1956年「琉大事件」
2016.02.09 08:42
1956年、これは第二次琉大事件
☆ 琉大(琉球大学)は、米軍支配下の1950年5月22日に開学され、1972年5月15日の施政権返還に伴い国立に移管された大学である。その琉大には「沖縄戦後史の暗黒時代といわれた1950年代」に起きた「琉大事件」がある…
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2007年5月29日 (火)
1956年「琉大事件」
■名誉回復?
琉大(琉球大学)は、米軍支配下の1950年5月22日に開学され、1972年5月15日の施政権返還に伴い国立に移管された大学である。その琉大には「沖縄戦後史の暗黒時代といわれた1950年代」に起きた「琉大事件」がある。この頃は米国が沖縄に恒久的な基地建設を築く政策転換をして、土地の強制接収を強圧的に押し進めた時期。それに対して沖縄では「島ぐるみ闘争」と称される大規模な反対運動が巻き起こっている。
1956年7月、軍用地の無期限接収と地料一括払いの方針を示すプライス勧告に反対するデモに参加した琉大生のうち、反米的な言動があったとして大学側は、翌月の8月17日に、学生6人を退学、1人を謹慎処分にした。
この「琉大事件」をめぐり、5月22日の開学57年の記念式典あいさつの中で森田孟進学長が「退学者の名誉回復」や「特別終了証書授与」などのため調査研究が必要だと明言したことが地元紙で報道された。
<琉大事件 名誉回復へ/島ぐるみ闘争に参加 退学処分/森田学長見解 元学生に終了証書>(2007/5/22「沖縄タイムス」夕刊)。大意は、(1)処分学生の希望を聞いた上で「特別終了証書授与」か「再入学」を公式に認める考え(2)処分は琉球大学の存廃を問う当時の米国民政府によるものであり、学長、理事会、教授も苦渋の選択を迫られた。事件を琉大の歴史に正しく位置付けるための調査研究が必要―である。
一方、「琉球新報」はさらに詳細な報道でフォローしている。<第2次琉大事件 特別終了証書を検討/森田学長 退学者名誉回復へ/学内に調査委設置も>(2007/05/22、夕刊)に続き、翌日23日の朝刊社会面トップで<第2次琉大事件 歴史の影「解明を」/当事者らの思い複雑/1次言及なく疑問の声><半世紀以上経過し…/好意の半面謝罪要求も>とレポートし、さらに25日文化面では<識者評論「琉大事件が問うもの」比屋根照夫>を掲載している。
■公表の意図は?
もっとも今回の発言は、あくまで学長の「個人的見解」とのことわりがついている。最終的には同大の最高意思決定機関である教育研究評議会に委ねられることになるようだ。学長就任翌年の開学50周年(2000年)の際、同事件がマスコミに取り上げられたことや琉大同窓会が2005年4月に、「(処分を受けた当事者の)名誉回復のため、処分の取り消しを検討してもらいたい」と文書で要請したことを受け、言及に至ったと、森田学長はその理由を説明している。
森田学長の就任は1999年(開学49年)で、この2007年5月で8年間の在任を終えることになる。「琉大事件」への関わりの発端はいろいろあったことが推測されるが、任期中には手を染めることができず、退任が決まった最後に「公表」する意図はなにか? その真意を私としてうまく読み取ることができなかった。
最近、「東奔西走・編集局長インタビュー 琉球大学学長 森田孟進さん」(2007/4/22 沖縄タイムス)でも、開学記念日には言及すると明かしたうえで、「 (『第二次琉大事件』)当時の安里源秀学長を再評価する動きに対して反発もある。安里さんは亡くなるまで弁明しなかった。学生を処分しなかったら、琉大は閉鎖とか、もっと大騒ぎになっていただろう」と触れていたのを目にしていたので、「公表」に対して唐突な印象はなかった。
森田学長は、開学記念日に「当時の安里源秀学長ら理事会が決めたことを、今の段階で私がうかつに謝ることはできない。今後、検証が進む中で大学が取るべき態度も決まってくる」と述べているが、どうにも歯切れの悪さを感じてしようがなかった。「個人的見解」と断わるのならもっと踏み込んだ思いを披瀝してもよかったのではないだろうか。
歴代の学長が踏み込めなかった事案に手を付けた、ことをまず評価すべきなのか。それとも、新学長への優先的課題引き継ぎとしての「しばり」の意が込められているのか、その成果については、「長い目」で見続けることしかないのだろう。
