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埼玉県 (10/04/23) 蓮田市 (5) 黒浜地域 笹山、黒浜 (1)

2023.04.11 10:08

黒浜地域 黒浜・笹山

旧笹山村


旧黒浜村

伊豆島

長崎

新井

黒浜馬場 (くろはまばんば)、藤ノ木

宿上



今日は蓮田市の東の黒浜地域を訪問する。


黒浜地域

黒浜地域は元荒川の東側に位置しており、南と東にはさいたま市、北には白岡市に隣接している。この白岡市とは新合併特例法の期限の2010年 (平成22年) 迄に、2005年から二度も合併協議が行われたが住民投票で反対票が過半数となり、実現しなかった。黒浜は土地利用区分では黒浜市街地 (緑町・桜台・椿山・西新宿・西城)、黒浜調整地 (黒浜・笹山・江ヶ崎・川島・南新宿・城) に区分されている。

黒浜村は1889年 (明治22年) の町村制施行より黒浜村、城村、南新宿村、笹山村、江ヶ崎村が合併し南埼玉郡黒浜村が誕生している。この時には綾瀬村と平野村も発足した。1940年 (昭和15年) に黒浜村大字江ヶ崎の一部が慈恩寺村および日勝村に編入され、慈恩寺村大字鹿室の一部が黒浜村に編入された。1951年 (昭和26年) に黒浜村大字江ヶ崎、南新宿、黒浜の各一部が日勝村に編入され、日勝村大字実ケ谷の一部が黒浜村に編入された。1934年 (昭和9年) に綾瀬村は蓮田町と名称変更し、1954年 (昭和29年) に蓮田町に黒浜村、平野が編入されている。1956年 (昭和31年) に岩槻市の一部を蓮田町に編入し、1972年 (昭和47年) に現在の蓮田市となっている。

黒浜地域は蓮田市域の東部に位置し、西側は行政拠点で住宅地と工業地、東側は文教厚生拠点で、農地と集落地からなっている。西側は都市的ゾーンと位置づけ、東北自動車の蓮田サービスエリア (下り線) 一帯をその交通の利便性から工業・流通業務系ゾーン、蓮田サービスエリア (上り線) 周辺を蓮田サービスエリア(上り線)周辺ゾーン、それ以外は専用住宅地ゾーンとして都市計画を立案している。蓮田市作成の蓮田市都市計画マスタープラン (2021) ではその計画の具体的内容やマイルストーンは記載されておらず、目指す将来図が見えないのは残念。東側は集落地ゾーンと農業系ゾーンとしてはいるが、この地域では高齢化と農業後継者不足により、遊休農地の増加や屋敷林の荒廃が進んでいるが、その対策や今後の土地利用計画は明確でない印象を持った。

蓮田市都市計画マスタープラン (2021 蓮田市) にある黒浜地域概要と活用土地の定義は以下の通り。

  1. 専用住宅地ゾーン - 戸建て低層住宅
  2. 住商複合地ゾーン - 住宅と商業施設
  3. 集落地ゾーン - 集落と緑地や農地
  4. 工業・流通業務系ゾーン - 高速自動車交通の利便性を生かした工場や流通業務施設区域
  5. 農業系ゾーン - 地域の東側一帯に広がる一団の水田や畑、農業基盤の整備、耕作放棄地の計画
  6. 公園・緑地・レクリエーションゾーン -  黒浜貝塚、黒浜公園、日野手緑地周辺、黒浜沼を、スポーツや文化・芸術活動、生涯学習やボランティア活動の拠点として整備・活用の計画。
  7. 蓮田サービスエリア(上り線)周辺ゾーン - 蓮田スマートインターチェンジを生かし市の活力を育成する機能の集積を目指す区域としているが全く意味不明な定義でこのゾーンの機能は検討中としている。
  8. 公共公益施設ゾーン - 東埼玉病院と隣接する学校。

残念ではあるが、蓮田市都市計画マスタープラン (2021) は現状をまとめた程度のもので、明確な将来像、現状の問題点、実現のための課題、具体的対策、実行計画はお粗末な内容だった。漠然とした期待する将来や問題点認識はあるのだが、その分析と計画具体化に悩んでいることが見える。



旧笹山村、旧黒浜村 訪問ログ



旧笹山村

現在の大字笹山は黒浜地域の中に囲まれてある。旧笹山村は現在の大字笹山よりも広い地域だった。黒浜地域の中には幾つもの村があったのだが、こに笹山だけが、黒浜地域の中で独立した行政区になっている。黒浜地域の中では比較的有力な村だったのではと思われる。

大字笹山の人口推移は下のとおり。蓮田市内では4番目に人口の少ない地域になる。


資料に記載されている笹山の寺社仏閣や民間信仰の塔は以下の通り

  • 仏教寺院: なし
  • 神社: 稲荷神社
  • 庚申塔: 2基  馬頭観音: 3基

馬頭観音 (1番)

