「宇田川源流」【宇田川教育論】 不登校と登校拒否の違いから理解すべきではないか
「宇田川源流」【宇田川教育論】 不登校と登校拒否の違いから理解すべきではないか
毎週水曜日は「宇田川教育論」か「大河ドラマ」に関してお話をさせていただいている。ニュースの解説ばかりでは肩が凝ってしまうので、一週間の真ん中は少し気を抜いた話ができるようにということで、大河ドラマに関しては「現在よりも過去について、そしてテレビドラマということに関して話をする」ということを、また「宇田川教育論」に関しては「若者を教育するということを通して、日本の将来を考える」ということをテーマにしている。要するに水曜日は、いつの間にか「現在ではなく、過去や未来を語る日」というようなテーマになりつつある。もちろんそのようなことをはじめから企画したわけではないのであるが、いつの間にかそのようなテーマになっている。
今週は「教育論」である。
その前に、今週の大河ドラマ「どうする家康」は、本能寺の変であった。それにしても本能寺の変の概念を全く変えるものではなかったか。本能寺の変に関しては先週書いているのであまり繰り返すことはないが、それにしてもイメージが変わった。もちろん、今回の展開は「家康が、築山殿の復讐を考えて信長を殺す」ということを考えていて、それを広められたうえで、明智光秀が「饗応接待の復讐」ということで信長を殺すというないようである。そして、秀吉は家康がやったと思い込み、そのうえで光秀が先にやってしまったということに多くの人が愕然とするというような感じではないか。
一緒に死んだ息子の織田信忠も関係ないし、全くテレビドラマ的な、狭い人数の中の物語になってしまっていたことには何となく残念な感じがする。一方で、家康と信長の複雑な心理的な関係は、うまく表現されているように思う。家康が襲われながらも、「信長」と叫ぶところや、父信秀と信長の邂逅などは、なかなかうまい表現である。
三年前の「麒麟が来る」とは全く別な解釈は興味深い。やはりテレビドラマとして楽しむような作品になっているということになるのである。
さて、ドラマの話はこの辺にして、教育論に移ろう。
“不登校数最多” 総務省、文科省に改善求める…学校側対応は不十分
小中学校の不登校の子どもの数が過去最多となる中、学校側の対応に不十分な点があるとして、総務省は21日、文部科学省に改善を求めました。
国は2017年に決めた基本方針で、不登校の子どもを再び登校させることだけを目標とせず、フリースクールなどに通わせることも選択肢としてあげています。
しかし、総務省が全国28の公立小中学校について調査したところ、学校側のおよそ8割はこうした国の方針を「伝えている」と回答しましたが、不登校の子どもを持つ保護者のおよそ6割は「知らなかった」と回答。「国の方針を知っていれば、学校以外の支援先を頼れたかもしれない」とする保護者が大半でした。
これを受け総務省は文部科学省に対し、情報提供や相談窓口の整備などを改善するよう求めました。
小中学校の不登校の子どもの数は9年連続で増加しており、2021年度には24.5万人で過去最多となっています。
7/21(金) 14:00配信 日テレNEWS
https://news.yahoo.co.jp/articles/47d7e4cd0c2ec5e61776bea5299bc72e084e59f0
小中学校の不登校が過去最多となっている。そして学校の対応が不十分であるということを文部科学省は考えていてその隊をう改善を求めるとしている。
しかし、そもそもそのほうな感覚自体がおかしいのではないか。残念ながら、文部科学省は現場を知らないだけではなく、お役所仕事・官僚仕事というようになってしまっているので、残念ながらこれでは解決できるものも解決できなかうなってしまうのではないか。
少し前の話であるが、教育現場にある通信制高校の理事長と話をしたことがある。その通信制高校の理事長において「役所は、不登校と登校拒否の違いが分かっていない」という。要するに「登校拒否」とは、自分の意志で投稿をしないということを決めている人々でありそこには自主的に判断した基準がありその基準に従って、自分の意志でいかないようにしている。逆に言えば、自分の将来の姿ということが見えていて、その自分の将来の姿において、現在の学校(小学校・中学校・高等学校かは不明であるが)は必要ないと判断しているということになる
当然に「大人」は「義務教育だから」「大人的価値観でいえば、学校に行った方がよいから」などの理由で学校に行くことを強制するし、また、「学校に行っていないという世間体を気にする」というようなところも出てくる。しかし、子供の価値観と大人の価値観は異なる。少なくとも大人の価値観が正しいということを説得できていないしまた、わからせてもいない。ただ「どのようなものでも年長者のいうことを聞くべき」というようなことでは、話にならないのではないか。
要するに、現在の学校には「子供たちの疑問にしっかりと答えられる大人がいなくなった」ということであり、それは学校の教員であっても同じである。それは、単純に「物事を記憶させる教育」を行っていることが問題であって、またそのような中で育ってきた教職員には、子供たちが何を悩みどのように考え、そしてその考えに対してどのように大人がアクセスさせてゆくのかということが見えていない。そもそも一人一人の夢がwかあっているのかまた、その夢を実現させてあげるだけの道筋を見せてあげられているのであろうか。別に子供の媚びる必要はないが、残念ながら、コミュニケーションが取れていないような気がする。
人間は将来の自分の姿を夢見る。神殿ならば将来は長い。その長い先の将来の夢を、どのように一緒になって考えられるのか、また、今は見えていない「将来の可能性」をどれだけ示してあげることができるのか。そのうえで、、そこに何が必要なのかということをしっかりと学ぶ必要があるのではないか。
不登校や登校拒否で、最も学ばなければならないのは、教育の現場、そして、文部科学省の役人たちなのである。多様性の時代で、それを政府が言っているのに、学校教育だけは多様性を認めずに画一的に行うということ自体が、間違っていると気づくのは、いつのことになるのであろうか。