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神話と潜在意識

2024.04.27 04:46

http://akkadian.jugem.jp/?eid=8 【猿田彦とスサノヲとアマテラス】より

サルタおよびスサノヲはトルコに実在する都市の名前である。

サルタはsaltであり「塩」または「絶対的な」という意味がある。日本では猿田彦は漁師であったことになっている。日本神話の猿田彦命は「天孫降臨の際に、天照大神に遣わされた瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)を道案内した国津神」とWIKIでは解説している。

スサノヲはアッカド語では「馬の調教師」を意味する。かつてヒッタイト帝国が存在したBC1800年以前にキックリ(Kikkuli)というミタンニ国の人物が書いた「馬の調教の文献」でフリル人であったとされる。ミタンニはフリル人が支配階層だった唯一の国家であるが、そのフリル人はウガリット語を楔形文字で記し、エジプトのアマルナ文書のシリンダーの形をした文書もフリル人が書いている。ウガリット文字はその後、フェニキア文字となりアルファベットへ発展する。

日本神話に登場する神様「アマテラス」は「天」を「照」と漢字を当てているが、Amat-Erasが語源ではないだろうか。アッカド帝国のアマットマムは書記官であったがシュメール王名表を残しているがそのAmatは「支配者」を意味するアッカド語でありMamは「母」の「マザー」となる語彙である。シュメールやアッカドにおける王は神格化され王は神により指名された人物とされたが、「アマテラス」の「Eras」は「above」つまり「超えるもの」の意味がある。「支配者の王を越える存在」という意味が「アマテラス」という名前に込められている。

ちなみに、古事記ではスサノヲはアマテラスを「アネ」と呼んでいるがトルコ語で「アネ」とは「母」のことを意味する。アマテラスが母であって始めて日本神話は納得がいくストーリーである。

猿田彦が伊勢国へ帰る、というシーンはギリシャの歴史家ヘロドトスの「歴史」に登場するリュディア国のクロイソス王がアケメネス朝ペルシアの初代王であったキュロス2世に紀元前547年頃敗北したという歴史に近似してる。


https://yellow-black.cocolog-nifty.com/tabi/2008/10/post-98e8.html 【サルタヒコ】より

スサノオの長男に八島野尊という人がいます。

「清之湯山主三名狭漏彦八島野尊(すがのゆやまぬしみなさろひこやしまぬみこと)」

とっても長い立派なおくり名をもらっているにもかかわらず記紀においては具体的な事跡が何も書かれていない謎の人らしいです。

立派なおくり名が与えられているにもかかわらず具体的な事跡が見えてこないということは、スサノオが暴れ者にされたり、ニギハヤヒ(大歳)が神社の祭神名から抹殺され(天照という称号を奪われ)たと同様に、記紀編集者によってなんらかの改竄や隠蔽がなされたと疑う価値ありです。

で、そのおくり名に”さろ彦”とあることから「猿田彦こそ実はスサノオの長男である八島野尊ではないか?」ということらしいんです。

これは、どうなんだろうか?

猿田彦といえば、まず思い出すのは手塚治虫の火の鳥に登場する鼻のでかいキャラクター。

次に思い出すのは交通安全の神、猿田彦を祭神とする三重県鈴鹿市にある「椿大社」(この神社の交通安全のお札は自動車に貼り付けるお札の定番とも言えるもので三重県ではこの神社のお札を貼って走っている車が多い。)

その猿田彦、なぞの神であり、記紀での扱いはあまり良くないです。まずその容姿の表現ですが、鼻がでかくて目が光ってたとか。司馬遼太郎がこの形容を読んで「なんだか外人のような」と素朴な感想をどこかで書いていたような気がします。褒めているのではなく奇異な容姿として貶されている。また二枚貝に手を挟まれて海の底に沈むというかたちでぶざまな最期をとげます。

ちょっと可哀想なみじめな人が猿田彦。

このように記紀で悪く書かれている場合は、何らかの裏(事情)があると疑ったほうがいいです。

壬申の乱で大変な功を挙げていながらそれが一言も触れられていない「尾張氏」然り。

本当は日本建国の始祖王でありながら、乱暴者として酷い当て字をされている「スサノオ」然り。

(蘇我入鹿=悪人、の記述にもとてつもなく大きなカラクリが隠されているとか・・)