蓮田市文化財 石造物サイトの地図に従って馬頭観音 (1番) を訪問した。田圃の脇を通る道沿いにはそれらしき物は見当たらず、周りを探していると、民家のビニールハウスで仕事をしている女性がいたので聞いてみた。隣の雑草が茂る中にあるのだが、正確な場所は分からない。昔は家があり、人も住んでいたが、引っ越して行った後は雑草で覆われている。以前、石造物調査で人が来た時はあったというので、藪の中に入って探す事にした。場所がわからないので、藪の中を掻き分けて探す。諦めかけていたのだが、地面に石柱が倒れているのを見つけた。これが探していた馬頭観音観音で、1892年 (明治25年) にここに住んでいた人が建てたものだ。写真右はまだ藪になる前のものでちゃんと建っていた写真。調査の時に撮られたものだろう。馬頭観音は村とか講で建てたものではなく、個人が飼っていた馬の供養の個人所有なので、ここに様にその所有者が居なくなると管理されずこのようになってしまう。


庚申塔 (4番)

馬頭観音 (1番) のすぐ北側に整備された道路が北西方向に走っており、その道沿いに庚申塔 (4番) が置かれていた。周りは田圃が一面に広がっている。この道は江戸時代は街道だったのだろう。庚申塔は江戸時代幕末の1855年 (安政2年) に笹山村の入り口に建てられたという。塔本体正面上部には日・月が浮き彫りされ、その下に庚申塔の文字が刻まれている。文字の下には三猿も半彫りになり、台座左側面には「右 こうの (す) 左 いわつ (き)」と刻まれて道しるべを兼ねていた。やはりこの道は鴻巣と岩槻を結ぶ街道だった。


稲荷神社

庚申塔がある旧街道を北西の鴻巣方面に進むと民家がちらほら見えて来る。ここが昔からの笹山村になる。道沿いに稲荷神社がある。笹山には神社はここだけなので、村の鎮守になるのだろう。ここで注目したのが鳥居で小さな神社ではシンプルな神明鳥居か明神鳥居なのだが、ここの鳥居は明神系瓦葺笠両部鳥居という珍しい立派な鳥居が置かれている。鳥居を入ると1847年 (弘化4年) に寄進された手水鉢が参道脇にあり、参道奥に社殿がある。

境内にはもう二つ祠が置かれている。

  • 稲荷明神  (写真上) - 1831年 (天保2年) と1835年 (天保6年) に稲荷神社氏子により寄進された稲荷明神石塔が祠の中に納められ、村の豊作祈願、一家繁栄祈願している。 初午、4月、7月、8月の例祭では供物と御輿が奉納されているそうだ。
  • 天満宮 (写真下) - 建立時期は不明だが、祠の中には丸彫の菅原道真坐像が祀られている。台石に「笹山村 筆子中」と刻まれていることから、寺子屋の筆子たちによる造立と考えられている。

境内には幾つもの山岳信仰に関わる巡礼地の名を刻んだ石塔が置かれている。多くはおそらくここにあった山岳信仰の富士塚に置かれていたものと思われる。

  • 佐太比古の大神 (写真上中)  - 1889年 (明治22年) に富士講によって建立され佐太比古 (猿田彦) を祀っている。
  • 浅間大神  (写真中左) - 1880年 (明治13年) 建立で富士山を神格化した浅間大神を祀っている。
  • 小御嶽神社  (写真上右) - 造立時期は不明だが、富士山5合目にある神社を勧請したもの。
  • 経ヶ岳  (写真下左) - 造立時期は不明だが、富士山6合目にある経ヶ岳を祀っている。
  • 三国第一山  (写真中右) - 造立時期は不明だが、富士浅間神社を祀っており、三国第一山は平城天皇が富士浅間神社に贈った称号。
  • 烏帽子岩  (写真中右) - 造立時期は不明だが、冨士講の巡礼地の食行身禄の入定地だった富士山の烏帽子岩を祀っている。

この石塔に混じって、三つの力石 (写真中中) も置かれていた。力石は村の若者たちが集まり力自慢をしていたもので、大体は村の行事の中心地に置かれていた。その一つには二十五貫目とあり、約94kgで当時は農作業で担ぐ一俵が米俵一俵は16貫 (60kg) で20-30貫目の力石は標準の重さだった。


馬頭観音 (2番)

稲荷神社の北には東西に走る道がある。この道沿いに1874年 (明治7年) に造立された馬頭観音 (2番) があり、石塔正面には馬頭観世音菩薩と刻まれている。


庚申塔 (5番)

馬頭観音 (2番) の道を東に進んだ道沿いに庚申塔 (5番) があり1835年 (天保6年) に造立されたもので、石塔正面上部に日・月を半彫りにし、その下にm「庚申塔」の文字が刻まれている。台石には三猿が浮き彫りされ、石塔左側には道しるべの「右 こうのす 五り 左 じおんじ二十五丁」と刻まれている。やはり、この道も江戸時代には主要な街道だったのだ。先程の庚申塔 (4番) が置かれていた街道と合流して鴻巣に通じている。じおんじとはこの東にあるさいたま市の慈恩寺の事。この庚申塔から東側は一面農地となっており、この場所見村に入り口の一つだった様だ。


馬頭観音 (3番)

笹山地区から北に外れた所、黒浜沼 (下沼) の東に1909年 (明治42年) に造られた馬頭観音 (3番) が置かれている。ここは笹山地区ではないのだが、蓮田市文化財石造物リストでは笹山地区のものとして紹介されている。昔はこの辺りも笹山村だったのかも知れない。石塔の正面には馬頭観世音菩薩と刻まれて、ここに住んでいた人が飼っていた馬の供養のために建立したもので、正月、毎月1日、15日に幣束とご飯を供えているそうだ。


