「虫追い祭り」の夏、夕闇の里川。
http://keiryuu9jou.o.oo7.jp/mushioi.html 【「虫追い祭り」の夏、 夕闇の里川。】より
釣り人が好きなのは魚だけじゃない。ミミズだってオケラだってアメンボだって、ブドウムシだってキンパクだってピンチョロだって、みんなみんな友だちなのである。
今回は、アゲハチョウの幼虫に、祈りを捧げる(?)、ちょっと怪しげなお祭りの話。
虫捕り少年の黄金時代。
ずーっと、ずーっと前に読んだ小説のなかに、「虫追い祭り」という文字を見つけ、以来、そのことが、ずーっと、ずーっと気になっていた。どこか懐かしく、ユーモラスな名前に「いつかは、その祭りを見たいものだ」と、資料を調べてみたが、農薬の普及で祭りはほとんど消滅しているか、観光用に盛大になりすぎているかで、私の思い描いていたものとは少し違っていた。ところが今回、岩手県の山間地にほぼイメージどおりの「虫追い祭り」が行われていることを知り、ヤマメ釣りの期待も抱きながら、7月下旬、現地に飛んだ。
「虫」に惹かれたのは、幼いころの遊び仲間のうちの一集団が虫たちだったからかもしれない。虫のほうがどう思っていたかは別にして、私にとって虫たちは大切な友だちであった。
虫との付き合い始めは、終戦直後に急速に勢力を拡大した、ノミ・シラミ・ナンキンムシ・サナダムシだった。学校で頭や背中にDDT(発がん性の強い粉状の殺虫剤)を振り掛けられたり、ギョーチュー検査が頻繁に行われていた。そして今、還暦を迎える年になっても、ミミズ・ブドウムシ・イナゴ・川虫などとの付き合いが深く、「ブナ虫の会」などという、わけの分からない「団体」まで立ち上げてしまったのだから、もう生涯の付き合いになることは間違いない。
いちばん親しく付き合ったヤツはやはりミミズだろう。台所の排水溝から出る、栄養分を含んだ水が染み込んだ地面を掘ると、元気のいいのがたくさん獲れた。空き缶に入れて、北海道の原野を流れる用水や、炭鉱のトロッコ道を歩いて鉱山の小沢に釣りに出かけた。私は今でも、ミミズが魚の最高のエサと信じて疑わず、釣行時はかならず持参している。
二戸市斗米地区は、なんとも懐かしい風景の残る集落だ。金田一温泉のお祭りは真っ青な空の下、ビールがとてもおいしかった!
甘いものが欲しくなったらミツバチを捕まえて、腹もしくは尻の部分をチギリとって口に入れると、天然蜂蜜が味わえた。ただし素手でつかむので、何ヵ所か刺されるのは覚悟のうえだ。
クモの巣はトンボ捕りの最強の武器になる。棒の先に針金の輪を作って、炭鉱街の4軒長屋の軒下をひと回りするとジョロウグモの巣網ができあがる。これをトンボの羽につけて捕まえるのだ。羽根を痛めることなく、同時に何匹もつけたまま捕らえることができる。でも、私はクモが大嫌いだ。4歳の時、クモに襲われてポットン便所に落ちて、クソまみれになったところを、近所のオバさんに救出されたことがあるからだ。
おいしそうな物があれば買い食いせずにはいられないし、よさそうな川があればサオをださずにはいられない。そんな旅のしかたが好きなのだ。
私の住んでいた北海道美唄市にはカブトムシはいなかったが、ノコギリクワガタやミヤマクワガタはいくらでも捕れた。イナゴをエサにしたキリギリス捕りのウデは名人級だった。そのほか、虫たちとの「懐かしの黄金時代」の話は数え切れないほどある。だから、「虫追い」という言葉の響きは私の心を捉えるのである。
巨根人形と
イモムシの祭り。
目的の場所は、岩手県二戸市上斗米地区の中沢集落。山間の小沢を挟んで、見たところ10軒ほどの民家が点在している。
虫追い祭りのスタート地点となる蒼前神社境内には、背丈1mほどの男女一対のワラ人形が置かれていた。なぜか男性のイチモツが巨大でそそり立っている。趣味の悪いアマチュアカメラマンたちが、その脇に女の子を立たせて写真を撮っている。祭りの最後に、この人形は焼かれてしまうのだが、若い女性に「変なムシがつかないように」という意味合いもあるのかもしれない。
