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Lê Ma 小説、批評、音楽、アート

小説 op.5-04《アルフレート・シュニトケ、その色彩》…最期の風景。

2018.07.26 23:45




今回の分で、結構な長さになった《シュニトケ、その色彩》の第一部は終わりです。


第二部の方はまだ、書いていません。

Thanhタンと言う少年のその後と、愛という少女の《母親殺し》の物語と、《私》とTrangという少女の、ごっそり抜けている中間の物語になるはずです。


《シュニトケ、その色彩》は、少し前に書いたものですが、いま、書いているのは、ドラキュラをモティーフにした小説と、奇妙な輪廻転生の物語だったりします。


そのうち、また、アップすると想います。


今回の《色彩》エピローグは、どちらかというと、非常に牧歌的な、そういう静かな作品になっています。

気に入っていただければありがたいです。


2018.07.27 Seno-Le Ma









アルフレート・シュニトケ、その色彩









振り向いた私を捉えた Đỗ Thị Trang ドー・ティ・チャン の眼差しが、かすかに揺れた。

「…何?」想わず言った私に、Trang が聴こえなかった振りをしたのを、私は横目に確認し、見るのだった。Trang の家の、ただっ広い庭に樹木が作った、青みを帯びた影が揺れる。









風は感じなかったが、見上げたココナッツの葉が、揺れていた。そのあたりに、風があるのかもしれなかった。


陽だまり。

午後の。

何も言わないままの私にあきらめたように、息をついた Trang が、バイクを転がして、彼女はこれから、ビールを買いに行く。私たちの友人、Nhgĩa 義人のために。

声がして、ココナッツの木によじ登った Nhgĩa 義人が、手を振る。私のためにではない。Trang のために。

なにも、この世の中に苦しみも、悲しみも、わずかばかりの感傷さえも、かつて存在したことなどなかったのだとさえ言いたげに、Nhgĩa 義人は、いつも笑う。ココナッツの果実を鉈で叩いて落とし、庭の地面、その陽だまりと影のちょうど境に、落ちた果実は撥ねて音を立てる。

たわわになった果実が、一つ一つ落とされていくのだが、逆光の中で、その作業の詳細はわからない。

Trangが、わざと難しそうに足を上げ、振った尻を何度もシートになじませて見せながら、大変だわ。Trangの身体が、これ見よがしにつぶやいてい

た。これじゃ、日に灼けてしまう。

鮮やかなまでに褐色の腕を、Tシャツから曝した Trang が、バイクのエンジンを何度か吹かし、スズキの細身のバイクが、いやいや、もたつき乍ら回転を始める。

声を立てて笑った私を振り向き見た Trang が、私に中指を立てて見せるのを、私の腕の中の、Trang が生んだ子どもは、…私が、彼女に生ませた子どもは、ただ、知性のない眼差しの中に捉えた。まだ、一年も立ってはいない。

生まれてから。重力を、その身体がじかに感じ始めてから。


Hanae-Hoa、ハナエ、ホア。花枝=花。

半分は、私の父親がつけた名前だった。ベトナム語のほうを。Hoa…花。私に聞いた。

「花は、ベトナム語、なに。」

脳梗塞で、半身不随になった、そのまともに開かない唇と、まともに稼動しない声帯と喉の筋肉が、はぁんぁあゆっくりと、びぃえとなんんごえ電話ごしに、ないー言葉を刻む。

「…ホア」

言った私に、「ホアがいい。」答えた。ほあぁりー「…ホアが、」私は「いい。」…そう。

じゃ、そうするよ。それでいい?

父は答えない。

携帯電話を、その耳に押し当ててやっているはずの母が、何かを言っているのが、単なるノイズとして聴こえる。

ざらついた、その。

ほあーえい…と、そして、その、父の音声の意味は、私にはわからなかった。

なに?

なぜだろう?なぜ、聞き返すのをためらいなどしたのだろう?


結局のところ、それが最後の会話になった。

その翌日に、両親は焼け死んで仕舞ったから。灯油ストーブの、火の不始末らしかった。いまさら、たぶん、私が中学生の時にはすでに使われていた、日立のあのストーブが使われていたことに、私はかすかに驚いて、しかし、そんな夫婦だった。

確かに、彼らを焼き殺して仕舞うのは、あの、えんじ色のストーブで泣ければならない気がした。

両親が死んだことを、英語も話せない Trang に伝えることの困難さに、そして、そんな苦労をする気にもなれなかったので、結局のところ、一年近くたってさえいても、Trang は彼らの死をまだ知らない。それは彼女に対する裏切りだっただろうか?あるいは、両親に対する怠慢だっただろうか?