八島野尊とサルタヒコに関する部分を「古代日本正史(原田常治)」の中から拾っていくと、

まず、スサノオの子供達について書かれている章で

「第一子、八島野尊(やしまぬみこと)」

・この長男の八島野尊については色々調べてみたが、あまりはっきりとした事跡がない。

・長いおくり名があることでも、相当立派な人物だったことがうかがえる

・他の弟妹たちがほうぼう飛び歩くし、みんなよく動いていたので、留守番をして出雲を守っていたのではないかと想像される。

として簡単に済ませています。

一方で猿田彦については、

・大国主の時代に九州統治の責任者として出雲より西都に出張していた。

・大日霊女は猿田彦の人格に全幅の信頼を持って、出雲の政治を依頼した。

・武御名方を出雲から追放(出雲国譲り)した後の出雲の政治を猿田彦が行った。

・徹底的な民主政治、神在り月、部族長会議を行った。

と書かれています。また、

・猿田彦を祭神とした佐太神社は、(昔は)出雲の二ノ宮だった(一ノ宮はスサノオの熊野大社)

これを読むとこれだけの人の出自が不明というのはどう考えても変な(怪しい)わけです。

スサノオ亡き後の重要な占領地である九州の統治責任者に抜擢された謎の人が猿田彦

(=>スサノオの長男である可能性が高いのでは?)

出雲国譲りという難しい状況を収拾できる立場、出雲方からの大きな信頼がある猿田彦

(=>スサノオの長男である可能性が高いのでは?)

スサノオの熊野大社が一宮、猿田彦の神社が二ノ宮であったという事実

(=>猿田彦はスサノオの長男である可能性が非常に高い)

祟神天皇が三輪山の大神神社の神主として探し出した人物にオオタタネコという人がいますが、この人は出雲系(スサノオ系?、ニギハヤヒ系?)の直系の人ということで神主に抜擢されたということです。その変な名前のオオタタネコですが以前は「大+多々+ネコ」というふうに考えてましたが、これを「大田+タネコ」というふうに区切ると、サルタヒコの子孫の大田尊との関連性が見えてくるわけです。

猿田彦とは、「スサノオの長男の八島野尊があまりに立派な人だったので、その子孫である豪族の力をそぐために、そのヒーローのような偉大な人物(八島野尊)の事跡をスサノオ直系という史実もろとも歴史から抹殺した。そのときに作り上げられたた(すり替えた)ちょっと滑稽な人物こそが猿田彦」なのではなかろうか・・・・迷宮です^^


Facebook清水 友邦さん投稿記事 ·

世界中の神話は共通の構造を持っています。

英雄は冒険の旅でしばしば恐怖、怒りの感情を表し、復讐や戦いの中で「最大の試練」を迎えます。

最後の難関で邪悪な怪物に追い詰められますが、手に入れた魔法の力を使って追跡をかわし、危機を脱出します。

神話学者ジョセフ・キャンベルによると神話の構造は次の3つのパートに分かれます。

1 セパレーション〈日常世界からの分離・旅立ち〉

英雄は冒険の旅をしに他界に行きます。古代インドの大長編叙事詩『ラーマーヤナ』物語のラーマ王子は、鹿を追って一人森に入っていきます。

2 イニシエーション〈通過儀礼〉

魔王ラーヴァナに妻シータはさらわれ、ラーマ王子は矢で撃たれ、蛇に巻きつかれる苦しく困難な最大の試練に巻き込まれます。

ハヌマンという猿の大将やガルーダと言う大きな鳥に助けられラーマ王子は危機を切り抜けます。これは神話の構造でマジックフライト(呪的逃走)と呼ばれているパターンです。

3 リターン〈帰還〉

危機を脱出したラーマ王子は魔王との戦いに勝利して妻シータを連れて無事に自分の国へ戻ります。

この英雄の旅は、私たちの自我が成熟していくプロセスでもあります。

1 セパレーション

 今まで身につけていた偽りの自我がまわりの環境と合わなくなり、葛藤が強くなって自我がゆらぎます。今までの古い自我を脱ぎ捨てることが起きます。

2 イニシエーション

 古い自我の境界を超えるときに、しまい込まれた過去の辛い記憶や否定的な情動と出会います。その葛藤をあるがままに受け入れることで、新しい自我が形成されます。

3 リターン

 宝物である永遠の命と至福を手に入れて、故郷(日常世界)に帰還します。古い自我は滅び、より器が広がった新しい自我が再生されます。

偽りの自分から、ゆるぎない本当の自分に戻ります。

神話の主人公は以前に失敗を犯した時と同じ状況に見舞われますが、今度は正しい行動を取る事で内面的な成長を遂げます。

受け入れられない状況に陥ると自我は恐怖や不安を感じないようにすぐに思考を強めて情動を感じる通路を封鎖してしまいます。あるがままの自分と直面しないようにしてしまうのです。