この巨根ワラ人形は、二戸市の隣の一戸町にある、岩手県内最大(150坪)の古民家「朴館(ほうのきだて)家」にも飾られていたが、こちらのものは「人形まつり」で川に流してしまうそうだ。この地方の人たちは本当に巨根なのか、それとも製作者の願望なのか。
なお、虫追い祭りで使われるワラ人形の由来は、全国的には、平家の武将、斎藤実盛(さねもり)を形どったものだといわれている。実盛は戦の最中、稲の切り株に足をとられたために討たれ、その恨みから稲につく虫に生まれ変わって出てきているとのこと。稲につく最大の害虫はウンカで、別名が「サネモリムシ」というそうで、できすぎた話だ。
この祭りは江戸時代から続いており、毎年7月24日前後の土用入りの休日を選んで、集落総出で、五穀豊穣、害虫退治、家内安全などを祈願する。
まず、神社本殿の神主の祈祷から始まり、振る舞い酒が参加者に回される。私たち見物人の所にも器が回ってきたので、五穀豊穣、家内安全、ついでに「釣果大漁」を願いつつお酒をいただいた。変酋長はちゃっかり2杯も飲んでいた。
金田一温泉の緑風荘は、座敷わらしが出る旅館として全国にその名を知られている。座敷わらしとは怖いお化けではなく、愛らしい姿をした男の子の神霊といわれており、出遭うことができれば、男は出世し女は玉の輿に乗れると言い伝えられている。
ひと通り儀式がすんだところで、いよいよ虫追いの行進が始まる。例の巨根ワラ人形を先頭に、太鼓、笛、浴衣姿の踊り子、そして五穀豊穣などの願いが書かれたのぼり旗部隊と続く。およそ30人くらいか。行列は、皆で何やら唱えながら、田んぼのあぜ道を行進する。よくは聞き取れないのだが、「なに虫まつりゃ、土用虫まつりょ……」と聞こえる。大きな声を張り上げていた地元の中年の女性に尋ねたら、「土用虫とは小豆虫で、アゲハチョウの幼虫。つまりイモムシだ」とのこと。でもこれが正しい解釈かどうかは確信が持てない。
集落を抜けた広場で、ワラ人形に火がつけられ、ここでも酒が振舞われて祭りは終了した。わずかな時間ではあったが、幻想的な別世界に紛れ込んだようなひと時であった。
知らない土地に行くと、地元の人たちにとっては当然のこととして関心を示さなくなっていることでも、すごく興味を引かれることに時々出会い、いろいろと調べてみたくなる。それが私の旅のスタイルでもある。
下斗米地区の聖福院門前に「餓死供養」と書かれた古い石碑があった。飢饉で亡くなった人たちを供養したものだろう。飢饉といえば江戸時代の享保・天明・天保が3大飢饉と呼ばれ有名であるが、東北地方、なかでも岩手県は地形的にも天候に左右されやすく、特に被害がひどかったようだ。さらにこの南部地方は「やませ」と呼ばれる冷たい風で、大凶作が続き、南部藩35万人のうち、1年間に10万人が死んだという。食べるものがなくて、幼い子を交換して、肉鍋にして食べた、などという切なく悲しい話さえ伝わっている。
同じ集落の古い住宅に、郵便屋さんがバイクを止めて、ヘルメットも脱いで、弁当を抱えて入ろうとしたので、「ここは、いったいなんですか?」と尋ねた。若い局員は「昼食をとる休憩所です。一度局を出たら戻っていられませんので」と話していた。家のなかにはおばあちゃんがひとりいて、お茶を用意していた。あとで分かったことだが、こうした「休憩所」は、茶菓子代程度の謝礼を払って過疎地などに設けられているとのこと。ここの休憩所は100年以上続いてきたが、「郵政が民営化されたらなくなりますね」と局員。今より通信や交通手段が充分でなかったころは、郵便屋さんが運んでくる町のようすが、
虫追い祭りは江戸時代から山間の農村に続く、五穀の豊作、悪虫退散、更には悪病よけを祈願するお祭り。岩手県二戸市内では、上斗米の中沢地区で7月下旬に行われている。
