末っ子、夏と遊ぶ
モリアーティ家が所有する土地はとても広大だ。
屋敷が存在する敷地内には美しい花壇だけでなく、遊具を備えた広場や森林浴に適した木々達が力強く生い茂っている。
専属の庭師数名で管理しているそこは敷地内であるために安全が確保されており、末の息子が遊ぶのに最適な空間だった。
「じゃあルイス、行ってくるね」
「夕方までには帰るから、ねこさんと一緒に良い子で待っているんだよ」
「いってらっしゃい、にいさんにいさま。ぼく、ねこさんといいこでまってます」
はやくかえってきてくださいねーと手を振りながら見送る末っ子に手を振り返しながら、モリアーティ家の長男と次男は渋々学校へと向かっていった。
末のルイスは兄達の教育方針により、ナーサリーには通っていない。
専属の家庭教師が勉強を教え、広大な庭で遊ぶことで体力を付けていた。
社交性が身に付かないのでは、と危惧する意見も上がったが、そう急がずとも大丈夫でしょう、というウィリアム及びアルバートの意見に潰されている。
忙しい父は不在がちだが、それでも母と乳母、料理長や掃除婦、家庭教師、庭師など複数の使用人がいるのだし、一般家庭よりも多くの人間と接しているのだから、慌てなくても良いはずだ。
目の届かない場所にルイスを連れていくなどとんでもない、と考える兄達は、少なくともプライマリースクールまではこの屋敷からルイスを出すつもりはなかった。
「ばぁば、おにわにいくのでぬりぬりしてください」
「はいはい」
兄達が乗る車が見えなくなった後もしばらく扉の前にいたルイスだが、ようやく屋敷の中へ戻る。
そうして向かう先は乳母の元で、すぐ近くに置いてあった小さなボトルを手渡してお願い事をした。
「こどもでも安心に使えます」と書かれているボトルの中身は低刺激かつ効果抜群の日焼け止めである。
乳母は衣服から見えているルイスの肌へと念入りにそれを塗り込み、ルイスも彼女を真似して自らの腕を揉んでいく。
「あと、ねこさんにシューも」
「はいはい」
日焼け止めを塗り終えたルイスはスプレータイプのボトルを持った乳母にねこのぬいぐるみを見せ、そのボトルからシュッシュと液体を振り撒かれたのを確認する。
ちなみにスプレータイプのボトルには「消臭・除菌」と書かれていた。
「これでねこさんも、ヒリヒリだいじょうぶですね」
「えぇ、日焼けはしませんよ」
「むしのチクンもないですね」
「虫刺されも大丈夫。さぁ、お庭へ遊びに行きましょう」
「はい」
日焼け止めを塗り、大きな麦わら帽子を被り、右手にねこのぬいぐるみを握り締め、小さなスニーカーを履く。
準備万端で庭へと出て行ったルイスの後ろを乳母は追いかけていった。
ルイスが一人で歩き始めて最初の夏のことである。
それまで兄達の抱っこでしか見たことがなかった庭を自らの足を使って踏み入れたルイスは、地面の感触を初めて経験し、漂ってくる香りが花や草によるものなのだとようやく知ることが出来た。
土は触るとほろほろ崩れて手を汚し、石はとても硬くて花はとても脆い。
今までは見るだけだったそれらを実際に見て触れることで、ルイスは多くのことを知っては知識として吸収していった。
知らないことを知れるのを楽しいと感じるのは幼さゆえか、もしくはウィリアムの弟たるルイス本来の性質なのかは不明だが、とにかくルイスは初めてのことばかりの庭遊びを堪能する。
するとあっという間に時間は過ぎていき、昼過ぎに庭を出たというのに屋敷の中へ戻ったのは夕食近くなっていた。
初めての経験に夢中になったのと、ルイスを構い抱き上げようとする兄達から逃げていたのとで、想定よりも長く時間がかかってしまったのは間違いない。
結果、ルイスに待ち受けていたのは軽度の熱中症および日焼け、虫刺されだった。
「いたいよぅ、かゆい、かゆい〜」
うぁぁあぁぁあん、とルイスらしくなく大きな声で泣きながら床の上でぐずり続ける。
真っ白いはずの肌は痛々しく赤く染まり、ところどころが小さく腫れていた。
森の中を逃げ回って日陰にいたのが幸いしたのだろう、幸いにも熱中症は軽度だったようだ。
