書籍紹介 『琉大事件とはなんだったのか』 朝鮮戦争下で原爆展
『人民の星』 5539号4面 2010年12月11日付
書籍紹介 『琉大事件とはなんだったのか』 朝鮮戦争下で原爆展
「琉大事件」とは、サンフランシスコ講和のみせかけの独立のもとで、日本全土に米軍をいすわらせる旧「安保条約」がひそかにむすばれ、沖縄はひきつづき米軍の直接支配下におかれた一九五〇年代に、那覇市の琉球大学でたたかわれた学生の平和斗争にたいする二度の弾圧事件である。
斗争の発展恐れた退学処分
当時は日本全国で米軍基地の拡張に反対する斗争がたたかわれたが、沖縄県でも米軍の土地接収が五三年からはじまり五六年にかけて「島ぐるみ斗争」に発展していった。
こうした沖縄県民の斗争を分断し、弾圧するために、アメリカ民政府(USCAR)による強権的介入で琉球大学生が不当な退学処分をうけた。
第一次は一九五三年に「原爆展」などで四人が退学処分され、第二次は一九五六年に米軍による土地接収にたいし四原則を貫徹せよとする学生の行動を「反米のデモ行進」として七人を退学処分した。
琉大当局は二〇〇七年に第二次処分学生への謝罪、処分取り消しと終了証書の授与をおこなったが、第一次の処分についてはまったくとりあげようとしなかった。
そのことを問題にして、琉球大学教授職員会などは〇九年七月にシンポジウムを開催した。
このシンポジウムの内容と、処分を受けた人人への聞き取りや、当時の資料などをおさめて、「琉大事件」の性質をあきらかにするために発行されたのがこのブックレットである。
本書には、第一次琉大事件事実経過(年表)、シンポジウムの第一部、第二部、資料篇にくわえて、記録篇として当時退学処分をうけた上原清治、中野憲一、浜田富誠各氏への聞き取り、などが収録されている。
序文「琉大事件が問うもの」での比屋根照夫・琉球大学名誉教授は、「朝鮮戦争下の反共イデオロギーの横行する時代、機関誌『自由』の発行、灯火管制反対運動、原爆展の開催、メーデーへの参加を理由に、“退学”処分をおこなったこと自体きわめて異常な事態である」と書いている。
また「琉大事件にかかわる米民政府と琉大理事会・琉大当局の交渉の公文書、処分経過にかかわる記録、さらに当時の教授会の議事録等々の一切が保存されていないとされる現状の解明も必要である」と指摘している。
朝鮮戦争下の沖縄で原爆展
シンポジウムの基調講演では、「第一次琉大事件のときに……原爆展の開催が処分の対象になっていた……、アメリカのほうも原爆展にはかなり神経質になっていた、……いわばアメリカのタブーを破ったことが一つの要素に入っている」ことが指摘されている。
したがって、「通常は大学の処分の問題だけで語られそうですが、実は平和の問題だったんだということがもう一つの側面として指摘できるのではないか」と提起している。
そのあとつづけて「アメリカは当時いったいどうだったのか、当時の状況という視点も必要だろう」と提起し、具体的には「旧安保条約および対日平和条約……が一九五一年九月八日に調印されたのと時期が近いということ」、当時アメリカではマッカーシズムに代表される反共主義の強まりがあり、政府・軍による「赤狩り」がやられ大学が一つの的にされていたこと、「朝鮮戦争が始まってまっただ中の時期であった」ことをあげている。
つまり、アメリカが講和以後の日本にたいし、占領期とおなじように軍事基地をおいて支配する体制をかためつつ、朝鮮戦争を日本を基地としてすすめていた時期に、沖縄県民の斗争と琉球大学生の斗争がたたかわれていたということである。
第一次琉大事件で処分の理由とされているのは、「機関誌『自由』の発行」「灯火管制反対運動」「原爆展の開催」「メーデーへの参加」ということになっている。
これらすべてが、アメリカの沖縄支配と新たな戦争に反対する性質をもっていたことは、あきらかである。
なかでも、「原爆展の開催」は、特筆すべきことであり、米軍の琉球大学当局にたいする圧力の中心であったことは疑いようがない。