7月24日前後の土用入りの日を選び、当日は、蒼前神社の境内で稲藁で作った男女の人形に悪神・悪霊払いの祈願をこめ、幟を立て、笛や太鼓で踊りながら町中を歩き回り、最後に氏子総代が村はずれでこの人形に御神酒をかけ、火を付けて幟共々焼き払う。悪神や悪霊を村外に追い出すことにより五穀豊穣、無病息災を祈願する。
生活をしていくうえで大変貴重な情報源だったに違いない。「休憩所」は、局員にとっても集落の人たちにとっても必要な施設だったのだ。
村の中を練り歩いたあとで火をつけて燃やされたワラ人形。草の匂いがむせ返るような夏の日に、幻覚のようにユラユラと炎が上がっていた。
ちょうど同じ時期、盛岡市で「郵政民営化・地方公聴会」が開催され、反対の声が多数出された。100年ものあいだ、町と過疎の山間部を結んでいた血の通った人間関係が、小泉さんと竹中さんのおかげで途切れるのは残念なことだ。ホリエモンは、「郵便局がなくなったって、コンビニがあるじゃないですか」と、選挙の時に語っていたが、コンビニもない山間部に一度足を運んでもらいたいものだ。
がらんどうの街。
虫追い祭りの中沢集落を流れていた川の下流にある金田一温泉に、「座敷わらし」が出ることで知られている「緑風荘」を訪ねた。
宿の主人に写真撮影の許可を願い出ると、「今お客がいないから」
と、快く、座敷わらしが出るという「槐(えんじゅ)の間」に案内してくれた。旅館の突き当たりの何の変哲もない10畳ほどの和室だ。変わっているのは床の間から廊下まで無数の人形が並べられていることだ。ご利益にあずかった人たちがお返しに人形を供えているとのこと。こんなにもご利益があると、宿泊客は途絶えることがない。実際、2年先までこの部屋は予約が詰まっているそうだ。
こういう場面になると、なぜかいつも真っ先に地元の人から酒が注がれる渡辺政成さん。いつもはシンと静かな境内に、この日はにぎやかな笛と太鼓が鳴り響いていた。
「座敷わらし」は、当旅館の祖先の亀麿という6歳の男の子の霊で、今から660年ほど前に病気で亡くなって以来、出没するようになったという。「槐の間」に泊まって夜中に座敷わらしを見ることができたら幸運が訪れるそうだ。
この日は金田一温泉の祭りで、広場に模擬店がたくさん出ていたので、美味そうなつまみを仕入れてビールを飲んだ。
いつものことだが私の釣りの旅は寄り道が多く、釣りをする時間がなくなってしまう。そしていつも、釣りの写真のカットが少ないために、変酋長から「ナベさあーん、ちゃんと釣りやってんの」と、疑いをかけられている。ところが今回は変酋長がしっかりニラミをきかせて、「監視人」としてついてきているからそうはいかない。
初めての土地では地元の人に情報を聞くのが何よりである。一戸駅の近くの「のだトーイセンター」という、おもちゃ屋兼釣具店で釣り情報を手に入れた。この日は時間がなかったので、4号線を南下して、馬渕川の中流で試し釣りをすることにした。馬渕川は、芥川賞(第44回・1960年)を受賞した三浦哲郎の小説『忍ぶ川』の舞台となった川である。道路工事をしていた脇の橋の下で、とても条件のよいポイントとは思えなかった。しかし、さすがに全国にヤマメの川としてその名を轟かせていた馬渕川。今でもその期待を裏切ることなく、私と変酋長に型のよい幅広ヤマメが釣れた。幅広ヤマメの引き味に魅了された変酋長は、なかなか川から上がろうとしない。なんだ、私の監視役かと思っていたら、自分が釣りをしたかっただけじゃないのか。馬渕川はふたりの釣り人の心を充分に癒してくれた。
この日の泊まり場は、ヤマメ釣りで気をよくした変酋長が奮発し、二戸新幹線駅前ホテルに、1泊3500円の部屋を予約して(いつもは野宿だ!)、繁華街へと繰り出した。が……、土曜の午後7時、ゴールデンタイムだというのに、立派な新幹線駅前からその周辺のお店は完全な「シャッター通り」で、人っ子ひとりいないのである。1軒だけ駅前の居酒屋「きんじ」が開店していたので、我々はあわてて飛び込んだ。カウンターと小さな座敷があり、こじんまりとした落ち着いた雰囲気のお店である。小説家の高橋克彦の色紙が飾られていた。高橋克彦は、秀吉中央軍と戦って敗れた悲劇の武将、九戸政実(くのへまさざね)〔1536~1591年〕の活躍を描いた『天を衝く』の著者だ。二戸市役所のそばに、政実が城主をしていた九戸城趾がある。