以上が笹山地区で訪れた史跡。続いて黒沼地域に史跡巡りに移る。




旧黒浜村

旧黒浜村は広範囲で、その中には多くの村、部落があったのだが、どのような村、部落があったのかをはっきりと示す資料が見当たらなかった。明治時代の地図や資料でわかる範囲で、個々の地域の史跡を見ていく。

大字黒浜の人口推移は下のとおり。蓮田市内では面積も広く最も人口の多い地域になる。2017年には黒浜から、その3分の1の人口が藤ノ木が分離独立し大字になっている。


資料に記載されている黒浜の寺社仏閣や民間信仰の塔は以下の通り

  • 仏教寺院: 真浄寺 (新井)
  • 神社: 諏訪神社 (長崎)、弁天社 (新井)、黒浜久伊豆神社 (南)、竹内神社 (南)、秋葉神社 (馬場)、山王神社 (宿上)、稲荷大明神 (宿上)
  • 庚申塔: 4基  馬頭観音: 10+2基

罵倒観音 (3番、9番) については城訪問レポートに記載



伊豆島


元荒川

この日は元荒川沿いのに舗装に道を東に向かい黒浜地域の史跡巡りにを開始した。上に書いた笹山部落を訪問する前には黒浜地域の伊豆島部落を訪れた。元荒川沿いを走ると先に森が見えて来た。そこが伊豆島部落になる。

江戸時代以前の荒川は、秩父山地からの水を集めて大河となって、熊谷、鴻巣、春日部あたりを通り、元荒川を経て、越谷あたりで利根川 (古利根川) と合流し、最下流域では、当時の入間川と合流し、最下流域部分が現在の隅田川で江戸湾に流れ込んでいた。

荒川は蓮田台地、黒浜台地の下を流れていた。 荒川という文字通り、この川は流路も定まらない大変な荒れた川だった。蓮田台地の西側を綾瀬川が、黒浜台地の西側を元荒川が流れ、東側ににっかわ (にっかわ西、下流は古隅田川) が流れていた。江戸時代になり、1629年 (寛永6年) に荒川を利根川から熊谷市あたりで分離し、流れを変えて入間川の支川であった和田吉野川に繋いだ。(現在の荒川の流路) 蓮田を流れていた元々の元荒川と呼ぶようになった。 新しい荒川の本流は、当時の入間川を通り、隅田川の川筋を経て、江戸湾に注ぐようになった。


黒浜土地改良記念碑

元荒川の周辺の低地部分は5~6000年前までは奥東京湾の海底だった。この黒浜地域は複雑に入江の入り組んだ地だったと考えられている。

その後、海退が進み、沼沢地となり400年前頃、江戸に幕府が開かれて、1629年 (寛永6年) に元荒川となった以降、黒浜の台地よりも元荒川の水面の方が高い為、黒浜地域の人々は排水路作ったり、沼地のまわりの田に沼の土を掘り上げるなどして、度重なる河川改修工事や排水路の工事によって改良に改良を行なって現在の農耕地となっている。


伊豆島の大蛇

伊豆島部落の民俗行事の一つが、春祈祷の厄除け行事で、約200年前に集落内に入った悪い病の魔除け、災難除け、疫病除けとして大蛇を作り、5月1日に集落境界の2 ヶ所 (現在は3ヶ所) に立てたと言われている。かつては笹山部落でも実施されていたが、現在ではここの伊豆島部落のみが行事を続けている。今日は北側の大蛇を見学した。大蛇は昨年の5月に作られたもので、随分とくたびれている。来月に新しい大蛇と入れ替わる。設置する前には蛇に酒を飲ませてて身を清め厄除けを祈願し、古い大蛇は一年の務めを終えた後も感謝して酒を飲ませるそうだ。

この場所が伊豆島部落の北の境界とするとここから元荒川との間が集落があった事になり、小さな部落だった。この北側にも民家が密集しているが、そこは伊豆島ではなく、さいたま市の上野地区になる。


馬頭観音 (10番)

伊豆島部落の東端、元荒川沿いに馬頭観音 (10番) があるのだが、地図では民家の敷地内にあるとなっていた。ちょうどこの家の女性がいたので、尋ねると、道沿いの垣根の中にある馬頭観音を教えてくれた。この馬頭観音が建てられた経緯は知らないのだが、祖父が戦争で馬に乗っていたからかも知れないと言っていたので資料に載っていた1802年 (享和2年) に造られたと伝えるとその古さに驚いていた。この駒角柱形の馬頭観音は珍しく観音の頭の上に髪が逆立つ馬が大きく浮き彫りされている。垣根の中にあるので馬頭観音の全体が上手く撮れなかったので、資料にある写真 (右) を借用した。



長崎

笹山部落から北の黒浜地域の長崎部落に移動する。諏訪神社の北側に長崎部落の民家が集まっている。長崎村は新編武蔵風土記稿に「古へ黒浜の地なりしを何頃にや隣村江ケ崎村の民、開墾して一村となせりと言う。 正保の改めにはこの村を記さず、元禄の改めには黒浜村の枝郷長崎村とあれば、 全く別村となりしは元禄後のことなり今も村内皆耕地にし て民家二〇余りは黒浜村に住り」と記されており、元禄時代 (1688 – 1704年) の開発で人々が住み集落が作られたと考えられる。当時は沼沢地のなかに突き出た半島状の形で黒沼下沼から黒沼公園ぐらいまで南北に約2.3km、東西300m程の幅の細長い部落だった。最新の地図では日野手という地域名に変わったいる。



