の私にはなかった。

 「ハリー・ポッター」とは長い付き合いになったし、大人になった目線ではまた違うように読めて楽しい。

 だが「ネシャン・サーガ」は、あの冒険は、中学生で出会えたのが一番いいタイミングだった。杖を持つヨナタンに着いて行く冒険を、間違いなく一番楽しめる年齢だった。

 今読んだらどう感じるんだろう。社会人になってから購入した本が、棚の中にはある。手に取るのは簡単だし、ページを開くのは容易い。だけど少しだけ不安で、私は何年も埃をはらうことしかできていない。

 ヨナタンはあの頃のままだろう。ジョナサンは同じ選択をするだろう。ベーミッシュは頼り甲斐のある友で、ゼトアは恐るべき敵だろう。ただ私が、私は当然に変わっている。

 その違いに直面する事が、本当に少しだけ、不安なのだ。





 ありがとう梅子さん。はたまたあひるでございます。

 あんなに面白いのに、『ネシャン・サーガ』を読んだ人に出会ったことがことがない、と梅子さんは熱く切なく私に語ってくれました。読んだことあるわい、って方がいらっしゃれば、どうぞポラン堂古書店お立ち寄りの際、一筆書置きを残していただきたいくらいです。

 ネット文化がなかった時代でしたし、もちろん子どもだからというのもあって、評判や有名さなんてわからないまま本を読んでいた時代でした。その中には物語やその印象が記憶にあるにも関わらず、タイトルや作者名など後に調べるための情報を忘れてしまったものもあります。

 梅子さんとはそんな思い出せない本についての話もしました。確かにあの頃の自分を形作っていたことは間違いないのに、もう二度と会えない本もある。読書っていうのは奥深いですね。

 ということで次回は「子どもの頃に読んでいた本」の最終回になります。

 よろしければまたお付き合いくださいませ。