立派な体躯のヤマメに出会えた。やはり夏休みはこういう魚が釣れなくてはいけない。旅の思い出に華を添える、忘れられない魚となった。
平糠川は田んぼの間を縫って流れる小さな里川だが、たっぷりとした水量で、釣り人を期待させずにはおかない生命感のある流れだった。
ジャスト30㎝のイワナ。元気たっぷりにグイグイとサオを絞り込んでくれた。
客は我々だけで貸切のような状態だった。3時間ほど粘っていて、ほかのお客は親子と思われるふたり連れが来ただけだった。料理の味はどれもたいへん美味しかったのに、これでは駅周辺は廃れるはずだ。案の定というか、我々が宿泊した駅前ホテルは、2006年の4月に閉鎖された。新幹線駅誘致でたしかに駅は立派になり、駅に隣接して50mのシンボルタワーを備えた物産・イベントホールなども新設されたが、はたして住民にとって期待どおりになったのであろうか。
カジカを獲る
子どもたち。
翌朝、出発前に駅前の朝市で五目飯と赤飯弁当を仕入れて、馬淵川の支流、平糠川へと向かった。国道4号線と分かれてからは水量もさほど多くなく、いかにも日本的な農村風景の集落の間を、その土地土地の人々の生活と係わりあいながら、小刻みにカーブを描き、ゆったりと流れているように見える。里川釣りの魅力が凝縮されているような所だ。
我々は川に沿った道を上流に向かってのんびりと車を走らせながら釣り場を探した。視界が大きく広がり、数軒の民家と田んぼ、そして橋が架かった流れの前で、我々は誘われるように車を止めた。釣り支度の時間がもったいないと思うほど、私の気持ちは高まっていた。「里のヤマメ釣りは細仕掛け」の常識も無視して、源流でイワナ釣りに使用していた仕掛けをそのまま蛇口に結びつけて川に降り立った。
真夏の釣りだから本当は、エサに川虫を使うべきなのかも知れないが、焦っている私は、暑さで弱りかけたミミズをハリにつけてポイントに投げ入れた。ところがこんな常識外れの釣り方でも、ヤマメはちゃんと食いついてくれるのだ。しかも体型のしっかりした8寸クラスが中心で、イト鳴りするほどのファイトを見せてくれる。感動の連続だ。変酋長には尺イワナまで掛かってしまった。平糠川は本当に釣り人を気持ちよくさせてくれる川である。もう少し遊んでいたかったが、今日は帰る日である。ほかの川も覗いてみたいので、後ろ髪を引かれる思いで納竿した。
夕暮れの川でカジカ捕りに夢中になる少年たちに出遭った。彼らがやがて釣りザオを片手にヤマメを追いかける日まで、健全な里川を残せるかどうかを、いま私たちは問われている。
帰り道、馬淵川の支流の安比川の橋の下で、小学校5~6年生くらいの男の子ふたりが、網を使ってカジカ獲りをしていた。変酋長が、車から身を乗り出して、「ガサガサやってるよー」と興奮して叫んだ。私たちは車を止めて、橋の上から覗き込んだ。
ひとりが上流に立って石を動かし、もうひとりが下で網を持って待ち受けている。バケツの中にはすでに数尾のカジカが泳いでいた。いつの間にか見物人は私たちのほかにふた組の年配男性が加わり、子供たちがカジカを捕らえるたびに拍手が送られた。温泉水の流れ出しに群れをなして溜まっていたハヤを一気に数十尾すくいとった時には歓声と同時にひときわ大きな拍手が沸き起こった。
子供たちが成果を抱えて橋の上に上がってきた。バケツの中を覗き込み、大人たちも我がことのように興奮していた。ある人は車のトランクから、自分で改良した網を自慢げに持
ち出してきた。気がついたらいつの間にかあたりはすっかり暗くなっていた。
そうだ、昔の子は時計も携帯も持っていなかったから、暗くなるまで外で虫や魚たちと遊んでいたものだ。今回の釣り旅で、私は忘れかけていた日本の原風景と生活に触れることができたような気がした。