黒浜沼 (下沼)

長崎部落への手前、南側に黒浜沼がある。黒浜沼は二箇所に分かれており、こちらは下沼にあたる。下沼への道がなく、田圃の中に沼がある。個人の田圃を突っ切っていくのは気が引けるので、道路から下沼を撮影。

黒浜沼は大昔の奥東京湾の入江の名残りの海跡湖だったが、数百年前頃からこれを埋め立て田をつくり始めた。初めの頃は沼地の中の土地の高い所を田に開墾し、船を使って耕作をしていたそうだ。


諏訪神社

下沼の北側に長崎部落の鎮守の諏訪神社がある。この諏訪社は、長崎部落を始めた増田善右衛門直吉氏が、彼の故郷の諏訪大社 (長野県諏訪市) より勧請して創建された。大国主命の次子で、武勇にすぐれ、国ゆずりを拒み敗れ、信濃の諏訪に退き天照大神の命を奉じたと伝わる建御名方大神を農業の神とし、その御神体の鎌を祀っている。朱塗の鳥居をくぐり参道の奥に幣殿とその奥に本殿がある。現在の社殿は焼失後、昭和50年に再建されたもの。


庚申塔 (21番)、天神、荒神

諏訪神社内に本殿の他に祠があり、祠の前には1926年 (大正15年) 寄進の社寺型手水鉢が置かれ、祠の中には庚申塔、三宝荒神、天神の三つに石塔が祀られている。石塔の前に密着して賽銭箱が置かれ全容が見れないので、資料にある写真も一緒に載せておく。

  • 庚申塔 (21番 右) -1756年 (宝暦6年) と古い時代に造られ、駒角柱形の正面上部には瑞雲を伴う日輪・月輪、その下に餓鬼を踏む青面金剛立像、更にその下には二鶏三猿が浮き彫りされている。左側面には「奉造立庚申尊石像塔」と刻まれている。
  • 天神 (中) - 1841年 (天保12年) に諏訪神社氏子により造立されてた切妻唐破風角柱形の石塔に菅原道真坐像と梅の木が浮き彫りされている。
  • 三宝荒神 (左) - 1784年 (天明4年) に諏訪神社氏子により造立の寄棟破風角柱形の三宝荒神塔で正面に「荒神」の文字が刻まれている。

拝殿の両側にそれぞれ一つずつの力石がある。この場所は長崎部落の村人が集まる所だったのだろう。共に造立時期は不明だが、それぞれに「辛未七月二十七日 奉納力石二十六貫目 長崎村」、「奉納力石二十八貫目 長崎村」の文字が刻まれ、重さは約97.5kgと105kgのもの。


馬頭観音 (12番)

長崎部落の東端に馬頭観音 (12番) がある。かなり新しいもので、1964年 (昭和39年) 造立の隅丸角柱形の石塔正面に「馬頭観世音 供養塔」の文字が刻まれている。この家では毎月日と15日、正月、盆に供物を供えているそうだ。

黒浜沼 (上沼)

長崎村の西側に黒浜沼 (上沼) がある。黒浜沼は大昔の奥東京湾の入江の名残りで、海水が引いて時に内陸に閉じ込められてできた海跡湖になる。数百年前頃からこの沼を埋め立て、耕作地に変えていった。その初期には沼地の中の土地の高い所を開墾し船を使って耕作をしていた。現在は上沼と下沼の二つに分かれている。人為の影響が少ない湿地には絶滅危惧種を含むたくさんの湿生植物と昆虫類、120種もの鳥類など生息密度が高く湖沼特有の生態系を維持している。平成21年には緑のトラスト保全第11号地に指定されている。

黒沼となった入江は満水時の荒川の水位より低いので、耕作には水を排水する必要があり、黒浜地域の人々は排水路 (新堀) を作っていた。この排水溝は当初は元荒川に伸びていたが、明治期になって新堀を改良し隼人堀 (白岡町) に水を流す様に変更されている。黒浜沼 (上沼) から下沼、諏訪神社南を経由しての新堀が伸びている。



新井

黒浜沼 (上沼) の西側は新井村だった地域になる。いつ頃、この村が出来たのかが分かる資料は見つからず。明治時代の地図では新井ではなく平方という地名が記載されている。



弁天社

黒浜沼 (上沼) の西側に弁天社がある。朱塗りの鳥居をくぐり、参道を進むと境内を囲む堀跡があり、そこに神橋が架かっている。橋を渡ると1927年 (昭和2年) に奉納された社寺型の手水鉢が置かれ、奥に弁財天を祀る社殿が置かれている。ここには新井地区の第一自治会館が置かれている。

境内には天保年間 (1831 – 1845年) に造立された天神を祀った切妻破風形の塔があり、菅原道真坐像が浮き彫りされている。

弁天社の入り口付近は広場になっており藤棚があった。このあたりは藤の名所だそうで、5月には綺麗な藤の花が見られるという。まだ時期には少し早く、咲き始めたばかりだった。


馬頭観音 (5番)

黒浜沼 (上沼) の南の道沿いに造立時期は不明ながら駒角柱形の馬頭観音の石塔がある。正面に文字が刻まれているのだが、摩耗が激しく判読不能。今でも正月には注連飾りと供物が供えられているそうだ。