関係者の証言では、原爆展がどのようにおこなわれたかを、つぎのように語っている。
広島・長崎と沖縄戦を結ぶ
本土の友人がおくってきた写真グラフ雑誌にのっていた原爆被害の報道を、きりぬいてベニヤの戸板にはって、三月の一七日から六日間にわたって、那覇市内一六カ所で原爆展をやった。
かかわった学生は一〇人以上はいた。
また、原爆展の展示には、手書きの説明をつけたが、「長崎、広島、そして沖縄戦」とつなげて書いている。そういう意識で原爆展をやっている。
最初に首里高校でやってすごい反響だった。
表紙の写真にうつっている場所は沖縄バスの停留所、待合室の中である。
上原清治氏はシンポジウム参加者に、「戦争未亡人らしい、おばさんたちが、涙をながしながら見てくれました。ほんとうに感動しました」「私が一番誇りに思っているのは、原爆展であります。あの時代、ああいうかたちで原爆反対の訴えをやったというのは、これはやはり後世に誇るべき行動であったというふうに振り返っております」と報告している。
中野氏も上原氏も当時銘刈で「米軍が土地の取り上げをしているのを目撃した」と語っている。
米軍が土地の強制収容をはじめたのが一九五三年の銘苅であった。
そのようななかで原爆展がおこなわれたのだ。
また中野氏は聞き取りのなかで、原爆展をやったときに沖縄戦を意識していたか、という問いに、「沖縄みたいに住民に対して無差別に攻撃して、いまやっぱり許されんのとちゃう? 艦砲射撃ぼんぼんやってね」と沖縄戦における米軍の住民皆殺しにたいする怒りをのべている。
浜田氏は、まだ沖縄戦が終って八年目ですから、という問いに「ええ、道路にも戦車とかがゴロゴロあっちこっちに転がっとったし、沖の方にサンゴ礁に座礁した輸送船がそのままになっとったし、そういうのがしょっちゅう目にはいってきましたからね」とこたえている。
今につながる根本問題斗う
「あとがきにかえて─琉大事件の普遍的意義」のなかで、小屋敷琢巳・教授職員会琉大事件専門委員会委員は琉大の原爆展の特徴として、「沖縄において、戦後日本の原点にある敗戦の経験、原爆の体験、平和憲法の背後に存在する、米軍支配の続く過酷な現実を目の当たりにして生きてきた(琉大生が)、原爆の問題と沖縄戦と米軍に占領された経験を直結したのは自然な意識の流れだった……彼らの活動こそが、戦後日本にいまでも突き付けられる根本的な問題の原点にあったという先駆者としての輝きを放っている」としめくくっている。
この琉大事件がしめしている学生の斗争をみると、一九五〇年の八・六広島平和斗争がもった大きな意義をあらためて知ることができる。
50年の8・6斗争が源流に
一九五〇年の戒厳令下の広島では、アカハタ中国総局が発行していた新聞『平和戦線』の特集号(六月九日付)が、日本ではじめて原爆の残虐さをあらわす六枚の写真グラフを公然と掲載した。
また、原爆をうけた広島の詩人・峠三吉の「八月六日」と題した詩がその写真とくみあわせて掲載された。
この新聞は「市内八丁堀横に掲示された『原爆の惨状』の写真展は、肉親をなくした市民によって毎日黒山のように人を集めている」と、原爆写真展がはじめて街頭でもたれたことも報じている。
さらに八月六日には、労働者を中心とした平和の斗士たちが、目貫通りの八丁堀で約五〇〇名、広島駅前で約六〇〇名が、八・六反戦平和大会を開催した。
こうして日本における平和運動の発展がきりひらかれた。
翌五一年には、広島・荒神小学校で、全国規模の平和大会がもたれ、このときいらい、原水爆禁止・平和運動は合法性をかちとり、全国に燎原の火のようにひろがっていった。
琉球大学生による五三年の原爆展もこのなかで、沖縄ではじめておこなわれたのである。
そのことは沖縄の原水爆禁止・平和運動も一九五〇年八・六斗争を源流としてはじまったことをはっきりとしめしている。
(高良鉄美、A5判、二〇六㌻、八〇〇円+税)
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