日差しにまばたく。

Nhgĩa 義人は、未だに樹木のてっぺん近くから降りてこない。

足元を猫がゆっくりと這って、立ち止まり、目線が合うと、一声だけ鳴いて見せた。

…寡黙な猫の、饒舌さ。


今朝、爛れたように黒ずんだ乳首を両方とも曝して、Nhgĩa 義人の前でも当たり前のようにハナエ・ホアに授乳する。Trangはいまだに、やがて、いつか、私が彼女を捨て去ってしまうことを確信してやまない。

産後に、かえってやつれた、元から貧弱な身体に、いびつなほどに腫れあがり、垂れ下がった乳房が、ハナエ・ホアに吸い付かれ、柔らかく握られたこぶしでなぶられるたびに、ふるえ、揺れる。

私を上目遣いに見上げたまま、唇をすぼめて、何かを伝えようとする。

その意味などわからない。

ただ、私は、私が微笑み乍らうなずいたことを知っている。

吸い付かれもしないままに、まるで邪魔者ででもあるかのように、ハナエ・ホアの握りこぶしに押しつぶされた右の乳房の、乳首が母乳をにじませて、Nhgĩa 義人がベトナム語で何か言った。白。Trang に。母乳の、その。

色彩。

胸元から褐色の肌が、灼かれない乳房に向かって次第に白さを強め、白くなりきる前に、濁点のような乳首の黒い粒立ちに穢される。桃色の唇が、なにか、穢れた果物をくわえ込んだかのように、乳首をしゃぶる。

潤しているに違いない。その口の中、舌の上、喉の中を。

話し続ける Nhgĩa 義人には見向きもしないまま私を見詰めていたが、Trangはいきなり振り向いて、Nhgĩa 義人に甲高い笑い声をくれた。


子どもが出来た、と言ったとき、Line の無料通話の向うで、誰に?言った。

「俺に」…そう、と、誰の?

「俺の」誰と?

「ベトナム人」…そう。

ややあって、結婚したの?問いかけられた私は、まだ。

「するの?」…さぁ。

わざとすれ違うような会話を、わざと重ねながら、母親も父親も、責めることさえしないに違いないことは、その声を聴く前からわかっていたことだった。

結局のところ、すべてを許しているのに違いなかった。何の権限を持って?

明らかなのは、目の前に居る犠牲者の存在だった。Trang、褐色の、かならずしも美しいとは言いきれない、栄養失調児のような痩せぎすの少女。

欲望をいだかれたわけでもなく、なぜ、彼女は私に抱かれなければならなかったのだろう?彼女自身が求めたから。

確かに。

父親には私から言おうか、それとも自分で言うか、と、そういわれて、私は一瞬口籠ったが、私から言っておく、と、返答の余地も無く母親はつぶやくように言い、電話の向うで、彼女はその夫に、孫が出来たことを伝える。

まだ、すでに生まれたのか、まだ生まれてもいないのか、いま、何ヶ月なのかさえ知らないままに。

父親の声など聴き取るまでもなく、彼が喜んでいることは知っている。倒れてから、何かあったら、かならず、とりあえずは喜んで見せた。

無残な気がした。

私は、彼らの残された最後の子どもだった。一人は流産して、もう一人はほんの子どものときに死んだ。

トラックが、ひき殺し、アスファルトに擦り付けるように、肉体そのものを壊して仕舞った。

何がどうと言うわけではない。彼らの存在そのものが。

私は一瞬だけ目を閉じて、開き、開け放たれたドアの向こうの、庭の陽だまりを見る。

隣りの家の鶏が鳴く。

鳴き、羽撃く。

音が立つ。









Trang は、昨日、夜、ベッドの上で、私に馬乗りになった。

ハナエ・ホアは寝息を立てているに違いなかった。

それは聞き取れなかった。

月と、点在した街頭の、かすんだ明かりだけが照らし出した、その、部屋の片隅で、そこに、ハナエ・ホアが存在していることそれ自体を覆い隠すように、ただ、彼女は寝ていた。

私の体の上で服を脱ぎ捨てると、小さく、声を立てて、Trang は笑って見せた。

上半身を苦しげにくの字にまげて、********私の頭を撫ぜる。

***************。

Trang がなにを求めて、そんな事をするのかには気付いていた。

私は、ハナエ・ホアのように。


庭の樹木が、音を立てるのだった。

葉と葉が、無意味にこすれあって。

耳を澄ませるまでもない。その音響は聴こえて仕舞う。意識の片隅で、意識されないままに。


体の上で、**。Trang の体が、***。

こすり付けるように、不器用に動いて、押し付ける。******。

心臓の音?

聴こえるだろうか。首を羽交い絞めにされた、その、苦しい体勢で首をよじれば。

聴くことが、出来たのだろうか?

口に咥えられた、その、匂う。

体臭。生命体。

細胞の、つながりあったそれらの群れ。

聴こえたのだろうか?

血管の中の、脈打つ、血の。

彼女の背中の皮膚が、汗ばんでいるのを知っている。


陽を受けた砂が、白いきらめきを点在させて、何事もなかったかのように、こまやかな、気付かないほどの影を、無際限なまでに散乱させる。

そんなものなど、何も存在しなかったかのような、執拗な、かすかな翳り。


Trang は、いつか、数回小刻みにその黒目を震わせて、上目遣いのままに私を見詰めたまま、まばたく。

あ、と、何を、というわけでもなく、つぶやきそうになった瞬間に、彼女が微笑みかける前に、私は微笑んでいた。


細められた Trang の左眼の縁に、斜めの陽光が当たる。ひさしが作った翳りの下に、その、髪の毛の匂い。


匂う。

影が揺れる。

青ぐらい、淡い、そのくせ、鮮やかな。

見上げるまでもない。

空は青い。そして、雲が。

少しだけ、空を薄く渡った雲が、消えうせそうなたたずまいを曝して、流れる。

地面の色彩。

陰にさえなれない、些細な、気付ききれもしないほどの、その微細な翳りの気配が、地面を流れているのに気付く。


耳のどこかで聴き取られた物音の、細かい集積が、意識の集中を強いることさえなく、そして。


光には、温度がある。

皮膚が、それを知っていた。





2018.06.06

Seno-Lê Ma