倫理観のない経済学は、なぜ大間違いなのか
スモール・イズ・ビューティフルからエレガント・シンプリシティへ。サティシュ・クマールは、自身の活動に多大な影響を与えた名著の50周年を祝っている。
翻訳・校正:林田 幸子・沓名 輝政
今年は、E.F.シューマッハの画期的な著書『スモール イズ ビューティフル』の出版から50周年にあたります。シューマッハは、大企業、大きな政府、大きな病院、大きな学校や大学など、誰もが「大きいことは良いことだ」という理想に向かって急速に進み、その結果、もちろん大きな官僚社会になった頃に、この本を書きました。
逆の方向へと進み、人間のスケールと人間の尊厳について書くためには、大きな勇気とビジョンを持った作家が必要でした。シューマッハは、大量生産、大量消費、そして蔓延するグローバル経済の風潮に逆らったのです。
シューマッハは、オックスフォード大学を卒業した経済学者でした。彼は、産業発展、経済成長、技術革新を進歩の象徴として考えるように教育されてきました。数年後、彼はビルマ政府に対して、農業国で「未開発」の国から「先進」国への転換をどのようにしたらよいか、その助言を行うために、イギリス政府と国連からビルマに派遣されました。
ビルマで、シューマッハは、すぐに、高度な職人技と農業が盛んな、幸福な仏教文化に出会いました。その経済は、西洋の工業経済よりも自然界の経済に近いものでした。そして、驚いたことに、彼はビルマの人々がイギリスの人々よりもはるかに満足していることに気づいたのです。
シューマッハは、もしビルマが西洋の経済モデルに従って工業化を進めたら、膨大な金融資本が必要であり、ビルマにはそれがないため、西洋から借金をする必要があり、その結果、致命的な負債を抱えることになると、すぐに気づきました。工業技術の訓練には長い時間がかかり、その結果、公害や廃棄物、失業が発生するのは避けられないことで、さらに幸福になるという保証はないのです。
半年ほどビルマに滞在した後、シューマッハは「仏教経済学」というエッセイを書き、彼の考え方を一変させるような深い体験をしました。西洋の経済学者が「仏教」と「経済学」という2つの言葉をあえて並べたのは、これが初めてのことでした。
シューマッハは会話の中で、主流の経済学者からこう聞かされました。「シューマッハさん、経済学は仏教とどう関係があるのですか?」と。そしてこう答えました。「倫理観のない経済学は、魂のない肉体、水のない井戸、香りのない花です。私の考えでは、精神性と経済学の間に区別はありません。西洋では、精神的な価値と経済が切り離され、その結果、幸福感や満足感が欠けているのです」
1973年に『Small Is Beautiful』が出版されると、瞬く間に成功を収めました。英国議会の議員に最も読まれた本の一つでした。アメリカでも、この本は絶賛されました。シューマッハは各地で講演を行い、ホワイトハウスでは当時のアメリカ大統領ジミー・カーターにも届けられました。
本の主なメッセージを要約して、シューマッハは私に言いました、「人類が経済学に奉仕するのではなく、経済学が人類に奉仕しなければいけません。また、経済学は自然の完全性を維持しなければならないのです。つまり、まるで人と地球が重要である、といった経済学のことです」
「そのような経済学の特性は何ですか?」 と、私は彼に尋ねました。
「そのような経済学は、小さく、シンプルで、無害であるべきです。シンプルで無害であるためには、組織は人類の身の丈に合わせる必要があります」と彼は答えました。
シューマッハにとって、シンプルで無害であることは、経済が正常に機能するためにも、社会全体としても、不可欠な原則でした。
シューマッハは、小規模ならば、シンプル、連帯、多様性、ローカル、その土地特有のものを好むと考え、彼が熱望した理想でした。一方、大規模ならば、複雑化、分離、画一化、グローバル、モニュメンタルといった、シューマッハが最も敬遠した目標です。彼の視点では、小規模は、大規模よりも倫理的価値観にはるかに適合していました。
彼はまた、倫理と経済は切り離してはいけないと考え、倫理的経済学は、自然に害を与えない、人に害を与えない、自分に害を与えないということを常に念頭に置いた信条に基づき成り立つべきであるとしました。そのような無害な経済学は、シンプルである必要があります。「どんなバカでも物事を複雑にすることはできる。物事をシンプルにするためには天才が必要です」と彼は付け加えました。