涼しい屋敷の中で氷を舐めさせていたらすぐに回復した。
けれど日焼けと虫刺されは回復に時間がかかる。
軽い火傷状態になっている肌は触れると痛いのに、虫に刺されて痒みがあるために掻かずにはいられない。
小さな爪で虫に刺された部分を引っ掻いては、いたいかゆいと泣き喚くルイスを、ウィリアムとアルバートはおろおろと見ているばかりだった。
「ルイス、肌を冷やそう。そうすればすぐに良くなるよ」
「や!いたいの、さわったらや!やー!」
「あぁルイス、そんなに引っ掻いたら余計に酷くなってしまうだろう。やめなさい、ルイス」
「かゆいのーかゆい、いたいよぅ、うっ、うぅ〜…!」
ウィリアムとアルバートは痛みと痒みで最高潮に機嫌が悪いルイスを宥めつつ、なんとか日焼けに効く薬を塗り込み、合わせて痒み止めも塗っていく。
小さな体だというのに、全力で抵抗するルイスの力は驚くほどに強かった。
「まさか、ルイスの肌がこんなことになるなんて…現代はこんなにも陽射しが強いんですね、以前とはまるで違う」
「言い聞かされて義務的に塗っていただけの日焼け止めのありがたみがよく分かるな。塗る前にルイスに逃げられたのは誤算だった…気をつけなければ」
「歩き始めるようになってからのルイスの体力が尋常ではありません。無限の可能性を感じます」
陽射しの強い中を歩き回って体力を消耗したことと暴れ疲れたこととで、ルイスはやっと電池が切れるように寝入ってしまう。
そんなルイスを見守りつつ、ウィリアムとアルバートは今日の反省および改善点を挙げていった。
見るからに痛々しいルイスの日焼けした肌は、日光をまともに受けてしまったことによる軽度の熱傷だ。
今まで乳母に指示され惰性で塗ってきた日焼け止めによりそれを経験したことのなかったアルバートは、事前に用意されていたルイス用の日焼け止めの成分表に目をやった。
ウィリアムは手元のタブレットを駆使し、いかに紫外線が肌にダメージを与えてしまうのかを熱心に調べている。
今日は逃げられてしまったが、次は絶対に逃さず日焼け止めを塗らなければならない。
抱っこ出来ない悲しみはなんとか我慢するとして、ルイスの肌が傷付くなど二度とあってはならないことだ。
それが熱傷という火傷に分類されるのならば、尚更許すことは出来ない。
「おやウィリアム。この日焼け止めには虫除け成分も配合されているようだよ」
「へぇ、便利なものですね。ふむ、なるほど…」
美しい庭や青々した森林に虫が棲みつくことは避けられない。
今までは抱っこした状態で短時間しか出歩いていなかったから何の被害もなかったけれど、調べてみれば、平熱の高い子どもは特に虫に刺されやすいという。
なるほど、だから虫除けを兼ねた日焼け止めを塗っていたウィリアムとアルバートは無事で、ルイスは数カ所も虫に刺されてしまったのか。
ぷっくりと腫れた虫刺され跡の周辺には掻きむしったように擦り傷ができており、うっすら血も滲んでいた。
「…可哀想に。痛いのに痒くて、掻いたら掻いたでまた痛い上に悪化させてしまうなんて…」
「完全に私達の落ち度だ。ルイスは何も悪くないのに…すまない、ルイス」
泣き腫らして赤くなったルイスの目元を軽く撫で、ウィリアムは悲痛な表情で弱々しい声を出す。
アルバートも申し訳なさを全面に出して謝罪を繰り返した。
その二人に反応するように、寝入っているはずのルイスは、すん、と鼻を啜って寝息を立てた。
「ルイスは肌が白いから日焼けも長引くでしょう。虫刺されの跡も残るかもしれない。早く治してあげるために僕達が気をつけなければいけませんね」
「あぁ」
「まず手始めに、虫を根絶するために庭を焼いてしまいましょう」
「それはやめようか」
「え?」
何故ですか、一番確実でしょうに。
真面目な顔をして過激なことを言ってのけた弟を制するため、アルバートは首を振りながら「庭の花が無くなったらルイスが悲しむよ」とウィリアムが一番納得するだろう理由を告げた。