弁財天石塔

馬頭観音 (5番) の南の道沿いに偶然、石塔を見つけた。正面には辨財天と刻まれ、その側面には「西 蓮田澤ニ至 約□」「東 杉戸町ニ至 約□」とあり、道しるべも兼ねている。


地蔵尊、道しるべ

弁財天石塔から道しるべに従って蓮田沢方面に向かうと「火の見下」のバス停があった。この名の由来が気になった。調べても分からなかったが、すぐ近くに消防団があったので、昔はここに火の見櫓があったのではないかと思う。バス停向かいには地蔵尊が置かれている。 1750年 (寛延3年) に造立され、舟形塔上部に地蔵菩薩を表す梵字「カ」が刻まれ、その下に地蔵菩薩立像と蓮華座が浮き彫りされている。地蔵の脇には「奉造立現当安楽」と刻まれ、現世と来世の二世安楽祈願をしている。地蔵尊の横にはこれも同じ年の1750年 (寛延3年) に建てられた隅丸角柱形の百箇所巡礼塔がある。石塔には「奉順禮 西国 坂東 秩父 百箇所」とあり、巡礼後に記念碑として建てられている。左側面に「右 志おんじ道 左かうのす」と刻まれて、鴻巣への道しるべにもなっている。志おんじとは大宮の四恩寺のことだろう。この「志おんじ」は蓮田市内の道しるべに多く現れているので当時はランドマーク的存在だったのだろう。


真浄寺

火の見下の南側には曹洞宗法蓮山真浄寺が建っている。1511年 (永正8年) に開山を章山周文禅師、開基を館林城主赤井山城守家堅の弟で赤井但馬守家範として草創されたと伝わっている。

寺の塀の外に祠がある。連中縄がかかっている。中を覗くとほら貝、木魚、数珠なども置かれている。寺に関わる祠なのかも分からないが、修験道関連の祠の様な気がする。寺境内にも祠がある。この寺の情報は見当たらず、中には仏像が安置されているのだが、これも何を祀っているのかは分からず。

寺の奥にある墓地入り口には以前の鬼瓦が置かれている。その側には六地蔵、無縁塔があり、その中には、1371年 (元徳2年) の板碑があり、阿弥陀三尊を表す梵字が刻まれている。

真浄寺の本尊は釈迦如来でその体内に15cm程の空洞に腹籠竜宮仏が安置されているといわれている。この竜宮仏については伝承が残っている。資料に掲載されていた。

天文年間にこの地域に疫病が流行し、村の人々は毎日神仏に祈り、仕事も手につかない状態で恐れおののいていた。寺の和尚もこれは困ったことだ。何とか村人を救うことはできないかと御仏に香を毎日寝ずに祈り続けていた。 ある日、疲れた和尚がうたた寝をしていると御仏が夢枕にたち「西方の沼の中で御仏が寒がっている。一日もはやくお助けして供養をおこたらなければ疫病はなくならないだろう」と告げて立ち去った。さっそく夜の開けるのを待って、信心深い若者に夕べの話をして、西方の沼に網をうたせたが、網をいくらうっても御仏は現われなかった。和尚さんは「そんなことはない」と言って、これは村の衆が半信半疑 でいるためだと思い、みんなでお祈りをしようではないかと沼の辺りに祭壇をつくり一心にお祈りした。日も傾きかけ、あきらめかけたとき若者の網に仏像がかかった。それを見て村人は手に手を取り合い喜びさっそく仏様をきれいな水で洗い、沼の辺りに堂を建て盛大な法要を行った。すると村中に流行していた疫病もうそのように治っていった。このときから西の沼を堂沼 (黒浜南小学校の校庭あたり?) と呼ぶようになったそうだ。 水の中から現れたということで誰いうとなく竜宮仏と言うようになった。その後、暫くは村も平和な日々が続き村人たちは畑仕事や薪木集めに精を出していたが、何年もたって仏様のことを忘れかけていたとき、高熱にうかされるという病気が起こった。またたく間に病気は村中に広がり、誰いうとなく何かの祟りではないかと言いふらす者が出てきた。村役で相談し、旅の年老いた修験者に頼み、祭壇をつくって祈祷を行った。修験者は「仏様が寒さで困っていらっしゃる」 というお告げがあり、探し出して手厚く祀りなさい」と告げて立ち去っていった。村人は昔に堂沼からあがった仏様ではないかと言うことで和尚にこの話をすると、和尚はしばらく考えてから小さな仏様で寒いといわれるのだからもっと大きな仏様を作ってお腹の中に納めてはどうかと言って、大きな仏像のお腹の中に納め、村中に流行していた悪病も治たそうだ。