そうして自我は自分を誤魔化して偽りの仮面をつけて外からの刺激に反応して生きています。

心の旅とは到底受け入れられない状況の中で仮面を脱ぎ捨て真の自分自身を取り戻して故郷に帰還する旅でもあります。

つまり、人生とは本当の自分である我に帰る旅なのです。


https://chocorin.com/mythology/ 【神々の囁き:ギリシャ神話に見る潜在意識の力】より

ギリシャ神話, 全ての記事 ギリシャ神話

神話と心理学の交わり

神話と心理学は、一見すると異質な2つの分野のように思えるかもしれませんが、密接に絡み合っています。古代神話の心理学的側面は深く、その関連性は現代の私たちの生活にも響いています。神話と心理学はともに、内省、自己理解、共同体のつながりのための手段です。

神話と心理学の関連性

神話と心理学の接点は、内観と自己発見という共通の機能にあります。神話は、社会の内面の葛藤や願望を外部に表現したものであり、無意識の恐怖や願望を表現しています。神話の登場人物の心理的な過程は、私たち自身の内的な葛藤と成長を映し出すものです。神話によくあるモチーフである英雄の旅は、私たち全員の中にある大きな可能性を象徴し、ありふれた日常生活へのこだわりを捨て、自己発見と変革に向けた旅を受け入れるよう促しています。

神話的英雄の旅と心理的な旅

神話の英雄の旅は、さまざまな点で私たちの心理的な旅と類似しています。主人公は、しばしば冒険への呼びかけを拒みますが、これは、私たちが安全に対する幼児的な欲求に固執していることを反映しています。冒険の旅に出ると、主人公は極度の不快感と不慣れさに直面します。これは、私たちが子供時代から成長し、親の保護から離れるときに直面する不確実性を反映しています。主人公が女神や神と出会うのは、親の愛情や保護と自立した大人になるための必要性のバランスをとるという私たちの心理を反映しています。また、主人公が恐怖を克服して悟りを開く姿は、内省して自分の恐怖と向き合うことで得られる深い変化と自己理解を象徴しています。現代では、このような無意識の欲求を表現する必要性を満たすのが精神分析です。精神分析医は、神話の語り部のように、私たちが自分自身や世界、そして宇宙との関係をより深く理解するのを助けてくれます。

ギリシャ神話における潜在意識の表象

ギリシャ神話は、潜在意識を探求するための豊かな舞台となります。その複雑な物語や登場人物は、人間の心理の奥底に潜む恐怖や欲望、動機などを、しばしば意識下で体現しています。

その最も顕著な例のひとつが、オイディプスの神話です。彼は、父を殺して母と結婚するという予言を、知らず知らずのうちに実現してしまいます。この物語は、親子関係における潜在的な欲望や恐怖を反映した、フロイトのエディプス・コンプレックスを示しています。また、パンドラとその箱の神話は、好奇心旺盛な人間が、悪い結果を知っていながら好奇心に負けてしまうという、好奇心と自己防衛の間の無意識の葛藤を描いています。ハデスが支配する冥界は、潜在意識の象徴といえます。死後、魂が宿る神秘的な場所であり、私たちの潜在意識が、意識にない記憶や経験を保持しているのと同じです。

神々のささやき:潜在意識の力のシンボル

ギリシャ神話では、神々はしばしば人間と交流し、彼らの行動に影響を与え、運命を決定づけます。これらの交流は、私たちの潜在意識が、しばしば意識しない方法で私たちの行動を導くことを象徴しています。

狂気と狂乱に関連するディオニュソス神は、潜在意識の不合理な側面を体現しています。ディオニュソスは、狂気と狂乱を連想させる神で、恍惚とした踊りと自制心の喪失を伴う儀式を行い、潜在意識の衝動に身を委ねる状態を映し出します。知恵と戦いの女神であるアテナは、しばしば英雄が困っているときに現れ、指導を与えます。これは、私たちの潜在意識から湧き出る直感的な洞察力や「直感」の比喩と考えることができます。

ギリシャ神話では、神託や予言が重要な役割を果たし、意識的に知っているわけではないが、出来事の成り行きに影響を与える知識を表しています。これらは、私たちの潜在意識が現実を形作る力を象徴していると考えることができます。

現代社会における神話の役割

科学や合理性が重視される現代社会において、神話が果たす役割や関連性はどうなのだろうかと考える人がいるかもしれません。しかし、神話は、歴史的・科学的な意味で文字通り「真実」ではないかもしれないが、その価値は、精神的・心理的な深い洞察にあります。神話は、私たちの内なる葛藤や欲望を外部に現すものであり、潜在意識に湧き上がるものを処理するための象徴的な物語として機能します。