■退学処分へ
当時の「退学処分」にいたる道筋は苦渋が読み取れる。以下、時系列に挙げてみる。
・7月28日 四原則貫徹県民大会
・8月 7日、米三軍、本島中部一帯への無期限オフリミッツ発表
・8月 8日、中部地区琉大、帰省学生土地問題解決促進大会(デモ中止)
・8月 9日、琉大基金財団、琉大に財政援助打ち切りを通告
・8月10日、琉大、「謹慎処分」決定を報告
「琉大財団」と「琉大理事会」の9時間にも及ぶ会議が続くが、琉大理事会側は、退学処分を拒否し、妥協案として謹慎処分にいたりつく。しかし、その報告をバージャー民政官は一蹴し、「断固たる処分」を要求。琉大が将来の沖縄に悪影響を及ぼす人々の温床となるならば「琉大を廃止する」と通告してきた。
琉大は、8月12日、14日の緊急評議会会議でも「学生から犠牲者を出したくないという方針」を崩していない。そこに、翌15日、16日に台風「バブズ」襲来。
・8月17日 6人の「退学処分」と1人の謹慎を決定
台風一過の17日、午前10時から理事会、学長、副学長、評議員で会議し、6人の退学処分と1人の謹慎を決定。午後、民政官に報告。除籍処分は古我地勇、喜舎場朝順、嶺井政和、豊川善一、与那覇佳弘、神田良政、謹慎処分に具志和子。理事長の前上門は「万一、廃校となれば、多くの子弟の大学進学への道がふさがれる結果になり、この点深く憂慮する。また、安里学長は「大学を存続し将来の発展を図るために」学生を処分したと述べている。
その後、撤回闘争が取り組まれるものの、学生運動の幹部が集中的にやられたこと、さらに夏休み期間であったこと、学内では許可なき集会が一切禁じられたことなどもあって次第に撤回闘争は下火になっていった。
琉大当局は、処分後に処分学生の救済に自ら奔走する。仲宗根政善(副学長)や中山盛茂(教務部長)らは、沖縄出身の当時早稲田大学学長だった大浜信泉の尽力などを求め、学生の受け入れに駈けずりまわることになる。その結果、日大=古我地勇、嶺井政和、喜舎場朝順、同志社=神田良政、立命館=与那覇佳弘、琉大=豊川善一(復学)が決まる。
■公開されるべきこと
さて、「退学者の名誉回復」については、ジャーナリストの新川明が言うように「名誉回復的なことよりも先に、琉大として彼らに対して謝罪があってしかるべきだ」し、「『特別終了証書』の授与などでは琉大の歴史の汚点はぬぎい去れない。逆に、彼らにとっては処分が勲章のようなものだ」という考えに尽きるだろう。
米軍支配下の理不尽としか言いようがない出来事に巻き込まれ、「処分」を刻印された同時代の7人。愛憎と諦念と自負を繰り返しながら70代にいたる人生の軌跡。狭い沖縄で、時には直接、その肉声に接したこともあった。誰も彼らの人生を体験することはできないが、いまだに続いているであろう愛憎をもし聴けるのなら静かに聴きとどけたい思いは強まる一方だ。
「琉大事件」にあらましについて、現段階で比較的入手しやすい、まとまったものといえば、以下のものが挙げられる。
(1)『琉大風土記 開学40年の足跡』(沖縄タイムス社 1990年6月20日)
(2)私記「琉大が燃えた日」(http://w1.nirai.ne.jp/nyanko/father.html)=処分された一人(嶺井政和)が綴った記録。
(3)「ミード報告」を読む 第2次琉大事件から60年(2006/9/27~2006/10/25 琉球新報5回連載)。
琉大の苦渋に満ちた「汚点」は公開されなければ、教訓は導きだせないだろう。そういう意味で、穏便策を捨て「処分」に転換した8月17日の会議(理事会、学長、副学長、評議員)の議事録は、ぜひとも公開する必要があると思っている。「8月17日午前」の会議でどんなやりとりがあり、「苦渋の決断」に至ったのか。これまで関係者の声は明らかにされていない。
「ミード報告書」には「(学生処分を決定した)報告書は受理されました。実際、理事会と学長には、報告書を提出するか、あるいはさもなければ辞任するということ以外に、選択肢はなかったのです」という記述が見られた。はたして、言うように「それ以外の選択肢」はなかったのだろうか。当初、職を辞しても、退学処分は阻止したい思いを語っていた安里学長の心中は…。そうした内部のやり取りがが見えないまま、半世紀が過ぎたことになる。=文中敬称略(2007/05/29)
2007年5月29日 (火)