なるものではなく感じるもの
Facebook相田 公弘さん投稿
漢字には反対の意味が必ずあります。善→悪 吉→凶 生→死
では、幸の反対の言葉はなんでしょう?不幸ですよね。「不幸」って「幸せじゃない」って意味です。
じゃあ「不幸」を表す漢字一文字は?答えは……。「不幸」って意味の漢字は存在しないことに、気づいたんです。
英語でもunhappyはあっても、不幸っていう単語自体は存在しない。この世界に不幸はないのかもしれない。つまり、こういうことです。あなたがいまどんな状況でも、一瞬で幸せになることもできるということです。
不幸の「正体」は現象ではなく「考え方」なんですから。
考え方、見方を変えれば一瞬で幸せを感じることができるということです。
「見方」を変えれば一瞬で人生は「味方」になるのです。
一方、「幸せ」という漢字をひっくり返して見てみて下さい。上から見ても、下から見ても
「幸」は変わらず「幸」でしょ?幸せって、逆さになっても転んでも、どうやったって変わらずに、「いまここ」にあるものなんです。
人生の「当たり」は、「前」にあるんです。だから「当たり前」。目が見える。友達とごはんが食べられる。歩ける。仕事がある。家族がいる。そんな当たり前の中にこそ、幸せの本質があります。
いま一緒にいる、目の前にいる人のおかげで、すべての出来事は起こっています。
あなたの目の前にいる人。すべてが、あなたの当たりなんです。
幸せは、なるものではなく感じるもの。
※思わず涙する感動秘話より
https://forbesjapan.com/articles/detail/28101 【幸せは「なる」ものではなく「感じる」もの】より
角川 素久 | Official Columnist
人生の目的は人によって違う。やりたいことをやる、夢を叶える、お金を稼ぐ、出世する、社会に貢献する、世界を変える、などその大きさも抽象度も人によって違うし、「特にない」という場合もある。私も目的などなくただ生きている。
しかし、ほとんどすべての人に共通することは、「幸せになりたい」ということだろう。もちろん幸せの定義は人によって違うが、「幸せになりたくない」という人はいないだろう。今回のコラムでは、この全人類に共通する「幸せ」というテーマについて書きたい。
先に私の結論を述べる。
幸せというものは、出世の階段を上り詰めて社長になるとか、血の滲むような練習をしてプロ野球選手になるというように、何かを頑張って達成した結果「なる」ものではない。
多くの人は、より社会的地位や経済的地位を上へ上へと登っていった先に「幸せ」があると考えているのではないだろうか。想像してみて欲しい。プレッシャーの多い管理職に昇進したり、嫌な上司と高級レストランに行くより、仕事の後によく冷えたビールを自宅のお気に入りのソファーで飲むほうが、「あ〜、幸せだな〜」と感じるのではないだろうか。
幸せは「なる」ものではなく「感じる」ものだ。幸せになりたければ、幸せを感じられるようになればいい。より大きな幸せを得たいのであれば、自分自身が幸せに感じる瞬間をできるだけ多く持てばいい。そのためには2つの鍵がある。
自分が「幸せを感じる感度」と「幸せを感じる瞬間」である。
幸せはこの掛け算で大きくなる。そして、あくまで「自分が」である。「感じる」のは自分なのだから、他人と比較する必要はない。多すぎる情報と、同質の人々と暮らす社会の中では、どうしても他人と比べてしまう。しかし、自分以外に誰もいない静かな自然の中に身を置いてみて(置いてみたと想像して)、自分はどんな瞬間に幸せを感じるかを考えてみて欲しい。例えば、私の場合はこのような瞬間である。
子どもたちが仲良く(喧嘩せずに)広場を駆け回っているのを見ている瞬間。お気に入りの森の散歩道を、妻と他愛もない会話をしながら歩いている瞬間。1500円のワインを3日に1本、家族が寝静まった後に一人でゆっくり飲む瞬間。
どれも一つ一つは小さなものだが、これらの「幸せを感じる瞬間」をできるだけ多く、できれば日常的に得ることができれば、私は幸せであると言える。
次にもうひとつの鍵である「幸せを感じる感度」だが、特に都会で暮らしていると、この感度を上げることが意外と難しい。上げるどころか維持するのも簡単ではない。我々はあまりに多くのモノと情報に囲まれているので、自然と感度が下がってしまうのだ。