古代、予言者、語り部、神秘主義者は、人々や社会が自分たちの住む世界や人生の主要な出来事を理解するのに役立つ寓話や神話を創作しました。これらの物語は、無意識の恐怖や願望を意識的に表現し、意識と無意識のギャップを埋める役割を担っていました。

今日、この役割を担っているのは、しばしば精神分析医です。無意識の表現である夢を分析し、解釈することで、私たちの言葉にならない恐怖や願望に意味と構造を与えることができるのです。このプロセスは、私たちが自分自身や世界、仲間や宇宙との関係について、より深く、しばしばよりスピリチュアルに理解するのに役立ちます。

現代のヒーロー:現代における神話の力

多くの神話に登場する英雄の旅の原型は、現代においても関連性と力強さを保ち続けています。英雄の旅は、単に遠い昔に滅びた文明の登場人物の英雄的行為にとどまらず、自己発見と変容という内向きの冒険に乗り出す私たち全員の潜在能力を象徴しています。

私たちが内観し、恐怖と向き合い、自己成長を目指すとき、それはある意味、私たち自身のヒーローの旅を実践していることになります。この旅は、プロメテウスやジェイソンの物語に見られるように、神の知恵や力を手に入れた神話の英雄のように、深い精神的な知恵の源を利用することになります。

さらに、神話は私たちを社会的に結びつけ、共同体としての感覚を共有させ続けています。神話に由来する誕生、入門、結婚、死などの儀式は、私たちが自分よりはるかに大きなものの一部であることを思い出させてくれます。神話や儀式を共有することで、私たちは相互につながり、より大きな社会体の一部であることを思い知らされるのです1。

神話は、理性的で科学が発達した現代社会では時代遅れに見えるかもしれませんが、心理的な洞察や共同体の絆を深める器として重要な価値を有しています。神話に共通するモチーフである英雄の旅は、私たちの自己成長と自己発見の原型として機能し、神話の力と知恵が数千年の時を超えて私たちの時代と場所に広がっていることを証明しています。

神話と心理学の探求は、時代と文化を超えた豊かな象徴と意味のタペストリーを発見してきました。神話、特に古代ギリシャの神話は、人間の複雑な心理を映し出す鏡として長い間役に立ってきました。神話は、私たちの潜在意識、恐怖、欲望、そして人生の大きな旅路を理解する方法を与えてくれるのです。

神話に学ぶ潜在意識の力

神話に込められた心理的要素を解き明かすことで解ることがあります。

神話は、内なる葛藤や願望を社会が外部に表現したものと考えることができます。神話は、内なる葛藤や願望を社会が外部に顕在化させたものであり、直接表現することが困難な無意識の恐怖や願望が凝縮されている。

神話の中の英雄の旅は、内省的で精神的な冒険を象徴しています。この旅は、主人公(そして私たちも)が隠れた強みを発見し、心理的に変化するのを助けます。

神話の中のシンボルやキャラクターは、しばしば様々な心理状態や緊張を表します。例えば、主人公が冒険を拒むのは、私たちが安心感を求めていることを象徴しているかもしれませんし、主人公が神のような存在に出会うのは、親の愛と自立の追求のバランスを取る必要性を反映しているかもしれません。

主人公が悟りを開くという旅路の解決は、私たちが皆、深い自己成長と自己実現の可能性を持っているという考えを伝えています。昔の英雄のように、私たちも自分の中にある力を引き出すことができるのです。

潜在意識と自己理解の力

現代の合理的な社会では、神話の象徴的な言葉は、依然として貴重な洞察を与えてくれることがあります。

神話から離れ、心理学や精神分析に頼ってきた私たちは、自分の潜在意識を理解するために、神話の象徴的な言葉を利用してきました。精神分析医は古代の語り部と同じような役割を果たし、私たちの内面世界や宇宙における自分の位置を理解する手助けをしています。

世俗の世界に神話がないからといって、こうした古代の物語の価値が下がるわけではありません。神話は今でも人間の経験において重要な役割を果たし、自己発見と心理的成長の旅を導いてくれるのです。

現代社会においても、英雄の旅は、私たちが変容し、悟りを開く可能性を思い起こさせるものです。神話に登場する英雄のように、私たちも心の奥底へ向かう英雄の旅に出ることができるのです。

結論として、神話に登場する神々のささやきは、現代の私たちにとっても知恵となるものです。神話は、私たちの潜在意識をよりよく理解するためのレンズを提供し、私たちの心理的な旅をナビゲートし、私たちに変化と成長の可能性を思い出させてくれます。古今東西、神話は内省と自己理解のための強力なツールとなり、何世紀にもわたる人類の共通体験と私たちを結びつけています。

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