寺の入り口にもこの仏像の由来を記した案内板が置かれていた。微妙に異なっている。

永正年間 (1504 ~ 1521年) の頃、周文禅師という高僧が旅をしていた。 そして風光明媚なこの地が気に入り、堂を建てしばらく住むことにした。 数年後、東の方にある沼に、毎夜怪しい光を放つものがあり、村人は気味悪がってよりつかなかった。禅師は、村人の恐れているものを取り除いてやろうと、沼の水際で一心に座禅を組むと、不思議な声が聞こえてきた。「この沼の底に沈んでいる仏像をお堂に祀れば、村人は幸福になるだろう。」禅師は、翌日この話を村人に聞かせ、沼の中を捜してもらった。 沼は広く深いので、なかなか見つかららず、捜し疲れ休んでいると、すうっと、水の上に仏像が現われた。 お釈迦様の像で、禅師は、水で洗い清め、お堂に祀った。村人は、この仏像を、沼底から現われたので「竜宮仏」と呼び、仏像の見つかった沼を「堂沼」と呼ぶようになった。この話を聞いて、前から禅師の徳を慕っていた館林城主の赤井氏信公が訪ねて来て、竜宮仏を祀る立派な堂を建て、宝蓮山真浄寺と名付けた。それから約200年後、元禄年間の頃、村中に悪疫が流行した。そこで雄厳という和尚が、村人を救ってくれるように と竜宮仏にお願いをすると、ある夜、「竜宮仏を裸のまま祀ってあるからだ」と、お告げがあった。和尚は、さっそく、別に大きなお釈迦様を造り、その胎内に竜宮仏を収めた。すると、不思議なことに、はやり病は無くなったという。


庚申塔 (20番)

真浄寺の西側道沿いに庚申塔が置かれている。1754年 (宝暦4年) に南講、新井平方講中、番場講中により造立された笠付角柱形の庚申塔で、石塔の正面には上から瑞雲を伴う日輪、月輪、餓鬼を踏見つけた青面金剛立像、二鶏三猿が浮き彫りされている。正月には注連飾りが施され拝まれているそうだ。



新井村と笹山村の間にあったのが南と呼ばれる地域になる。



馬頭観音 (7番)

先に訪れた笹山村との境界線になっている南北に走る道沿いに馬頭観音 (7番) が置かれている。比較的新しく、1910年 (明治43年) 造立の駒角柱形馬頭観音 (7番) で、石塔正面には馬頭観世音の文字が刻まれている。


馬頭観音 (8番)

笹山との境界線の道を更に南に進むと、もう一つ馬頭観音がある。資料の場所を探すも道沿いには見つからない。馬頭観音は庚申塔とは異なり、個人が飼っていた馬の供養塔なので、必ずしも道沿いにあるとは限らず、屋敷敷地の端に置かれている事も多いので、その様な場所を探すと、垣根の内に置かれているのを見つけた。1900年 (明治33年) 造立の隅丸角柱形の馬頭観音 (8番) の正面には「馬頭観世音」の文字が刻まれ、正月に供物を供え拝まれているそうだ。



黒浜馬場 (くろはまばんば)

南村から道を先日訪れた川島橋に戻る。ここから北に沿って伸びているのが藤ノ木地区で、この場所は藤ノ木四丁目になり、黒浜馬場と呼ばれていた。「ふじのき」は台地から低地へ向かっての傾斜地という意味だそうだ。確かに、このあたりは元荒川から高台になっている。資料などでは確認出来なかったのだが、この地域が黒浜の中心地だった様に思える。



黒浜久伊豆神社

川島橋の東側に神社が二つある。その一つがこの藤ノ木地域の鎮守になる久伊豆神社だ。黒浜の久伊豆神社は室町時代の享禄年間 (1528 ~ 1532年) に騎西町の玉敷神社より勧請されて、その後、小田原城が落城した後に身をかくし、この地に修験者となり居を構えていた元上総国真里谷城主の勝利正 (すぐれとしまさ) が1611年 (慶長16年) に願主となり再興したと伝えられている。祭神は大己貴命、大日霎貴命、菅原道真命。1752年 (宝暦2年) には神祇管領ト部兼雄より久伊豆大明神の弊帛を受けている。黒浜久伊豆神社は宝蔵院持だったが1873年 (明治6年) の神仏分離で独立し、黒浜村の村社となっている。 一の鳥居には1880年 (明治13年) に笹山村、丸ヶ崎村、長崎村、川嶋村の冨士登山講社により寄進された四角型の石燈籠、国旗掲揚台、板碑が二基置かれている。

二の鳥居を潜ると1841年 (天保12年)に奉納された手水舎が置かれ、参道の奥には、1881年 (明治14年) に伊勢太々講社により寄進された阿形と吽形の狛犬に守られた拝殿、その奥には本殿がある。本殿は権現造りで、妻飾、斗拱、装飾彫刻等は、江戸時代後期の神社建築様式の良く残し、蓮田市指定文化財となっている。

参道の脇に祠がある。1871年 (明治4年) に菅原神社、稲荷社など二社を合祀され、この祠はその稲荷神社になる。隣には丸講の拝山記念碑がある。

この他にも、境内にはいくつもの山岳信仰にまつわる伊勢講、富士講、丸講などの拝山記念碑や伊勢神宮参拝記念碑が置かれている。


甲子塔 (23番、24番)、子育て地蔵尊

久伊豆神社の社殿の前に三つの石塔が建てられている。

  • 子育て地蔵 (中)  - 造立は1819年 (文政2年) で舟形の石塔に右手に錫杖、左手に子供を抱きかかえた地蔵菩薩立像が半彫りされている。
  • 甲子塔  (23番 向かって右) - 黒浜村氏子講中により1752年 (宝暦2年) に建てられた甲子塔で角柱状の石塔に「奉納 甲子待講諸願成就」の文字が刻まれている。甲子塔は十干と十二支それぞれの最初である甲と子を組み合わせた甲子の日に行う講行事で大黒天を祀っている。大黒天は大国主と習合しており、野火で焼き殺されそうになった大国主を鼠が助けたという『古事記』の逸話から、子 (鼠) は大黒天の使いとされている。
  • 甲子塔 (24番 向かって左) - 甲子塔 (23番) と同じ時期、同じ講中により造立されたもので、角柱状の石塔に「奉納 甲子待講諸願成就」の文字が刻まれている。


