青年海外協力隊の創設まで
戦後日本の復興を願う末次一郎氏の日本健青会や寒河江善秋氏の山形県産業開発青年隊、また長沢亮太氏による産業開発青年隊といった青年隊運動を構想する動きが、1950年頃にあり、「日本の復興が進む中、国際社会での活動を視野に入れた展開を考え、後にそれぞれの立場で、海外協力隊構想」を提唱していくことで原型ができあがっていきます。
1954年、日本はコロンボ・プランに加盟し、小規模でありながら開発途上国の支援にのりだします。この機運に乗って日本健青会もアジア諸国との交流を始めます。日本健青会はインドネシアからエビの養殖を指導してほしいと依頼を受けますが、小さな青年団体で資金面から厳しく、これは国の事業として取り組むべきと考え、これが協力隊構想につながっていきます。末次氏は各方面に話を持ちかけ、1954年に日本青年奉仕隊という仮称で実施要綱をまとめます。推進協議会と組織も設立されます。
1961年、アメリカではケネディ大統領が現地のニーズを考慮しない巨額援助ではなく、現地の人々の中に入って、生活を共にし、現地の人々のニーズにこたえるために汗を流すという平和部隊を構想して、世界中から支持されます。この平和部隊構想案が自民党の政府関係者にも影響を及ぼします。末次氏は日本青年奉仕隊構想を政府関係者に提案しますが、反対にあいます。なぜ海外への援助が必要なのか、日本青年の事例発掘、海外協力への青年のアンケート調査、受入国があるか、といった調査を行い結果を各関係機関に報告し、徐々に支持を集めていきます。1963年に末次私案を作成し、最終的に自民党青年局、日本健青会、推進協議会が協力隊構想の各案を策定し、思案します。
1964年に議員、外務省、大学、推進協議会関係者で編成された調査団をアジア・アフリカ11か国に派遣し、実現可能性が高いことが分かりました。このときに名称を日本青年海外協力隊とされます。運営にあたって政府側の外務省所管である海外技術事業団OCTAにリンクすべきという主張と、推進協議会側の独立した別の実施主体をつくるべきという主張が対立しますが時間も限られていて、新しい組織をつくる余裕がないため最終的にOCTAに事業を委託する決定がなされます。
ここで1965年4月20日、日本青年海外協力隊事務局として、協力隊事業が開始します。