その会話の結果、私はシンプリシティ(簡素化)を真剣に考えるようになりました。しかし、簡素化だけでは不十分だとも感じました。優美さという次元が必要なのです。私はこれを「エレガント・シンプリシティ」と名付け、ついには同じタイトルの本を出版しました。私は、物事はシンプルであるべきだと考えていますが、同時にエレガント(優美)であるべきだと思います。雑然とした心、雑然とした生活、雑然とした家庭は、シンプルでもエレガントでもありません。
シューマッハのように、私の母もシンプルな生活を過ごすことを考えていました。彼女は、人生をシンプルにするためには、「美しく、有用で、耐久性がある(Beautiful, Useful and Durable)」というBUDの原則を取り入れる必要があると信じていました。現代の物質主義的な経済学は、美しさの重要性を無視していますが、美しさの欠如は、精神的な貧困を引き起こします。美がなければ、たとえ体に栄養があっても、魂は飢えてしまうのです。だから、私たちは、美しくないものを作ってはいけないのです。さらに、美しさと実用性は切り離して考えるべきではありません。形と機能は、互いに補い合う必要があるのです。
芸術や手工芸は、シンプルな生活に不可欠なものである必要があります。さらに、美しさと実用性は、耐久性を含む必要があります。質素倹約は、シンプルであることの本質的な側面です。陳腐化は、自然に対する罪なのです!
BUDの原則は簡素化を優美に行うことです。私たちはみな、良い生活、快適な生活、楽しい生活を送ることができますし、そうあるべきです。簡素化は、無味乾燥な生活と結びつけてはいけません。簡素化は、大らかな心を育む土壌です。もし、私たちの店が物であふれていても、私たちの魂が貧弱であれば、何の得があるでしょうか?シューマッハの簡素化という考え方と、私の母が提唱するBUDの原理を組み合わせることで、完璧になります。つまりは、BUDは簡素化を優美で精神的に満たされたものにできるのです。
シンプルでありながらエレガントであること、それがサステナビリティの前提条件だと私は考えました。道具や技術、衣服やガジェット、車やコンピューター、電車や飛行機など、私たちが浪費的なライフスタイルの中で使っているものは、すべて有限の自然から生まれています。私たちの飽くなき消費、欲望に駆られた無制限かつ無限の欲求を、有限の地球からすべて満たすことはできないのです。だからこそ、私たちの真のニーズを持続的に満たすためには、エレガント・シンプリシティが必要不可欠なのです。
エレガント・シンプリシティは、社会正義の前提条件でもあります。私たちは、他の人々がシンプルに生きることができるように、シンプルに生きる必要があります。もし、私たちの一部が贅沢な生活を送り、本当に必要なものよりも多くの「もの」を蓄えるならば、私たちの仲間の多くは、最も基本的なニーズを満たすことさえできなくなるでしょう。シューマッハが倫理的経済学を提唱したように、エレガント・シンプリシティは公平な経済学を提唱しています。エレガント・シンプリシティは、このような組み合わせにふさわしい背景を提供します。この倫理、経済、公平の三位一体は、環境問題や社会的不公正など、私たちの差し迫った問題の多くを解決することができます。倫理、経済、公平は、現代における道徳的、社会的、生態学的な必要条件です。
E.F.シューマッハは私の良き友であり、メンターでもありました。彼の著書『スモール・イズ・ビューティフル』は、私に『エレガント・シンプリシティ』を書かせるきっかけとなりました。そして、『スモール・イズ・ビューティフル』の出版から50周年を迎えるにあたり、私は彼への深い恩義と感謝を表します。
サティシュ・クマールは、2023年6月17日にブリストルで開催されるThe Ecologist's Small Is the Future 会議で講演します。彼の著書『Elegant Simplicity: The Art of Living Well』は、www.resurgence.org/shop から購入できます。