先週、所用がありニュージーランドから東京に一時帰国した際に、とある企業の社長と投資家の方とお酒を飲む機会があった。
東京の夜景が見えるお洒落な場所は、普段私が暮らしている湖畔とは全く違って刺激的で、その光景を見るだけで私は幸せを感じていたが、そこにさらに、これまでに私が飲んだことのないような高級なワインが出てきた。1本20万円のワインだ。既に一次会で何杯かのビールやワインを飲んでいた私にとっては、正直ここに来てそのような高級なワインを飲みたいとは思わなかったが、実際に飲んでみるととても美味しかった。当たり前だ。普段の私のワインの100倍以上の値段である。
ただ、それは本当に美味しいワインだったのだが、同時に私はあることを思ってしまった。私は1500円のワインで幸せを感じられる自分でいたいと。皆のグラスに飲み残されたワインを見て、心からそう思った。
こう聞くと、「お金持ちに対する僻みではないか」「庶民の自分を慰めているだけではないか」と思われるかもしれないが、そうではない。毎日20万円のワインを飲む生活ができたら、私は間違いなく幸せを感じることができる。夢のような生活である。しかし同時に、私は二度と1500円のワインに満足できなくなるだろう。私が幸せを感じていた「1500円のワインを3日に1本、子供たちが寝静まった後に一人でゆっくり飲む瞬間」はもう二度と戻ってこない。
自分の子供時代を思い出して欲しい。毎日がわくわくした日々だったことを。そして誕生日とクリスマスがどんなに待ち遠しかったことか。
人間は大人になるにつれ「幸せを感じる感度」を鈍らせてしてしまっているのではないだろうか。実は私が子育てで一番気をつけていることはこのことだ。子どもたちにはいつも幸せな気持ちでいて欲しい。だからテレビゲームを与えるのはできるだけ遅らせたいのだ。飲み終えたカフェラテのプラカップでどんな工作をしようかと興奮できる子どもたちの「幸せを感じる感度」を奪いたくないのだ。
誤解しないでもらいたいのだが、収入を増やすことや生活水準を上げることを否定しているわけではない。「幸せはお金では買えない」と言っているわけでもない。それどころか、幸せを感じるにはある程度のお金が必要だし、そのためにある一時期には「幸せを感じる瞬間」を犠牲にしてでも頑張ることも必要だと思っている。
私はただ、既に普通に生活するのに困らない経済状況にありながら、それでもなお上へ上へと果てしなく登り、その先に幸せがあると信じて苦しんでいる人に伝えたいだけなのだ。既に目の前に自分にとっての「幸せを感じる瞬間」があるのなら、それを得られる生活や働き方を考え、自分の「幸せを感じる感度」を守ることで、幸福感は上げることができるということを。
私の住むニュージーランドという国は、幸福度ランキング上位の常連である。2019年は世界156カ国中で8位。日本は58位。
経済的には小国で、モノも情報も日本に比べると圧倒的に少ないこの国の人々が、なぜいつもあんなに楽しそうなのかと、私はいつも不思議に思っていた。しかし、今回久しぶりに東京に戻ってみて気がついたことがある。幸せを感じることを最も阻害しているのが、「多すぎるモノと情報」だと。
少ない方がいいと言っているのではない。多すぎることが問題なのだ。「多すぎるモノと情報」がノイズとなって、自分だけの「幸せを感じる瞬間」が自分でも見えなくなり、「幸せを感じる感度」が鈍ってしまうのだ。
幸せを感じている人とそうでない人の差は、単に経済力の差でもなければ社会的地位の差でもない。幸せは苦労した末に得られる成果でもない。思考や行動を変えることですぐにでも「感じる」ことができる。つまり、誰でも実践できる「幸せになる技術」があるのではないかと思うのだ。
ニュージーランドには政情不安な国から逃れてきた難民も多いが、彼らは日本のことを「夢のような国」だという。いまだに世界屈指の経済力を持ち、他国と比べるとそれでも圧倒的に良い治安に恵まれている日本に住む人々が、今よりもっと多くの幸せを感じることができ、いつしか幸福度ランキングの上位に浮上してくることを願ってやまない。