偉人『北原白秋』
明治時代から昭和にかけて活躍した破天荒な詩人、童話作家、歌人の北原白秋の童謡はどれもこれも私にとっては思い出深いものばかりである。子供の頃から美しい日本語を聴かせようと母がよく歌ってくれていた。『からたちの花』『この道』『砂山』『ゆりかごのうた』『かやの木山の』など、また夕方母と買い物帰りに歌を歌いながら家路についた曲も多くが北原白秋だったように思う。『赤い鳥小鳥』『あめふり』『待ちぼうけ』『りすりす小栗鼠』なぜこんなにも心地よく味わうことができる作品を破天荒な白秋が生み出すに至ったのかもうこれを知らずして・・・という気分になった。だからこそ今回は北原白秋を取り上げることとする。
北原白秋は、1885年1月25日母の実家熊本玉名で誕生し間も無く福岡県柳川町に戻り水郷の町で育つ。江戸時代から栄えた造り酒屋と海産物問屋を経営する裕福な家の長男として生まれた。父の代で酒造業で財を成したものの、1901年の大火で酒蔵を消失し廃業した。
裕福な家柄だあったため白秋は乳母に育てられた。2歳の時乳母と共にチフスに罹患するも一命を取り留めたが、乳母はチフスで亡くなりその喪失感を抱えて育ったと言われる。白秋は中学の頃理数科目が苦手で落第したがその頃より文学への傾倒を強めていった。1904年父に無断で中学を退学し早稲田大学英文科へ進学した、この時期に射水と名乗り同郷の若山牧水、中林蘇らと共に早稲田の三水と言われ文壇の注目を浴びることとなる。
彼の詩には童謡とは異なる生々しく発刊になった作品もあれば実に難解な作品もあり、彼の破天荒で複雑極まりない部分と関係しているのではないだろうかと感じると同時に、この複雑な作品とは打って変わって抒情感満載の温かみに溢れている童謡はがなぜ作られたのかを考えてみる。
白秋は3度の結婚をしているが最初の妻は夫と離婚が成立していない女性と姦通罪で逮捕され名声を得ていた白秋は魔を地に落としたが結婚するも一年余で離婚、2度目の妻は同じ詩人であったが別の男性と駆け落ちされ離婚、3度目の妻は見合いで結婚した女性と一男一女をもうけ添い遂げた。
また仕事面では鈴木三重吉の勧めにより『赤い鳥』の童謡や児童詩を手掛けるように勧められ1918年以降は次々と童謡作品を生み出していった。小田原の芸者を総上げしての遊びや大酒飲みであったこと、女性との浮世の話も多くあり決してあの温かみ溢れる童謡からは想像し難い人物であるが、彼の童謡や唱歌に見る穏やかさや優しさは彼が少年期を過ごした柳川にあるのではないだろうか。
柳川藩11万石の城下町として栄えた美しい水郷の町柳川は昔ながらの白壁屋敷が続く街並み、お堀の周りを何気なく歩いてみると感じる風の吹き渡りに、水面に映り込む街並みや空の景色、水辺特有の草木や庭園などの景色こそが白秋の少年時代に影響を与え、水に溶け込むかの如く巧みに美しい言葉を同様に中に溶け込ませることができたのではないだろうか。そこに家族ができ親としての想いが反映された白秋独特の童謡の世界が広がっている。
例えば『からたちの花』は神奈川県の小田原でからたちの小道を妻と息子2歳の時に歩いている時に思いついた作品である。自分の前をゆく妻と息子を後ろから見ながら歩を進め、「ほら、白いからたちの花だよ。秋になると丸い身がなるのだよ」と教えたそうである。歌詞の中に「棘は痛いよ。青い棘だよ」と語る様子が想像でき、「からたちは畑の垣根だよ。いつもいつも通る道だよ。」と白秋親子がその垣根の横を歩いている様子が想像できる。これはこじつけといえばこじつけといわれても仕方ないのであるが歌詞の中には「からたちの側で泣いたよ」がある。奇しくも白秋自身が乳母を無くしたのは2歳、からたちの花を息子に見せたのも息子2歳の時である。実は彼の童謡以外の作品の中には2歳から17歳までの記憶を作品の源として描いている。低年齢であればあるほど記憶がないことが多いが白秋の場合はそこが一般人とは異なるところである。乳母と共に水郷の周りを散策したことがよみがえりこの作品に反映され、唐突に乳母を失った悲しみが「からたちの側で泣いた」ということに結びつけたのではないだろうか・・・・これまたまことに勝手な想像である。
『あめふり』は子供が産まれる前に小田原の花園幼稚園で発想を得て作ったそうである。歌詞の中にある「鐘が鳴る」は現在も花園幼稚園にあるそうだ。白秋は肋膜炎を患う妻の代わりに雨が降ると長男を花園幼稚園に迎えにいったそうであるが、長男が喜ぶであろうと拵えた手押し車に長男を乗せて楽しそうに自宅へと帰ったという。雨降りに登場するぼくは白秋の長男であり、また『ゆりかごのうた』は長男が生まれてくることを待ち望んで作ったともいわれ、『かやの木山の』ではかやの実を囲炉裏で焼いて子供と共に食べたそうだ。こう考えると彼の童謡の代表作は子供に対する思いから生まれている。白秋が好んだのは子供たちと近くの野山を散策することが好きで特に長男隆太郎のたわいない無邪気な言葉を創作活動のエネルギーにしていたという。数々の童謡の中に白秋は愛する我が子への想いを注ぎ込んでいるが、その思いは息子への期待が強く込められている。白秋の両親については多くの情報がないが彼が多くの愛情を子供や妻に注いでいることから子供時代はしっかりと愛情を受けて育っていることがわかる。また弟鉄雄も白秋が姦通罪で逮捕された時には二週間で牢から出す尽力を行なったことを考えれば、親子、兄弟共に関係性は密であったと考える。そうでなかれば白秋の父性性は成立していなかったであろう。そう考えると彼の童謡や子供に対しての詩から現代人は親子で心を通わす童謡や詩を味わい感じることができるのだ。なんと魅力的なのであろう。
日本における童謡の発祥は北原白秋らが活躍した大正時代と言われている。文学的で格調高い『からたちのはな』『この道』『城ヶ島の雨』『朧月夜』『浜辺の歌』などもあれば、現代人にも素朴で親しみやすさがある。そして白秋の童謡は『赤い鳥小鳥』『待ちぼうけ』『あわて床屋』など何と言っても子供たちが歌いやすい作品が多いのが特徴である。子供が捉えやすいフレーズを何度も繰り返し、歌の情景が思い浮かびやすく小さな子供にも理解しやすいという大きな特徴がある。きっと子供達と過ごすことで同じ言葉や行動を何度も繰り返すことを親として白秋は理解していたのだろう。だからこその作品を世に送り出せたのであろう。現代のイクメンだったのではないだろうか。そう北原白秋は親の愛情をしっかりと受けていたからこそ父性性の発動ができた文人であった。
最後に私が子供と楽しんだ北原白秋の童謡『かんぴょうのうた』を取り上げる。とにかくこの歌は子供受けし初めて聴いたら忘れられず歌いたくなるのだ。白秋が栃木を訪れ干瓢を干してある風景を見て生み出した作品と言われている。とはいえ干瓢が分からなければ歌の楽しさも分からない。というわけで我が家では生の大きなゆうがおの実を取り寄せて子供たちとピーラーで干瓢作りに励み、残りは味噌煮仕立てで食した。白秋の童謡から生きた童謡に転化した作品を一度お聴きあれ。