以来、賢いルイスはきちんと学習したため、「外に出るときは日焼け止めを塗る」という習慣が付いた。
これを塗れば手も足もひりひり痛くならないし、痒くもならない。
凄いものだと幼いながらに感心したルイスは、大事なねこのぬいぐるみにもちゃんと塗ってあげようとしたところ、慌てた様子の兄に止められてしまった。
ねこさんがひりひりしたらかわいそうだ、と悲しげなルイスが訴えたところ、兄はすぐにねこさん専用の日焼け止めが用意してくれる。
「ルイスは優しいね」
「ねこさんもきっと嬉しく思っているはずだよ」
そんな褒め言葉とともにぬいぐるみに塗られたのは、布専用の除菌スプレーだった。
これならばぬいぐるみの洗濯代わりに丁度いいと、ウィリアムが掃除婦に頼んで奪い取ってきたのである。
そうとは知らないルイスは一緒に日焼け止めを塗ったと信じているねこのぬいぐるみ片手に、今日も元気に庭を駆け回っていた。
「ねこさん、このひまわりおおきいですね。にいさんよりおおきい。にいさまとおなじくらいかな」
太陽に向かって大輪の花を咲かせる向日葵を見上げ、ルイスは青と白と黄色のコントラストを目に入れる。
じんわり汗が滲んでくるのは暑いからだ。
夏は暑くて、冬は寒い。
そんな当たり前のことを日々学んでいる最中のルイスは、だいすきな友達を手に広い庭のあちこちを歩いていった。
「ルイス坊っちゃま、そろそろお水の時間ですよ」
「はぁい」
屋根のある空間に設置されたベンチに腰掛け、子ども用に薄めたスポーツドリンクで喉を潤す。
合間でぬいぐるみにも飲ませようとするが、飲もうとしない姿にしょんもり肩を落としつつ目の前の世界を見る。
日陰の先には太陽で照らされて眩しいほどに明るい空間が広がっていた。
「なつはきらきらしてるんですね」
「そうねぇ、きらきらしてて眩しいくらいに良い天気だわ」
「あかるくて、おはながたくさんさいてて、とてもきれい」
「お花達は太陽がだいすきだもの。きっと嬉しいのね」
明るくて綺麗な世界が、何故かルイスには眩しくて仕方がない。
羨ましいのではなく、憧れているのでもなく、ただ当たり前に享受して良いのかが分からず怯んでしまうのだ。
まるであちら側に行ってはいけないような、この日陰にいなければいけないような、そんな落ち着かない心地がする。
太陽の下でほこほこになったぬいぐるみを抱きしめ、ルイスは頭を振って戸惑いを払う。
そうしてもう一度、日陰を出て行って明るく眩しい太陽の下へと歩き出した。
「もうひと遊びしたら屋敷に戻って、おやつにしましょうね」
「はい。ごごはなんのおべんきょうですか?」
「そうねぇ、今日は積み木のお勉強にしましょうか」
「ぼく、つみきじょうずにできますよ。おしろもつくれます」
「まぁ楽しみ。さぁ、今度はあのブランコで遊びましょうか」
ててて、と小さな足を動かして向日葵が向いている方向へと走り出す。
陽射しは強くて肌を刺すようだけれど、それでも痛みはない。
火傷をしないように配慮された日焼け止めのおかげでルイスの肌は守られており、害虫に狙われることもないのだ。
安全で快適、そしてとても美しいこの世界で生きるのは、なんと素晴らしいことなのだろう。
それをありのまま受けとめて良いのか少しの不安を抱えながら、けれどこの明るい世界を行った先にウィリアムとアルバートがいるのなら、ルイスは迷うことなく足を進める。
明るかろうが暗かろうが、ルイスが向かう先は二人が生きる場所以外にないのだ。
二人が帰ってくるまで元気に遊んで学びながら、幼いルイスは今日もスクスク成長していた。
(さぁルイス、痒み止めを塗ろうか)
(…それ、くさいの。へんなにおい)
(虫刺されが良くなるお薬だからね。変な匂いは少し我慢しようか)
(……や。ルイ、それきらい。いらない)
(そんなこと言わないで、ルイス。大事なお薬だよ)
(いらないの。アルにぃ、ウィルにぃにがルイにひどいことする)
(酷いことじゃないよ、ルイス!)
(ルイス、大事な薬なんだよ。ウィリアムもルイスのために塗ってあげようとしているんだ)
(いらないの!)