竹内神社

久伊豆社の右側の森を少し入ったところに竹内神社がある。日清戦争 (1894年) で亡なった竹内少尉を祀っている。竹内少尉は慶応三年に黒浜村に生まれ、黒浜学校で学び、陸軍幼年学校で士官候補生となり、陸軍士官学校を優秀な成績で卒業、広島連隊騎兵隊に配属され日清戦争に従軍していた。戦地で捕らわれ、耳をそがれ、目をえぐりとられ拷問を受けたが、日本軍の戦闘機密をもらさなかった。日本軍は朝鮮を落し勝利となったが、その際に少尉は殺された。このことを知った明治天皇は「竹内少尉の行動は軍人の鏡である」と誉め称え正五位を贈り家族に金一封を贈りその功をねぎらっている。地域の国会議員、県会議員や村当局の人々の手により神社が造営され以後軍神として地域 の人々から慕われてきた。


馬場公園、大日如来

黒浜久伊豆神社から北西に伸びる県道162号線の西側の住宅街の中に馬場公園 (写真上) がある。「馬場」とあるので、確認は出来なかったが、かつては馬場があったのだろう。資料地図ではこの馬場の西は観音寺跡となっている。今では存在しないのだが、公園の端に大日如来像 (写真下) があった。かなり古いもので、1673年 (延宝元年) に造立され、舟形の石塔に法界定印を結ぶ胎蔵界大日如来坐像と蓮華座が浮き彫りされている。これは観音寺の名残かもしれない。年末に幣束を供え拝まれているそうだ。


子育て地蔵尊、地蔵尊、馬場自治会館

馬場公園のすぐ近く、県道162号線沿いに祠の中には子育て地蔵尊が安置されている。1733年 (享保18年) に造立されたもので、右手に錫杖、左手に宝珠を持つ地蔵菩薩立像と蓮座が丸彫りされている。祠の脇にも1700年 (元禄13年) 造立の地蔵尊がある。舟形石塔上部に地蔵菩薩を表す梵字「カ」が刻まれ、右手に錫杖、左手に宝珠を持つ地蔵菩薩立像と蓮華座が浮き彫りされ、地蔵の脇には「奉造立地蔵菩薩一尊現世安穏後生善所」と、現世と来世の安楽祈願されている。この場所には馬場自治会館が置かれているので、この地域の中心地だった事が分かる。


秋葉神社

馬場自治会館の道を挟んだ北側にも祠がある。秋葉神社の堂宇になり、堂宇中には小さな不動明王と大黒天が祀られている。


馬頭観音 (11番)

秋葉神社から県道162号線を少し進んだ所にも堂宇が置かれている。于堂の中には馬頭観音が置かれている。この馬頭観音は新しく造られたものの様で、蓮田市の資料には載せられていない。祠の脇には花が供えられた駒角柱形の馬頭観音 (11番 写真中下右) が置かれている。1867年 (慶応3年) に造立されたもので、正面には「馬頭観世音」の文字が刻まれている。2月10日には人参、穀物、天ぷら、きんぴらを供えるそうだそうだ。飼っていた馬の好物だったのだろうか?


庚申塔 (19番)

更に県道162号線を進むと庚申塔 (19番) が置かれていた。1812年 (文化9年) に黒浜村講中 (南組、出嶋組、新井組、馬場組) により造立された山角柱形の石材で、正面上部に瑞雲を伴う日輪・月輪が浮き彫りされ、その下に庚申塔の文字が刻まれ、台座には三猿が浮き彫りされている。正月に供物を供えて拝んでいるそうだ。


地蔵尊

県道162号線の藤ノ木交差点を越えると地蔵尊が置かれている。1769年 (明和6年) に造立されたもので、右手に錫杖、左手に宝珠を持つ地蔵菩薩立像と蓮座が丸彫りされ、台石正面に「為現当二世安楽」と現世と来世の安楽祈願した文字が刻まれている。


新井堀の内遺跡

地蔵尊から東に入る道があり、その道を進むと広い空き地に出る。ここでは岩付城城主太田資正の家臣野口多聞の館と伝わる屋敷跡遺跡が発掘されており、堀で囲まれていたので新井堀の内遺遺跡と呼ばれている。

戦国時代の館を囲む幅6m、深さ2mの2条の堀跡や、中世の陶磁器、かわらけがある井戸跡、堀跡の内側には多くの柱穴のほか、井戸跡や土壙、更に縄文時代前期の住居跡も見つかっている。

また、ここからは国内最大級の埋蔵量の銭を納めた甕も見つかり、甕の中には木簡が納められていた。



宿上

県道162号線はかつては黒浜の目抜き通りの街道で、黒浜宿場だった。宿場は先に見た道沿いの地蔵尊から山王神社までの間にあった。この宿場の西側の地域は北側を上、南側を宿下と呼ばれていた。



天神 (29番)

県道162号線に戻り、道を進むと宿上の東端を走る県道162号線の道端に菅原道真像を浮き彫りにした天神が置かれていた。1854年 (嘉永7年) に造られたもので、正月には注連飾りをして拝まれている。黒浜にはこの様な石柱の天神が多くあるのは面白い。天神が庶民に広く信仰されていた事が分かる。


山王神社

県道162号線を北に進むとかつての黒浜宿の北端の場所、宿交差点に山王神社の堂宇が置かれている。堂宇中には山王大権現の板碑が置かれている。1685年 (貞享2年) に造られた駒角柱形の石板に「奉請 山王大権現」の文字と三猿が刻まれている。正月に注連飾り、酒、供物を供えて拝まれている。

于堂の脇にも角柱形石塔 (写真下中、下右) が置かれている。1844年 (天保15年) に造立されたもので「天満宮」の文字が刻まれ、菅原道真を祀っている。


稲荷大明神

天神と山王神社の間、県道162号線から西に入った住宅街の中に稲荷大明神の祠があった。この神社の情報は見つからなかった。


阿弥陀如来 (2番)

稲荷大明神の近く、住宅街の中の空き地に自然石形の石造物が残っている。これは比較的新しく、1933年 (昭和8年) に造立されたもので、摩耗して文字は読めなくなっているのだが、資料では「阿弥陀如来地先祖」の文字が刻まれているそうだ。盆と彼岸に線香を供え拝まれている。


庚申塔 (22番)

宿交差点から東に道を取り、東北自動車道を越えると、道沿いに庚申塔 (22番) が置かれている。1744年 (延享元年) に造立され、駒角柱形の庚申塔の上部に瑞雲を伴う日輪、月輪、その下に餓鬼を踏みつけた青面金剛立像、更に下には二鶏三猿が浮き彫りされている。左側面には、現当二世安楽祈願して「奉造立庚申尊像現当安楽処」と刻まれている。この庚申塔は道しるべを兼ねており、「是より南ぢおんち道 是よ里西かうのす道」と記されている。(ぢおんち = 慈恩寺、かうのす=鴻巣)


黒浜貝塚

庚申塔 (22番) の北側には黒浜公園となっている。ここには黒浜貝塚と言って、縄文時代前期中葉の貝塚跡が発見され、関東地方を中心に見られる黒浜式土器の標式遺跡で、昭和50年に県指定史跡に、平成18年には国指定史跡に指定されている。黒浜貝塚は谷を挟んで二つの集落があった事がわかっている。


宿浦遺跡

その一つの宿浦のムラでは炭釜屋敷貝塚が発見され、更に、集落中央部分に北側谷部に向かって開口する窪地状の広場があり、それを取り囲むように、住居跡51軒、土坑約50基、生活面廃棄貝層5ヶ所が確認されている。

宿浦ムラの北側は谷になっており、現在は公園の中で川が流れている。

庚申塔 (未登録)、辨天御霊神

黒浜貝塚の宿浦遺跡の公園の東を走る東北自動車道の脇に二つの石塔が置かれていた。一つは1825年 (文政8年) に黒浜村住民により建てられた庚申塔で、正面上部には瑞雲を伴う日輪、月輪が浮き彫りされ、その下に庚申塔の文字が刻まれ、台石には三猿も浮き彫りされている。側面には「ちおんじ」と刻まれているので道しるべも兼ねていた様だ。その隣の石塔は辨天御霊神と刻まれており、1940年 (昭和15年) に弁天を祀り造立されたもの。


椿山遺跡

宿浦ムラからスロープを登った所がもう一つの椿山遺跡 (椿山のムラ)になる。 宿浦のムラとほぼ同時期に存在していたと考えられるが、貝塚が形成されておらず対照的な集落が形成されている。跡地は整地されて蓮田市文化財展示館と蓮田市役所が建っている。駐車場の脇には縄文時代の住居が復元展示されている。


庚申塔 (未登録)、坂東秩父西国百箇所供養塔、力石

蓮田市文化財展示館の駐車場入り口には三つの石造物が置かれていた。この場所に展示用として移設されたのだろう。

庚申塔 (左) は蓮田市の石造物リストには掲載されていない。文字型の庚申塔で貝塚村の住民が造立した事が刻まれているが、造立年を刻んだ文字は摩耗して読めなかった。

坂東秩父西国百箇所供養塔 (右) は1849年 (嘉永2年) に造立されたもの。側面に祈願している人の浮き彫りと願主名と造立年が刻まれ、合わせて、志おんじとも刻まれているので、道しるべにもなっていた事が分かる。その隣には力石も置かれていた。


蓮田市文化財展示館

この場所には蓮田市文化財展示館は是非見たかったのだが、もう5時を過ぎて閉館していた。次の機会に訪れたい。


この時点で5時半を過ぎており、日も暮れ始めている。まだ、黒浜地区の史跡は予定していたものすべては見れていないのだが、時間が来たので、残りは明日に持ち越しとする。


参考文献

  • 故郷歴史探訪 (1992 中里忠博)
  • 蓮田市地名誌 (1992 中里忠博)
  • 蓮田の歴史 (2015 中里忠博)
  • 蓮田の歴史をしろう (中里忠博)
  • 蓮田市史・石造物調査報告書一覧
  • 蓮田市史 通史編 I (2002 蓮田市教育委員会)
  • 蓮田市都市計画マスタープラン (2021 蓮田市)